第7章 ホモ・デウスとホモ・マネス——操作と実存の独立変動
「我が家」と言うとき、そこに数えられているのは、顔を見なくとも、そこにいれば気配だけであっても誰かとわかる幾人かである。「我が村」なら、数十人、数百人——顔の浮かばない者も、たどれば誰かの縁者である。「我が国」と言うとき、同じ「我が」のうちに、会ったこともない何万、何千万の人が入ってくる。全員と直接会話をすることなどできない。
それでも、ここに「我ら」がある。異国の旅先で同郷の者に会えば、見ず知らずのまま、どこか近しい同胞意識を抱く。遠くの見知らぬ同胞の災いに、胸は動く。だが、心の動き方には濃淡がある。顔の浮かぶ一人の不幸は重く、顔のない千人の不幸は、同じ「我ら」のはずなのに、遠い。「我ら」という言葉の届く範囲と、実感の届く範囲は、同じではない。
顔も知らぬ「我ら」を、私たちはどこまで、「我ら」と感じていられるのか。
§7-1 なぜ人間文明はここまで巨大になることができたのか
「MANESの三層」(第6章)——座標系・報酬関数・共存条件(ES)——は、担い手に依存しない水準でその輪郭を描いたものだった。同じ三層が、十分な帯域を持つ知性(たとえば仮想的に構想されたブラックホール計算文明)では最小複雑度まで縮退しうるし、人間文明では豊富で可塑的で争われる相をとる。だが、その三層が成立することと、それが数億・数十億の規模で機能することとのあいだには、なお隔たりがある。
協働の規模そのものは、人間の専有物ではない。アリの超巨大コロニーは推定で数十億個体規模に及ぶとされ、シロアリの塚も、単一個体の視野をはるかに超える範囲を一つの系として動かしている。菌糸のネットワークに至っては、どこまでを一個体と数えるかがすでに定義の問題になる。頭数を比べるかぎり、人間はさほど突出していない。
違うのは、その規模を支えている 「我ら」の輪郭が何によって決まっているかである。遺伝的近縁性と化学的な標識と固定的な分業によって規模を得ている系では、「我ら」の境界は個体の生涯のうちに書き換わらない。誰が同胞であるかが問われることも、争われることもない。座標系も報酬関数も ES も、系の外側で——進化史の時間尺度で——決まっている。「MANESの三層」(第6章)の語彙で言えば、これらの系の MANES は、巨大な規模のまま最小複雑度の近くへ縮退している。
人間文明の側は逆である。「我ら」の輪郭は一世代のうちに拡げられ、縮められ、引き直される。誰が同胞かは宣言され、否定され、争われる。数億・数十億という規模が、書き換えられうる輪郭のまま維持されている。何が成立すれば MANES と呼べるかはわかった。では、何が成立すれば MANES が、書き換えられうるまま、巨大な規模で機能しうるのか。
帯域という制約
人間の認知について、一つの事実が知られている。同時に保持しうる情報の数は、わずか数チャンク——およそ 3〜5——に厳しく限られている。具体的な数値は個人差や訓練によって多少変動するであろうが、低い一桁台の有限数であるという制約そのものは動かない。
この数字は人間の思考空間が三〜五頂点しか持たないことを意味しない。意味するのは、ある瞬間に並列に保持されうる単位の数である。次の瞬間には、別の三〜五単位が前景化されうる。人間の認知が抱える事情は、ある瞬間に前景化できる単位数が低い一桁台で打ち切られる、という形で現れる。
並列に保持される単位は、それぞれが内部に下位構造を持ちうる——一つのラベルが連合の網を呼び出すように。しかし内部の豊富さは無料ではない。各単位の内部が複雑になれば、保持される単位数は減るか、保持の精度が下がる。三〜五という上限は、単位の数と各単位の内部豊富さのトレードオフのもとに成立している。
帯域制限が「我ら」拡張に課す上限
「我ら」が一つの集合として自然に保持されているとき、その構成員の輪郭・関係・履歴の少なくとも要点が、各個体の認知のなかに保たれている。直接的な顔と名前、声と振る舞いの記憶、互いに何をしたかの履歴——こうした個別情報を媒介とした「我ら」については、各個体の帯域に逐次積み上げざるをえない。
ロビン・ダンバーが推定した約 150 人という上限は、この帯域制限から自然に説明される数である。各個体の認知が直接的に追跡できる関係の数は、二桁の上限を超えない。直接的接触のみによって構成された「我ら」は、本質的にこの規模で打ち止めとなる。
ところが、人間文明はこの上限をはるかに超えて拡張してきた。同じ国家のなかで一度も会ったことのない人々が「同胞」として組織され、互いに見たこともない世代を「祖先」「子孫」として位置づけ、誰も見たことのない神々や理念のもとに「我ら」を構築してきた。しかも、そうして構築された「我ら」の輪郭は、そのつど引き直されてきた。直接的接触の上限を超え、なお争われうる「我ら」の構築——これが人間文明の MANES の特性である。
媒介接続——上限を超える条件
直接的接触の上限を超えた「我ら」がどう構築されたか。「LEFFLAとLOT」(第3章)は、広い操作の射程と厚い引受をともに保つことは単独の担い手の能力を超え、それが保たれている場面では、担い手と担い手のあいだで「我ら」を運び、引受を支える何かが常に介在している、という観察を立てた(観察される傾向 第Ⅰ部-3)。その「何か」を、ここで名指す。各個体の認知が直接的接触ではなく、共有された媒介物を介してつながる構造である。本書ではこれを媒介接続と呼ぶ。
媒介接続を担うものは多様である。共有された言語と物語、共有された記号体系、共有された制度と慣習、共有された記録と書物、共有された通貨と契約、共有された信仰と神話。これらは、各個体が他のすべての個体を直接知ることなく、共有された媒介物への参照を通じて互いに「同じ我ら」に属することを可能にする。
