第21章 時間的不安定——未来世代への前借りと回収不能
まだ見ぬ者に、いまを生きる「我ら」は責めを負いうるのか。
これも古くから問われてきた問いだが、答えるのに、空間軸の問いより、わずかな後ろめたさが伴う。「未来の世代に何も負っていない」と胸を張って言える者はいない。言われてみれば、否定しきれない——やはり、「負わぬとは言えない」。引受の不等式が時間軸で破れていく姿は、この居心地の悪さの水準から始まる。「我ら」を養う者たちに対して、「負わぬとは言えない」(第20章)のさらに一段奥にある。
「空間的不安定」(第20章)は、漏斗の入口に流れ込む F が、同時代の他者の選別構造の残余として現れる姿を取り出した。本章は、同じ問い——漏斗の深層で、O は何を糧として動いているのか——を、時間軸で取り出す(第19章 §19-5)。時間軸とは、F の供給源を未来世代の選別構造に求める方向である。
未来世代の選別構造は、現時点では作動していない——彼らはまだ存在しないからである。だが、文明レイヤーの表象能力は、未来世代がいずれ作動させることになる選別構造を、現時点で先取りして消費する道を開く。種を保留して翌春の播種へ送るのは、未来へ向けた投資である。同じ表象能力が、まだ実っていない収穫を当てにして現在の事業に着手するとき、未来から引き取られた糧が漏斗の入口を満たす。これが前借りと呼ばれる作動である。この糧の出所は、空間軸とは構造的に違う性質を持つ。同時代の他者の作動と違って、未来世代の作動は、それを引き取る現在から見て、自系の表象によって「あるはず」として呼び出されたものである。糧の出所は、自系が表象によって呼び出した「我ら」の延長である。この二重の人工性が、時間軸の送り出しを空間軸から分かつ。
この前借りも、文明の達成として、まず正面から評価されるべきことだ。未来を見込めることで、現在の世代は手持ちを超えた規模で動ける。種もみの保留から多世代インフラまで、灌漑から世代を越える建造物まで——いずれも、未来を「我ら」のうちに数える表象が立ち上がってはじめて可能になった作動である。文明をしばしば飛躍させてきた力でもある。飛躍は飛躍として、惜しむべきものは何もない。本章は、その飛躍を正面に置いたまま、それが立っている構造の側へ降りていく。
本章で送り出し先となるのは、空間軸とちがって、抗えない相手である。属州民は反乱を起こせたが、未来世代は反乱を起こせない。陳情も交渉も返せない。声を返しうる相手から、声を返しえない相手へ——送り出しの先が変わるだけで、構造の内側に残っていた内在的なブレーキは一段消える。現代でも、住宅ローンを組むことや、累積していく公的債務に乗ることや、化石燃料を引き続き燃やすことは、いずれも未来の自分や未来の世代の作動を現在の決済へ畳む構造を持っている。日々の生活実践のうちに、すでに前借りは織り込まれている。重心はここで FO- から -O-(再供給されない固定 Stock を削る側) へ深まる。第20章までは流入が費消を補いうる FO- 側にとどまっていたが、本章で重心は取り返しのつかない側へ滑り込む。重心が -O- に張り付いたまま、その上に立つ「我ら」の境界そのものが自己分裂するのは、「実存的不安定」(第22章)からである。
§21-1 時をまたぐ手——前借りという飛躍と、その離陸
時間を兼ねる達成
空間に伸びた手は、時間も兼ねていた。
文明が時間の方向へ踏み出した最初の姿は、おそらく素朴なものだった——来年の蒔きつけのために、種もみを食べずに残す。いま空腹を抱えてでも、一部を取り分け、来たるべき季節へ手渡す。現在にコストを負って、未来へ投資する。これは、まだ見ぬ来年の自分や子らを「我ら」のうちに数える、その引き受けがあってはじめて成り立つ。時間をまたぐ「我ら」——実存的我ら(E)の時間的な広がり——こそが、この最初の達成の母胎である。文明は、現在を未来へ差し出すこの構えから立ち上がった。