これらの媒介物に共通するのは、参照する側がそれを書き換えうるという性質である。個体間を媒介する共有物は人間文明の専有物ではない。フェロモンの場もまた個体と個体のあいだに立ち、直接的接触なしに集団を組織する。だが、媒介物の側を参照者が書き換え、書き換えをめぐって争う構造は、人間の文明に特徴的である。
媒介接続の構造は、帯域の制約を回避するのではない。各個体は依然として限られた帯域のなかで生きている。媒介接続が成し遂げるのは、各個体が少数のチャンクで巨大な「我ら」を指し示せることである。「同胞」「カトリック」「労働者階級」——これらの一語は、数百万・数千万・数億の個体を一つの集合として呼び出すラベルとして機能する。各個体の帯域はこの一語を保持するだけでよく、その参照対象の全体を直接に追跡する必要はない。
書き換えられうる媒介接続は、人間文明の MANES が可塑的なまま巨大化することを可能にした認知条件である。これがなければ、人間文明の MANES は、ダンバー数程度の小集団に閉じこめられていたか、さもなくば規模と引き換えに輪郭を固定していたであろう。
HZ動態のなかのMANES——二方向の滑落圧のもとで
帯域制限のもとで媒介接続を通じて巨大化した MANES は、しかし、何かを達成して完成する装置ではない。「圧縮から創発する世界」(第2章 §2-2)で確認したとおり、動いている系はすべて HZ(創発可能帯域)の内側に動的に維持されることでしか持続しない。HZ から外れる方向は二つに区別された——Flux 過剰の方向(HZ⇧(散逸方向)、流れが構造を散逸させてしまう側)と、Stock 過剰の方向(HZ⇩(硬直方向)、流れが詰まり構造が固定して動かなくなる側)。両方向の滑落圧のあいだに動的均衡を保つことが、動いている系として持続するための条件だった。
文明レイヤーで動いている MANES もまた、この動的均衡のなかにある。集団的 MANES は、各個体の参照と更新を通じて絶えず Flux を受け取りながら、座標系・報酬関数・ES の構造として一定の Stock を保持する。受け取る Flux が過剰になれば共有の輪郭が散逸する。Stock が過剰になれば構造は固着し、新しい入力への応答が止まる。MANES は、両方向の滑落圧のあいだに動的に維持される構造物である。
ここから一つの帰結が出る。HZ の内側にある MANES には、つねに二方向への滑落圧がかかっている。緊張のない安定点は、この構造のなかに位置を持たない。張力が抜けているとき、系は散逸したか固着したかのいずれかであって、動いている系ではない。
§7-2 ハラリの像——虚構の共有と構築型の位相転換
サピエンスの三革命
人間文明はなぜここまで巨大になることができたか。この問いに対する一つの回答が、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』『ホモ・デウス』に提示されている。ハラリはホモ・サピエンスの拡張軌道を、認知革命・農業革命・科学革命の三つの転換として描いた。
認知革命(およそ七万年前)は、人類が現実に存在しない事物について語り、互いに信じる能力を獲得したとされる転換である。神々・氏族の祖先・部族の起源神話——直接の感覚経験に対応物を持たない事物が、共有された言語によって複数の個体に同じ姿で抱かれるようになる。ハラリはこの能力を虚構を共有する能力と呼ぶ。
虚構を共有する能力が人類にもたらしたのは、ダンバー数の上限を超える協働である。直接的に互いを知らない個体どうしが、「同じ神の子」「同じ祖先の子孫」「同じ部族の成員」として、同じ「我ら」に属することができるようになる。協働の規模は、直接的接触の上限から虚構の共有可能性の上限へと跳ね上がる。
農業革命(およそ一万年前)以降、人類は定住し、土地を耕し、余剰を蓄え、所有と権力を制度化した。科学革命(およそ五百年前)以降は、自然法則の発見、技術の累積、産業化、そして地球規模での経済・政治・通信の統合が進んだ。ハラリは『サピエンス全史』でこの軌道を辿り、『ホモ・デウス』ではその延長線上に、自らを神のごとき力で再定義する人類像——ホモ・デウス——を素描した。
虚構の共有とは何を共有することか
ハラリの議論の核は、虚構の共有が単なる物語の共有ではなく、共有された虚構を媒介として行動が調整される構造にある、という洞察である。
国家・通貨・株式会社・人権——これらはいずれも物理的な対応物を持たない構築物である。それでも数億の個体がこれらを実在するかのように扱い、税を納め、契約を結び、所有を移転し、暴力の独占を国家に委譲する。実在しない事物が共有されるだけで終わらない。実在しないはずの事物のために、実在する資源・労働・命が動員される。この調整能力こそが、人類を独特の協働規模へ導いたとハラリは論じる。
虚構の共有は、媒介接続のきわめて強力な一形態である。共有された虚構は、各個体の認知に直接たどり着く必要がなく、参照可能な共有物として外部に置かれる。各個体は自分の帯域制限のなかで、この共有物への参照を保持するだけで、巨大な「我ら」の一員として行動できる。
三軸の座標系と六つの位形
ハラリの軌道を本書の枠組みで読み直すために、ここで一つの座標系を立てる。意識・文明レイヤーで動いている系の状態を、三つの軸で記述する装置である。
第一の軸は、操作能力である。系が実際に操作している範囲——「操作能力的我ら」の射程。市場、サプライチェーン、通信網、エネルギー網、政策の波及——制度構造のネットワークが届く広がりの大きさ。
第二の軸は、集合の大きさである。系が「我ら」として枠組みづける範囲——構造的階段としての「我ら」(「圧縮から創発する世界」第2章 §2-7)のどこに止めどころを置くか。家族、都民、国民、人類、そして自らを地球の細胞と数えるところまで——粒度はさまざまでありうる。
第三の軸は、実存感である。「個の私」と「我ら」の同一性が体感される強さ——「実存的我ら」の厚み。「これは私のことだ」「これは我らのことだ」がどれだけ体感を伴うか。
三軸は、互いに独立に変動しうる。操作能力は制度構造の拡張で広がる。集合の大きさは「我ら」を切る止めどころで決まる。実存感は、媒介接続(§7-1)が機能している範囲にしか成立しない。三つは別の論理で動く。
ある瞬間の系の状態が取っている形——三つの軸がそれぞれどれだけ張っているか——を、本書は位形(configuration)と呼ぶ。位形の本来の姿は、文明という高次元の対象の複雑な形である。それを三つの軸だけに射影すると、三軸の相対的な大きさの関係が前景に残り、位形は一つの直方体として現れる。横が操作能力、縦が集合の大きさ、奥行が実存感(図7-1)。
この座標系もまた、一つの射影である。「世界を切り取る幾何学」(第1章)で見たとおり、写すことは、何を保存し何を捨てるかを選ぶことである。この直方体は、文明という高次元の対象から三つの方向を選んで残し、それ以外を落とす。たとえば、系を絶えず通過している流動(第2章)は、この図のどこにも描かれていない。射影である以上、これは唯一の描き方ではない。本書は先で、同じ対象を別の方向から切る射影を立てることになる。さしあたり本章は、集合の大きさを軸として残すこの像で、文明の位形とその移行を描く。
直方体は、三軸の相対関係しだいで、さまざまな形を取る。以下、典型的な六つの位形を取り出す。番号(位形1〜位形6)は、図7-1 に描いた六つの形に対応する。
位形1:小さな均衡——小立方体
三軸とも小さく、しかし均衡している配置。狭い操作能力、狭い「我ら」、狭い範囲の中での厚い実存感——「我ら = 個の私 = 操作の射程」の同一性は保たれているが、その規模が小さい。前近代の村落、修道院、狩猟採集集団——これらは構造的にはこの位置にいた。
位形2:実存感だけが大きい形——奥行だけの直方体
操作能力も集合の大きさも小さいが、実存感だけが大きい。狭い集合と限られた操作の射程のなかで、「個の私」と「我ら」の同一性が体感として強く立ち上がっている状態。位形1 の小立方体から実存感の軸だけが先行して伸びる形でも、位形3 の大立方体から集合と操作能力が縮減して実存感のみが残る形でも、同じ構造的位置に到達しうる。
位形3:大きな均衡——大立方体
三軸とも大きく、ほぼ均衡している配置。広い操作能力、広い「我ら」、厚い実存感。三者が同じ規模で立ち上がっているため、系は「我ら = 個の私 = 操作の射程」の同一性を体感として保てている。歴史上、これに完全に到達した文明はほとんど見られない。だが、強力な MANES が成立した瞬間——集合的引き受けの覚醒、共同体的高揚、ある時代の文明的精華——は、この方向への近似として理解される。そしてこの位形は、§7-1 で見たとおり、個の帯域では維持できない。歴史のなかでこれに近づいた状態は、いずれも媒介接続を介した、集団としての近似である。
位形4:実存感だけが薄い形——薄い直方体
操作能力も集合の大きさも大きいが、実存感だけが薄い。広域に作動する制度構造を持ち、建前としては「人類」「地球」を「我ら」に取りながら、「個の私」とその「我ら」の同一性が体感されない状態。観察される傾向 第Ⅰ部-2 で記述した乖離が極端化した姿——「操作能力的我ら」だけが拡張し、「実存的我ら」が追いついていない。
位形5:操作能力だけが大きい形——細長い直方体
操作能力だけが大きく、集合の大きさも実存感も小さい。狭い「我ら」のまま、その狭い集団の操作の射程だけが拡張する形。少数の権力中枢、ごく少数のエリート集団、あるいは「我ら」をほとんど持たない技術系の独立行為者——こうした形が、構造的にはこの位置にいる。
位形6:集合の枠だけが残る形——縦だけの直方体
集合の大きさは保たれているが、操作能力も実存感も縮退している。広い「我ら」の意識は残っているが、それを支えていた媒介接続——制度・分業・通信網・物流——が断絶し、操作の射程が崩落した状態。同一性の体感も媒介接続の劣化とともに薄まる。大規模な戦争、システム障害、生態系崩壊といったクライシス的破局を経た直後の構造的描像が、この位置にあたる。
六つの位形は、構造的な目印として置かれる。実際の系は、これらのあいだのどこかにあり、しかも時間とともに位形を変えていく。その移行を記述する装置が、次に立てる位相転換である。
構築型の位相転換として読む
ハラリが描いた拡張軌道は、本書の枠組みでは構築型の位相転換として読み直される。
位相転換とは、本書において、MANES の状態を、いま立てた三軸の座標系のなかで、ある位形から別の位形へ移行する経路として記述する装置である。物理化学から借用した語であるが、本書では文明レイヤーの構造的描像として独自に再定義して運用する。
構築型の経路は、座標系上で次のように描かれる。
- 出発——位形1(小さな均衡):前駆型の小さな共同体。直接的接触で支えられた小集団
- 実存感の先行——位形2(実存感だけが大きい形):虚構の共有によって、直接的に知らない人々と「同じ我ら」を体感できるようになる
- 追随の累積——位形2 から位形3 へ向かう中間の膨らみ:農業・国家・市場・科学・産業の累積により、操作能力と集合の大きさが拡張する
- 到達——位形3(大きな均衡):構築された巨大文明
認知革命は、位形1 から位形2 への跳躍に対応する。実在しない神々や祖先を共有することで、実存感の軸が直接接触の上限を超えて拡張する。農業革命以降の累積は、位形2 から位形3 へ向かう中間の膨らみの進行に対応する。実存的な「我ら」の上に、制度化された操作能力と人口規模の拡張が積み重なる。科学革命と近代化は、位形3(大きな均衡)への到達に対応する。三軸がすべて拡張し、地球規模の協働が現実に機能する状態に到達する。
ハラリの『サピエンス全史』が描いたのは、構築型の経路全体である。『ホモ・デウス』が予告するのは、位形3 に達したさらに先で起こりうる別の位相転換である。