時間をまたぐ達成は、空間軸の達成と同じく、操作能力的我ら(O)の運動が、それに先行する E の引き受けに支えられて立ち上がる姿である。「不等式の動性」(第16章)でいえば、E が先導し、操作能力が追随して伸びる順序——重心が FOE のうえに保たれているあいだの、時間方向への拡張の姿である。多世代インフラも、同じ系列に並ぶ。たとえば、河岸の石積み、世代をまたぐ灌漑施設、何代も前の世代が植え何代も後の世代が伐る森林である。
同じ「時間をまたぐ力」は、逆向きにも働く。未来を当てにして現在を一段高くへ押し上げる操作——前借り——である。まだ実っていない収穫を先取りすれば、いま大きな事業に着手できる。来たるべき余力を見込めば、現在の世代は手持ちを超えた規模で動ける。前借りは、文明の出力を未来から現在へと引き寄せ、文明をしばしば飛躍させてきた。
これも惜しむべきことではない。前へ倒すことで開かれた飛躍は、文明の達成の一つである。種もみを残すことと、種もみを当てにして先に動くこと——投資と前借りは、同じ「時間をまたぐ我ら」の上に立つ、表裏の操作である。
前借りの離陸——仕組みが連なりから切り離れる
ところが、時間軸には、空間軸にはなかった性質がある。空間軸のコストは、送り出された先に積もる。時間軸のコストは、帳簿のうえで消える。前借りされた未来は、報酬関数の一個の数字へ畳まれ、決済済みとして視界から降りる。積もるものと、畳まれて消えるもの——この差が、時間軸の運びの全体に効く。
そのうえで、離陸の非対称は、ここでも現れる。
前借りを担う構造——制度、債務、約束、未来を見込んだ蓄えの取り崩し——は、いったん仕組みとして据えられると、それを据えた「我ら」の引き受けがなくとも回りつづける。仕組みの側は、誰がそれを未来への借りとして引き受けているかを問わず、一様に作動する。前借りの仕組みは外に物質化され、次の世代へ手渡される。だが、その前借りを「いつか返すべき、未来の我らへの借りである」と引き受ける感覚は、外の仕組みには宿らない。一人ひとりの内側で、世代ごとに引き受け直されなければ、その感覚は痩せていく。装置として外に物質化される側と、内的な反復としてしか保たれない引き受けの側。この非対称が、時間の方向で開く。
前借りの仕組みが「我ら」の引き受けなしに回りつづけうるのは、それが報酬関数で測れる因果しか返さないからである。金融が未来の収益を割り引いて現在価値の一点へ縮めるように、いったん仕組みに載せられた未来は、遅れて返ってくる帰結(遅延回収因果、「『我ら』の境界と因果の創発」第15章 §15-7)ではなく、いま支払い終えた量として扱われる。報酬関数に載らない帰結——測れない未来の付け——は、仕組みの返り値からこぼれ落ちる。前借りがかくも軽く速いのは、この畳み込みによって未来が現在の決済へ繰り込まれているからである。軽く速いのは、止める手がかりごと消えるからでもある。
ローマの皇帝ティベリウスの治世は、第20章で、ローマ市民の食を支えた穀物の出所として、すでに現れていた。同じ治世が、時間軸では別の顔を見せる。ティベリウスは財政を堅実に保ち、その死に際して国庫に巨額の余剰を残したと伝えられる。現在の支出を抑え、余力を未来へ繰り越す——前借りの逆を行く、いわば貸し越しである。だが、この抑制は一代で終わった。後を継いだカリグラの治世は、見世物と造営と下賜への大きな支出で始まり、古代の史家たちは、残された余剰が瞬く間に尽きたと——互いに数字を違えながら——書き残した。帳尻の実際は、いまとなっては確かめようがない。確かなのは、繰り越すという構えが、引き継がれなかったことである。前へ繰り越す抑制は、それを引き受ける感覚が世代を越えて続かなければ、一代で途切れる。ここに、命題 FUNNEL-1(保つコストの非自動性)(第17章 §17-2)の時間軸での姿がある。仕組みは自動で残り、引き受けは自動では残らない。
現代でも、同じ非対称は別のスケールで作動している。住宅ローンを組む人は、未来の自分の労働を現在の住居の取得へ畳む。年金制度に乗る世代は、別の世代の労働を現在の制度へ畳む。化石燃料を引き続き燃やす経済は、まだ表面化していない気候の改変を現在の決済へ畳む。これらの仕組みはいずれも、外に物質化された側として自走する。だが、それを「いつか返すべき借りである」と引き受け直す感覚は、一人ひとりの内側で世代ごとに引き受け直されなければ作動しない。日々の生活実践のうちに、すでに前借りは織り込まれているが、その引き受けは仕組みの自走に追いついていない。