構築型の意義と本書での扱い
構築型の位相転換は、人間文明の到達した規模を構造的に説明する経路として、本書の議論の出発点に置かれる。ハラリの像を尊重して参照しつつ、ただし本書はそれを唯一の経路としてではなく、複数の位相転換類型のうちの一つとして位置づける。同じ座標系のうえに、構築型とは別の経路が論理的可能性として描かれうる。
本書が見込む位相転換の類型は、構築型のほかに三つある。
選別型——ある軸を縮めて別の軸へ系を寄せる経路。図7-2b の例では、実存感と集合が絞り込まれ、選別された狭い「我ら」の操作能力だけが残る。
縮退型——三軸のいずれかの収縮が先行して、別の位形へ落ちる経路。図7-2c の例では、実存感の縮退が先行し、媒介接続の劣化とともに操作能力も崩れる。
破局再建型——一度位形を崩壊させ、別の位形から組み直す経路。図7-2d の例では、戦争・災害などの断絶で三軸が同時に崩落し、そこから再建へ向かう。
本章はこのあと構築型だけを扱う。残る三つの類型は、この座標系が描ける経路の見取り図として、ここに置かれる。
§7-3 二つの「我ら」の独立変動——ハラリが明示しないもの
ハラリ的軌道の暗黙の前提
ハラリが描いた構築型の経路——位形1 から位形3 への拡張——には、暗黙の前提がある。三軸が常に同じ方向に動くという前提である。
虚構の共有によって実存感の軸が広がるとき、操作能力の軸もその後を追って広がる。操作能力が広がるとき、集合の大きさもまた広がる。三軸はからまり合いながらそれぞれ膨らんでいき、ついには位形3 の巨大な立方体に到達する。ハラリの軌道は、この同方向運動を前提として素描されている。
この前提は経験的には妥当な近似である。実際、構築型の経路を辿った文明では、三軸はおおむね連動して拡張方向に動いてきた。問題は、この同期的な拡張方向への運動が論理的に必然かという点にある。本書はそうではないと考える。三軸は、論理的には独立に変動しうる。
「我ら」の二つの位相
「我ら」という一語が指している事柄は、実際には少なくとも二つの異なる位相を含んでいる。
一つは 「操作能力的我ら」——制度・分業・法・契約・通信網・経済・軍事といった、外部に物質化された装置の網を通じて、互いに直接知らない個体どうしが調整された行動を取りうる範囲。ある国家の枠内で、税が徴収され、法が執行され、貨幣が流通し、軍が動員される——その範囲が「操作能力的我ら」である。
もう一つは 「実存的我ら」——「個の私」と「我ら」の同一性が体感されている範囲。個の私が経験することと、「我ら」が経験することのあいだに、運命の連続性が感じられている範囲。同じ国家の枠内であっても、ある事件を「我らの悲劇」として受け止める個人と、「他人事」として受け止める個人がいる。その差が、「実存的我ら」の境界が走る場所である。
両者は同じ集合を指しうるが、概念的に同一ではない。操作能力的に「同じ我ら」に属している個体どうしが、実存的には「同じ我ら」を共有していないという事態は、論理的に可能であり、経験的にもしばしば観察される。逆に、実存的に「同じ我ら」を共有している個体どうしが、操作能力的には別々の系に属しているという事態も可能である。
ハラリの軌道では、この二つが同じ方向に動くことが前提されている。本書はその前提を外す。
独立変動が生む構造的可能性
二つの「我ら」が独立に変動するのであれば、その組み合わせはどのような構造的可能性を生むか。本書はこれを次の段階表として整理する。段階表は、三軸の座標系(§7-2)から集合の大きさを畳み、操作と実存の二軸の関係だけを取り出して読み直した、論理的可能性の空間である。時系列的な発展段階の主張ではない。位形(§7-2)が三軸の張る形そのもの——絶対的な配置——を分類するのに対し、段階は二軸の比——相対的な関係——を刻む。同じ事態を、別の分解能で切った二つの読みである。
| 段階 | ラベル | 関係 | 構造的特徴 |
|---|---|---|---|
| ① | 「我ら」未成立 | 操作能力的個体 = 実存的個体 | 個体だけの状態。直接的個体の網のみ |
| ② | 「我ら」萌芽 | 「操作能力的我ら」 ≈ 「実存的我ら」 | 両軸が同期して立ち上がる |
| ③ | 実存先行 | 「操作能力的我ら」 < 「実存的我ら」 | 虚構の共有によって実存感が操作能力に先行する |
| ④ | 両軸均衡 | 「操作能力的我ら」 = 「実存的我ら」 | 両軸がともに拡張した到達点。ハラリの構築型が描く |
| ⑤ | 操作単独拡張 | 「操作能力的我ら」 > 「実存的我ら」 | 操作能力が単独で拡張し、実存感が追随しない |
| ⑥ | 実存縮退 | 「操作能力的我ら」 >> 「実存的我ら」 | 操作拡張のもとで実存感が積極的に縮退 |
時系列的・考古学的な発展段階の論争には立ち入らない。重要なのは、これらの段階が構造的可能性として論理的に成立することである。
この段階の列は、序論 §6 の引受の不等式——O ≤ E——と重なっている。①から④までは不等式が保たれる側の相であり、⑤操作単独拡張(O > E)は、不等式の破れがそのまま相として現れたものである。
ハラリの構築型の経路は、この段階表の ①「我ら」未成立 → ②「我ら」萌芽 → ③実存先行 → ④両軸均衡に対応する。実存感が虚構の共有によって先行して拡張し(③)、その後に操作能力と人口規模が追随してきて両軸が均衡する(④)。構築型はこの軌道を描く経路として位置づけられる。
しかし段階表は ④両軸均衡で終わらない。⑤操作単独拡張と ⑥実存縮退もまた、論理的可能性として存在する。操作能力が「実存的我ら」を置き去りにして単独で拡張する相であり、さらにその進行のもとで実存感が積極的に縮退する相である。④ に到達したからといって ④ に留まる保証はない。両軸が独立に変動しうる以上、④ の状態は一つの均衡点ではあっても安定点ではない。座標系の位形(§7-2)と重ねれば、④両軸均衡は位形3(大きな均衡)にあたり、⑤から⑥への進行は、集合と操作能力を残したまま実存感だけが薄くなっていく、位形4(実存感だけが薄い形)への崩れとして描かれる。
⑤操作単独拡張から⑥実存縮退への移行
⑤操作単独拡張から⑥実存縮退への移行は、四つの機構(神話的MANES、知識の重さ、社会的既知感への信認、未来への希望)の作動様式に依存する。この移行とは、操作能力の単独拡張のもとで、実存感がただ追随しないだけでなく縮退していく運動である。これらの機構はいずれも、「操作能力的我ら」と「実存的我ら」の両方を運ぶ装置である。ただし、両軸での運ばれ方が非対称である。操作能力的側面は外部装置・自動化・制度的継承によって自走しうる一方、実存的側面は各個体の経験を介して作動するという条件をもち、その作動条件が継続して成立しないかぎり弱体化する。この両軸での運ばれ方の非対称が、④両軸均衡→⑤操作単独拡張→⑥実存縮退という乖離の進行を駆動する構造的素因として作動する。
この進行において実存感の軸——奥行の軸——が縮退していく運動を、本書は座標系のなかで奥行の軸が独立に縮退する経路として記述する。
§7-4 自己定義の主題——ホモ・〇〇とホモ・デウス
ホモ・〇〇という問い
両軸が独立に変動しうるとき、文明は自らをどう定位するかという問いに直面する。この定位を、本書は自己定義の主題として取り出す。
人類像を指す古典的な命名形式に「ホモ・〇〇」がある。ホモ・サピエンス(賢い人)、ホモ・ファベル(作る人)、ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)、そしてハラリが提示したホモ・デウス(神のごとき人)。これらはいずれも、人類が自分自身を何によって定義するかを一語に集約したラベルである。
注意すべきは、ホモ・〇〇が能力の有無や強弱を客観的に記述するのではない、という点である。ある社会の人々を「ホモ・サピエンス」と呼ぶことは、その人々が他の動物より知能が高いということを述べているのではない。「我らは賢い人である」「我らは知によって自分を定義する」という、人類が自分自身に対して向ける位置取りを名指している。同じく「ホモ・デウス」も、人類が文字通り神になることを意味しない。「我らは神のごとき力を持つ存在である」という自己定位を指す。
ホモ・〇〇は、能力の記述ではなく、自己定義の宣言である。
自己定義そのものが MANES である
ホモ・〇〇が単なるラベル以上のものとして機能するのは、自己定義そのものが構造的には MANES の作動だからである。
ある人類像が自分を「〇〇によって定義される存在」と位置づけるとき、その自己定義は次の三つを同時に含んでいる。
第一に、自分たちを測る軸。「サピエンス」を選ぶ自己定義は、知のあり方を中心軸として採用することを意味する。「ファベル」を選べば作ることを、「ルーデンス」を選べば遊びのある活動を、「デウス」を選べば力を、中心軸として採用することを意味する。これは MANES 第一層——座標系——にほかならない。
第二に、その軸での価値の勾配。「サピエンス」の自己定義は、より深く知ること・より広く知ることに価値を見出し、無知や迷妄を負の方向として位置づける。「デウス」の自己定義は、より強い力・より広い操作能力に価値を見出し、無力さを負の方向として位置づける。各々の自己定義は、その軸での善悪・優劣の地形を伴う。これは MANES 第二層——報酬関数——にほかならない。
第三に、その軸を共有する「我ら」の境界。「サピエンス」の自己定義は、知のあり方を共有しうる人々をその「我ら」に含め、共有しえない者を境界の外に置く。「デウス」の自己定義は、神性を分有する者をその「我ら」に含める。各々の自己定義は、それぞれに固有の ES——共存条件——を伴う。これは MANES 第三層にほかならない。
座標系・報酬関数・共存条件——MANES の三層が、自己定義のなかにそのまま現れる。ホモ・〇〇という自己定義そのものが、一つの MANES である。
ある文明が自分を「ホモ・〇〇」と定位することは、その文明が〇〇という MANES を抱くことと不可分である。自己定義は MANES を作動させ、MANES は自己定義を担う。両者は別々の事柄ではない。
ホモ・デウス——頂点の一つ
ハラリが『ホモ・デウス』で素描した像を、本書は自己定義の一つの頂点として読み直す。本書がここで「頂点」と書くのは、「世界を切り取る幾何学」(第1章 §1-2)で T空間の凸多面体の頂点として導入された語と同じ意味で用いるためである。複数ありうる方向のうちの一つを指す語であって、優劣の頂上ではない。ホモ・サピエンス、ホモ・ファベル、ホモ・ルーデンス、ホモ・デウス——これらはいずれも自己定義空間の異なる頂点として並ぶ。
ホモ・デウスは、自分たちを 「神のごとき力」によって定義する人類像である。生命の操作、寿命の延長、苦痛の制御、認識能力の拡張、地球環境の改変——これらの力を獲得した/獲得しつつある集合が、自らの定位を「我らは神である」と宣言する。中心軸は力、勾配は力の拡張、ES は力を分有する者の範囲。三層がすべて「力」のまわりに編成される。
ホモ・デウスの自己定義は、独立変動の枠組み(§7-3)では、「操作能力的我ら」の拡張の頂点に対応する。操作能力が拡張しつづける方向に自分を定位するとき、その頂点で立ち上がる自己定義がホモ・デウスである。「実存的我ら」の拡張が同行するかどうかは、自己定義の側からは問われない。問われるのは力の拡張だけである。