前借りの仕組みが生まれて文明の出力が膨らんだあとも、それを支えた「我ら」の引き受けが同じだけ保たれている保証はない。文明の出力が時間方向に伸びるほど、それを引き受けつづける係留作動の射程も伸ばさなければならないが、係留作動は仕組みのように物質化されない。係留FOE は、係留を要し、自動では維持されない。E の射程が漏斗の彫り込みに及ぶ範囲である(「どの規模まで、保てるか」第19章 §19-3)。E が O の時間的拡張に追随できないところでは係留が及ばないまま仕組みだけが伸び、文明の出力は、それを生んだ連なりから離陸する。
これは、仕組みを編む側と仕組みを引き受けつづける側の、駆動原理の差から出てくる。咎むべき悪事ではない。時間に伸びた仕組みが自走することは、仕組みを編んだ達成のいわば裏面である。離陸そのものは、達成と切り離せない。
仕組みの洗練——測られるものだけが手入れされる
仕組みは、自動で残るだけではない。測られるものは、改良の対象になる。前借りを担う仕組みは、世代を越えて同じ形で受け渡されるのではなく、手入れされ、より遠くへ、より低い摩擦で届くように洗練されていく。未来の収益を現在価値へ縮める技法は精密になり、畳める期間は伸び、畳んだものを他者へ移す経路も増える。連なりを引き受け直す仕事のほうは、こうは積み上がらない。前の世代がどれほど深く引き受けていても、次の世代がそれを引き継ぐには、同じ仕事をもう一度、内側から起こすほかない。
これは、命題 FUNNEL-1 の一段先である。保つコストが自動では払われないというだけではない。報酬関数に載る構造の保つコストは、報酬関数自身が払う。載らない構造の保つコストには、払い手がいない。前借りの仕組みに手を入れることは得であり、連なりを引き受け直すことは得にならない。同じ一つの時間の経過が、片側には蓄積として、片側には摩耗として働く。
そして、操作の論理の側から見るかぎり、異変は何も起きていない。前借りは、前の世代より安全に、より遠くまで行えるようになっている。連なりが痩せていることは、仕組みの返り値のどこにも現れない——現れるのは、改善だけである。
仕組みの側は、放っておいても前へ出る。だが、離陸した仕組みに「我ら」を追いつかせる側は、世代をまたいで誰かが担い直さなければ作動しない。そしてその担い直しは、未来へ手を伸ばすだけでは立たない——もう一方の端を、どこにつないでいるのか。
§21-2 連なりを保つ仕事——過去から受け取り、未来へ渡す
前借りに「我ら」を追いつかせる
前借りの仕組みが「我ら」から離陸する(§21-1)。引受の不等式が時間軸で成立しているとは、前借りした文明の出力(O)が、それを引き受ける「我ら」(E)の時間的な広がりに収まっていること——重心が FOE に保たれていること——である。前借りした分だけ E も未来へ広がって帰結を引き受けなければ、不等式は破れる。
E を未来へ広げるとは、まだ生まれていない世代を「我ら」として——その帰結を引き受ける相手として——数えつづけることである。これは前借りの仕組みが自走するのとは別の論理で動く。仕組みは外に残るが、「未来の我ら」への引き受けは、一人ひとりの内側で世代ごとに更新されなければ痩せていく(§21-1)。だから E の時間的拡張には、共感・教育・儀礼・物語を通じた絶えざる引き受けの仕事が要る。時間方向に係留作動を広げつづける仕事に他ならない(第16章 §16-4)。
ここには、操作と実存の働きの差がある。報酬関数に載せて未来を現在へ畳むのは、操作が固定した接続の働きである。畳まれずに残る未来——遅延回収として引き受け直されるべき付け——へ手を伸ばすのは、泡のように消える因果よりも続いていく因果を選好する実存の側である(第15章 §15-7)。共感・教育・儀礼・物語が時間をまたぐのは、それらが実存の側が保つ接続として、この選好を担うからである。