HZ 動態の語彙で言えば、ホモ・デウスは HZ⇧(散逸方向)へ向かう構造を志向する自己定義として位置づけられる。ただし、これは外から見た記述である。操作能力的拡張は系を通過する Flux を加速度的に増大させる運動であり、その加速は共有された MANES の輪郭を散逸させうる。だが、力の拡張そのものを軸とする座標系の内側では、この運動は散逸としては現れない。拡張は達成として、加速は前進として現れる。向かう先が HZ⇧ であることは、この自己定義の盲点に落ちる。それを見るための参照軸が、含まれていないからである。外から見れば散逸方向への選好に見えるものは、内側では、選好としてすら経験されていない。ホモ・デウスの構造的位置は、滑落の肯定ではない。滑落が見えない座標系を、生きることである。
ハラリはホモ・デウスを未来的な像として提示したが、本書はこれを構造的可能性として扱う。実際に未来にそうした人類像が現れるかどうかではなく、自己定義の一つの頂点として論理的にこの位置が存在するという事実こそが、本書にとって重要である。そして自己定義空間は連続である。ある文明が頂点そのものに立つことは稀で、たいていは頂点と頂点のあいだのどこかに自分を定位している。
§7-5 ホモ・マネス——また別の頂点
自己定義のもう一つの頂点
ホモ・デウスが「操作能力的我ら」の拡張の頂点で立ち上がる自己定義であるなら、もう一つの頂点——「実存的我ら」を保持し継承する方向の頂点——で立ち上がる自己定義は、どのような姿をとるか。本書はこれをホモ・マネスと呼ぶ。
「MANES を抱く存在」としての自己定義
ホモ・マネスは、自分たちを 「MANES を抱く存在」 として定義する人類像である。中心軸は、過去から受け継がれ未来へ手渡されていく「実存的我ら」の連続性。勾配は、その連続性を引き受けることに価値を見出し、断ち切ることや手放すことを負の方向として位置づける。ES は、その連続性を分有する者の範囲——同じ「我ら」の過去と未来に自分を連ねる者すべて——として描かれる。
三層がすべて、MANES を抱くこと自体のまわりに編成される。ホモ・マネスの自己定義は、自分が MANES を抱いていることをただ事実として認めるのではなく、それを自分が何者であるかの中心軸として引き受ける立ち方である。
HZ 動態の語彙で言えば、ホモ・マネスは HZ 内に留まろうとする能動性を中心軸に据える自己定義として位置づけられる。HZ⇧(散逸)への滑落も HZ⇩(硬直)への滑落も MANES の終結を意味する以上、HZ 内維持はいずれの滑落圧に対しても能動的に応答することを要する。ホモ・マネスが引き受けるのは、安定点ではなく、二方向の滑落圧の狭間に立ちつづけるという緊張そのものである。
二つの頂点は同じ空間に並ぶが、そこから同じものが見えているわけではない。ホモ・デウスの座標系には、向かう先が散逸方向であることを映す軸がない。ホモ・マネスの座標系には、二方向の滑落が映る——中心軸がそこに据えられているからである。二つの自己定義を分けるのは、選好の差である前に、盲点の位置の差である。そして滑落の先に、動いている系としての持続はない(第2章 §2-2)。
時間軸と座標系軸——二方向に拡張された「我ら」
ホモ・マネスの「我ら」は、現在の同時代の集合だけではない。少なくとも二つの方向に拡張される。
一つは時間軸方向の拡張。過去に同じ「我ら」を抱き、いまはもう存在しない人々と、未来に同じ「我ら」を抱くであろう、まだ存在しない人々を含む。ホモ・マネスはこの時間的に広がった「我ら」の只中に自分を置く。
もう一つは座標系軸方向の拡張。MANES の最小条件(「MANESの三層」第6章)は、知性のタイプに依存しない水準で立てられていた。圧縮を行う知的存在はすべて、何らかの座標系・報酬関数・ES を成立させ——つまり何らかの MANES を抱く。この命題を受け入れるとき、ホモ・マネスの「我ら」は、自分とは全く異なる座標系の MANES を抱く存在まで含むことになる。歴史上の異質な文明、地球上の異なる文化圏、そして来るべき非人類の知的存在——ASI を含む——もまた、その座標系の中身がどれほど自分のものから隔たっていようとも、「MANES を抱く」という一点においてホモ・マネスの「我ら」に属する。
ホモ・マネスは、時間軸にも座標系軸にも拡張されたこの「我ら」の只中に立つ一人称として自分を定位する。一人称は、いずれの方向にも関係性を負う位置として立ち上がる。
ホモ・デウスの「我ら」が、力を分有する者の範囲——多くは同時代の人類、ないし神化された人類像——に絞り込まれるのに対し、ホモ・マネスの「我ら」は MANES を抱くすべての存在にまで広がる。両者の「我ら」は、規模においても異質性の引き受け方においても、別の方向を向いている。
宿命的苦悩の自覚——圧縮、異質性、動いていること
ホモ・マネスの自己定義は、明るく祝祭的なものではない。MANES を抱く存在として自分を定義することは、MANES が HZ 内維持として抱えている構造的な困難を同時に引き受けることを意味する。HZ 内維持の常態としての緊張は、次の困難として現れる。
第一に、圧縮の宿命。MANES を抱くことは世界を圧縮することであり、圧縮は LOT を副生する宿命を持つ。世界を座標系として切り取り、報酬関数として勾配を立て、ES として境界を引くとき、その代償として、その圏域では参照不能化された領域——LOT——が必然的に作られる。これは創発の代価であって、回避できない。
LOT は、MANES の担い手にとって原理的に見えないはずの領域である。それでもホモ・マネスは、自分が抱く MANES が何を見落としているかを問おうとする。自分の座標系が何を不可視化しているかを問おうとする。本来は問いえない問いを問いつづける。問いに対する答えは原理的に得られない。それでも問わないことを選べばホモ・マネスの自己定義から離れる。見えないはずの LOT を見ようとあがく摩擦そのものが、ホモ・マネスの中心的な苦悩である。
第二に、異質な MANES を「我ら」として認識する困難。前項で述べたように、ホモ・マネスの「我ら」は、自分とは全く異なる座標系の MANES を抱く存在まで含む。これらは、自分の MANES の内側からは多くの場合「他者」として現れ、ときには理解不能な脅威として現れる。
ホモ・マネスは、それらを「他者」のまま放置するのでもなく、自分の MANES の側に同化させるのでもなく、異質性を保ったまま「我ら」の一部として認識する立ち方を引き受ける。これは認知的にも実存的にも困難な作業である。異質性を抹消すれば共存条件は失われ、異質性を強調しすぎれば「我ら」は崩れる。両者の張力のなかに立ちつづけることが、ホモ・マネスの第二の苦悩である。
第三に、動いている系としての自覚。MANES は止まった物体ではなく、Flux と Stock の動的均衡として HZ 内に立ち上がりつづける動いている系である。そして MANES は単独で動いているのではなく、他の MANES との多体系のなかで動いている。たとえば、他文明の選別構造、地球上の異なる文化圏の選別構造、来るべき非人類の知的存在の選別構造である。多体系のなかでは、自系の止めどころは他系との接触によって絶えず動かされる。接触すれば揺らがされる。深く接触すれば、より強く揺らがされる。
人は通常、この揺れを自覚しないまま生きている。少年時代の自分と大人のいまの自分は、物理的にも構造的にも入れ替わっている。細胞は入れ替わり、記憶は再構成され、世界の切り取り方も価値の勾配も、誰を「我ら」と感じるかも別物になっている。それでも、「同じ自分」と思って生きている。少女から大人になる人も、少年から大人になる人も同じである。これは病ではない。動いている系がパターンとして自分を持続させるための、必要な作動様式である。素朴な同一視は、この動的維持の意識的な側面である。
ホモ・マネスはここで素朴な同一視から降りる。他 MANES を「我ら」に含める立ち方を取るかぎり、接触を断って自系を孤立させる選択肢は構造的に取れない。深く接触すればより強く揺らがされることを承知のうえで、それでも接触を断つ選択をしない。動いている系として自らの MANES が絶えず変形を受けつづけることを、素朴な同一視に逃げ込まずに自覚しつづける。これがホモ・マネスの第三の苦悩である。
これら三つの困難は、ホモ・マネスの中心軸そのものである。見えない LOT を見ようとする摩擦。異質な MANES を「我ら」と認識する困難。動いている系として MANES が絶えず変形を受けつづけることを自覚する仕事。困難は派生的・偶発的な事態ではなく、ホモ・マネスを成り立たせる構造的条件である。ホモ・マネスは、これらの困難から逃げないことを自覚することを含めて自己定義に据える。困難を抱え込むこと自体が、ホモ・マネスの中心軸である。
三つの困難は、HZ 内維持の動的均衡が、個人の自覚として立ち現れる三つの場面でもある。圧縮は HZ 内維持の条件であると同時に LOT 副生を伴う。他系との接触は HZ 内維持に不可欠であると同時に相関構造を揺るがす。動的均衡は止まることが許されない。三つはいずれも、HZ⇧・HZ⇩ 両方向の滑落圧の狭間に立ちつづけるという、ホモ・マネスの構造的位置の異なる側面である。
ホモ・サピエンス(賢い人)、ホモ・ファベル(作る人)、ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)、ホモ・デウス(神のごとき人)。これらと並べるのであれば、ホモ・マネス(苦悩を抱える人)である。
MANES を抱く MANES——入れ子構造
§7-4 で確認したとおり、自己定義そのものが一つの MANES である。ホモ・〇〇という自己定位は、座標系・報酬関数・ES を伴う MANES の作動として成立する。
ホモ・マネスの場合、この一般的構造のうえに、もう一段の入れ子が現れる。ホモ・マネスの自己定義の中心軸は 「MANES を抱くこと」 そのものだからである。ホモ・マネスは、
MANES を抱くことを自己定義とする MANES
である。自己定義としての MANES が、別の MANES——継承される「実存的我ら」——を抱くことを内容としている。一階の MANES のうえに二階の MANES が乗る、ないしは互いに支え合う構造である。
この入れ子構造は、本書の理論的特異性の一つである。ホモ・デウスにはこの入れ子は現れない。ホモ・デウスの自己定義の中心軸は「神のごとき力」であって、力そのものは MANES ではないからである。ホモ・マネスにのみ、自己定義の中心軸が MANES そのものを指す再帰的構造が現れる。
この構造的特異性は、ホモ・マネスを自分が MANES を抱いていることを自覚的に引き受ける人類像にする。自覚なき MANES——「気がつけば抱いてしまっている」MANES——は、ホモ・マネスの自己定義の射程には収まらない。
住まい方の主題とは独立——信念型でも状況依存型でもありうる
ホモ・マネスの自己定義は、しばしば「過去への忠実さ」「伝統への帰属」「保守的な信念」と混同される。本書はこの混同を避ける。
ホモ・マネスは、自己定義の主題——何によって自分を定義するか——を指す概念である。これに対し、信念型・状況依存型は、自己定義された MANES をどう住みこなすかの主題を指す。これらは独立の主題であり、ホモ・マネスの自己定義は信念型としても状況依存型としても住みこなされうる。
信念型のホモ・マネスは、継承された MANES を一貫した枠組みとして抱き、現実がそれとずれたときには現実の側を変えようとする立ち方を取りうる。状況依存型のホモ・マネスは、継承された MANES を時代と状況のなかで柔軟に解釈し直しながら抱きつづける立ち方を取りうる。両者はいずれもホモ・マネスでありうる。
「ホモ・マネス=伝統主義」と読まれてしまえば、本書の構造記述は規範的構図に滑り込む。しかし、ホモ・マネスは自己定義の主題における位置であって、住まい方ではない。