本書の語彙でいえば、これは λ₁(神話的MANES、世代軸方向の連鎖)の時間方向の作動である(第8章、第18章 §18-2)。神話・物語・儀礼を通じて、前の世代が抱いた「我ら」を、次の世代が同じ「我ら」として引き受け直す。この反復が、時間軸の連なりを成り立たせる。λ₁ なしには、まだ生まれていない世代を「我ら」のうちに数える作動そのものが立ち上がらない。直接接続の帯域が空間で約百五十人に閉じるのと同じく、時間でも自然な「我ら」は数十年——一世代の生の長さ——に閉じる(第7章 §7-1)。それを世代の外へ、まだ生まれぬ者まで伸ばす連なりは、帯域を超えた媒介的構築——それ自体が、自然な生まれ方を超えたものである。
連なりは双方向に伸びる
ここで、時間軸に固有のことがある。未来への引き受けは、それだけでは立たない。過去から受け取ったという感覚が、それを支えている。
いまの現在は、現在世代の手柄だけでできているのではない。過去の世代が残し、手渡してくれたものの上に立っている。この受け取りの引き受けがあってはじめて、「ならば自分も次へ手渡す」という未来への引き受けが立つ。受け取ったものがあるから、渡すものがある。連なりの中の信は、過去への遡りと未来への投射が、双方向に同時に伸びる一つの感覚である。
この双方向性は、感覚の報告にとどまらない。連なりの中の信は、対称性志向(「神話的MANES」第8章 §8-4)のメタ階位の時間軸版——過去への遡及と未来への投射の対称——である。そして対称の構えは、片側だけでは立たない。名の「対称」が指すのは両側への釣り合いであり、一方への接続を手放すことは、釣り合いの調整ではなく、構えそのものを落とすことである。ゆえに、過去への遡及を切った系に、未来への投射だけが単独に残ることはない。
だから、過去を希薄化すること——いまを自分たちの達成のみに帰すこと——は、未来とのつながりを同時に細らせる。上流(過去)を切る目は、下流(未来)を切る目と同じ目である。種もみを残せたのは、それを残してくれた前の世代の手があったからだ。その記憶を手放した世代は、次の世代のために残すことの意味も、手放す。ただし、この双方向の連なりも、自然に与えられた調和ではない。それ自体が λ₁ の媒介的構築であり、切れるのは、構築物が世代ごとに保守されなくなるからである。連なりの切断は、自然の破れではなく、媒介の不保守として起こる。
因果論の語彙(第15章)でいえば、過去から返ってくるものを引き受けること(上流側の回収)と、未来へ送るものを引き受けること(下流側の回収)は、同じ一つの連なりの両端である。連なりを引き受けるとは、時間の方向に実存的我らの分解能を広げることにほかならない。
歴史的には、この双方向の連なりを再起動する装置が、いくつかの文明で立てられてきた。伊勢神宮の式年遷宮は、その一つの姿を見せる——二十年ごとに、社殿をまだ使えるうちに、隣の敷地へ同じ姿で建て直す。朽ちてから直すのではない。建て方そのものを次の世代の手に渡すために、保っているうちに更新する。同じ機能を担う装置は、ほかの文明にもある。古代メソポタミアでは、新しい王の即位や危機のたびに、債務を帳消しにするアマルギが布告された。レビ記25章は、五十年ごとのヨベルの年を律法として定めた。いずれも、過去から受け取り未来へ渡す感覚を、世代を越えて担い直すために立てられた仕組みである(第13章 §13-4)。現代でも、同じ構造は別のスケールで作動している。気候の安定、医療技術の蓄積、制度の連続——いずれも過去の世代が残し、手渡してくれたものの上に立っている。これらを「過去から受け取ったもの」として引き受けるか、自分たちが立っている所与として通過するかで、未来へ渡すべきものを引き受ける作動の幅も決まる。連なりを過去から受け取り直す装置——歴史記述、教育、世代間の儀礼——が現代でも作動しているかは、別の問いになる。
係留摩擦は、時間軸でも二重になる