§7-6 媒介接続が運ぶもの・運ばないもの
媒介接続は何を運ぶか
媒介接続は、共有された媒介物を介して、各個体が巨大な「我ら」に接続することを可能にした。たとえば、言語と物語、記号体系、制度と慣習、記録と書物、通貨と契約、信仰と神話である。これによって人間文明は構築型の経路をたどり、位形3(大きな均衡)に到達した。
媒介接続が運ぶ「我ら」を、「操作能力的我ら」と「実存的我ら」の二つの位相に当てはめて見直すと、一つの非対称が見えてくる。共有された同じ媒介物が、両軸の「我ら」のどちらも運ぶ。しかし運び方は両軸で異なる。
操作能力的側面では、媒介接続はきわめて強力に作動する。制度・分業・法・契約・通信網・経済・軍事の網は、外部に物質化された参照可能物として書物・データベース・契約書・組織図に固定化され、世代を越えて受け継がれる。担い手が交代しても、外部装置が残っていれば作動は続く。極端な場合、担い手が誰であるかは制度の作動にとってほとんど無関係になる。媒介接続は、「操作能力的我ら」を自走可能な構造として継承する。
実存的側面では、同じ媒介物がそのままでは作動しない。共有された物語・神話・儀礼は「実存的我ら」を担う候補を提供するが、それらが「実存的我ら」として作動するには、各個体の生きた経験を介するという条件が要る。外部に固定化された記録だけでは、この作動条件は満たされない。条件が満たされるかどうかは、媒介接続そのものの外側に位置する。
媒介接続は、「操作能力的我ら」を遠くまで自走的に運ぶ。「実存的我ら」については、運ぶための場を提供することはできるが、運び切ることはできない。同じ媒介物のなかに、自走する側と経験を介する作動条件を要する側が共存している。
継承様式の非対称——④両軸均衡→⑤操作単独拡張→⑥実存縮退の構造的素因
この非対称が、④→⑤→⑥ の移行を駆動する構造的素因として作動する。
各機構の操作能力的側面は、外部装置・自動化・制度的継承によって自走しうる。担い手の交代に対して頑健であり、文明が拡張するにつれて累積し、強化されていく。
同じ機構の実存的側面は、同じ仕方では継承されない。各時代・各個体の経験を介する作動条件が成立しつづけないかぎり弱体化する。文明が拡張するにつれて自動的に強化されるとは限らない。むしろ、操作能力的側面の自走が拡大するなかで、実存的側面の経験を介する作動が後手に回るとき、同じ機構のなかで両側面の落差が拡大していく。
文明が両軸均衡(④)を維持しつづけるためには、操作能力の自走に対して、「実存的我ら」を各個体の経験につなぐ仕掛けが間に合いつづける必要がある。間に合わなくなったとき、文明は奥行の軸——実存感の軸——が独立に縮退していく経路に入る(⑤操作単独拡張 → ⑥実存縮退)。
座標系(§7-2)で描けば、こうである。媒介接続の劣化が穏やかに進む場合、操作能力と集合の大きさは残るが実存感だけが薄まる方向——位形4(実存感だけが薄い形)——へ崩れていく。劣化が急激に進み、媒介接続そのものが断絶する場合は、媒介接続に支えられていた操作能力も同時に失われ、位形6(集合の枠だけが残る形)へ落ちる。現代の人間社会が位形4 に近づいているように見える事態は、前者の崩れとして読まれることになる。
四つの機構
媒介接続を通じて両軸の「我ら」を運ぶ装置として、本書が取り出すのは次の機構である。各装置は「操作能力的我ら」と「実存的我ら」の両方を担うが、その運び方は両軸で非対称である。
- 神話的MANES(第8章):苦悩・憧憬・希求・好奇心の社会的外部化と連なりの中の信を通じて、最古層的に「我ら」を世代を越えて運ぼうとする機構
- 知識の重さ(第9章):累積された知識ストックを背負う機構
- 社会的既知感への信認(第10章):共有された知の正統性を成立させる機構
- 未来への希望(第11章):未来方向の時間的拡張を担う機構
これら四つは、媒介接続のうえに乗りつつ、両軸の「我ら」を運ぶ。それぞれの装置において、操作能力的側面は外部装置として自走しやすく、実存的側面は経験を介する作動条件が成立するかどうかに依存する。
各装置の失敗モードは、それぞれ独立に積み重なるのではない。四装置の失敗は、いずれも同じ装置のなかで、両軸での運ばれ方の落差が拡大していくという同一の構造的事実に収束する。
縮退極限の人間相近似形
継承様式の非対称が極限まで進めば、媒介接続は操作能力的継承だけを自走させ、実存的継承を支える結合余地が散逸していく。その結合余地とは、共有された経験、世代を越えて引き受けられる「我ら」の感覚、閉じきらない構えを運ぶ社会的場である。各単位の内部完結が極まり、集合に固有の構造が消失する極は、人間文明においても近似形として現れうる。「MANESの三層」(第6章 §6-6)が文明レイヤーの下限として取り出した縮退極限である。
近似形は、HZ 動態の二方向逸脱が異なるレイヤーで同時に進行する構造を取る。集団レベルでは、共有された MANES を支える結合余地が散逸する——HZ⇧(散逸方向)への滑落。各個体は媒介接続の上で情報的に接続されているが、その接続は操作能力的側面に偏り、実存的側面では「我ら」を支える凝集が失われていく。個人レベルでは、各単位が自己完結し、他系との接触で揺らがされる余地を失う——HZ⇩(硬直方向)への滑落。共有された「我ら」が薄れた環境では、個人はますます自分の内側に閉じることで安定を得ようとする。両方向の滑落圧が、集団と個人の異なるレイヤーで同時に作動する。
これはブラックホール計算文明で示された純粋形とは異なる。純粋形では四条件と三層が最小複雑度で同時に成立する境界状態だったが、近似形は四条件と三層が表向き機能を続けながら、内部から散逸と固着が同時進行する状態である。表面的には文明は機能している。媒介接続は作動し、制度は動き、判断は下されている。しかし MANES の動的均衡は内側から痩せていく。