係留摩擦の二重化は、時間軸でもそのまま働く。ある営みが未来へ送り出した付けは、自分の系の未来世代にだけ届くのではない。共有された地形を通じて、並走する別の系の未来へも流れ込む。連なりを保とうとする営みは、自分の前借りの分に加えて、ほかで未来へ押し出された付けまで、同じ未来の地形で引き受け手として待ち受けることになる。自業自得に、他業自得が重なる。
これに対して、連なりの引き受けを手放すことには、即座の見返りがある。引き受けを省けば、そのぶんの仕事は要らなくなり、現在の規模を伸ばす速度はそのまま上がる。短い時間尺度で見るかぎり、連なりを切る構えのほうが、効率がよい。連なりを保つ側は、切る側に、文明の出力の速度で後れを取る。並走する競争のなかで、これは不利として働く。係留を放棄する構えが短期で競争を制するのは、拡張加速相の短期的優位(第16章 §16-7)の現れにほかならない。
だが、連なりを手放すことは、ただ仕事を節約するだけではない。それは、文明の出力の届く先の未来世代を、能動的に「我ら」の外に置くことである。「我ら」の外に置かれた相手は、置かれたことに、何を返すのか。属州の民は、反乱を返せた。
§21-3 返ってくる先がいない——前借りの累積と非線形の回収
連なりを切るほど、前借りは軽くなる
時間方向の連なりを係留する仕事は重い(§21-2)。係留を放棄すれば、前借りは軽くなる。未来世代を「我ら」から外し、過去からの受け取りを忘れれば、前借りの付けを引き受ける相手は視界から消える。返す相手のいない先取りは、いくらでも軽く、速い。連なりを切るほど、前借りの効率は上がる。
「不等式の動性」(第16章)はこの優位を拡張加速相の短期的優位として取り出していた(§16-6・§16-7)。拡張加速相とは、文明の出力・コスト・リスクの三構造変数への態度として、係留を放棄する構えに最も振り切れた相である。係留を放棄する構えは、短期では競争を制し、長期では更新されない地を削り尽くす。いま時間軸に現れているのは、その短期の側の顔である。並走する文明が同じ現実座標系を世代を越えて共有するという競争環境のもとでは、係留を放棄して前借りで規模を急拡大できる側が短期で勝ち、係留を維持する側は構造的に押されていく。同じ非対称(空間軸 §20-2)が、時間軸では世代を越えて作動する。
しかも時間軸の送り出し先には、空間軸にない特性がある。未来世代は、抗えない。同時代の他者は、コストを負わされても反乱し、陳情し、ときに押し戻した(§20-3)。未来世代にはそれができない。まだ生まれておらず、現在の前借りに同意も拒否も抗議も返せない。送り出し先が抗えない以上、前借りには、空間軸にあったわずかな内在的ブレーキすら、はじめから欠けている。
累積は、閾値を超えて初めて見える
前借りの付けは消えない。返す相手を視界から外しても、付けそのものは未来の地形に積もりつづける。各世代が前の世代と大差ない前借りを続けるだけで、付けは線形には増えず、累積する。連なりの後段ほど、上流の世代から引き取られた量と自世代が引き取る量が重なって積み上がるからである。
そして累積された未来制約は、いずれかの世代で閾値を超える。超えるまで、それは観測可能領域に現れない——現在世代の判断回路に、まだ届いていない付けは映らないからである。超えた事後にしか、全体像は立ち上がらない。これが非線形回収因果(第15章 §15-7)の時間軸での姿である。引き受けの及ばない未来に積まれた付けは、当事者の分解能の外に落ちている。
過去の累積を見ない目は、自分がいま未来へ積み増している付けの累積も見ない。この双方向の盲目が、時間軸の自己診断を閉ざす。これは、引き受ける側が自分の外側のセルを見分けられないという構造(命題 FOE-8「引受の外の不可知」、第16章 §16-6)が、時間軸で双方向に現れた姿である。過去の累積を引き受けていれば、自分がどの段階にいるかを見積もる手がかりがある。過去を希薄化した座標系には、その手がかりがない。
メソポタミア南部の灌漑農業では、灌漑と排水の不均衡から土壌に塩類が集積し、数世紀をかけて収量を蝕んだと考えられている(年代と因果の特定には史料的・考古学的な留保がある)。どの世代も前の世代と大差ない灌漑を続けただけで、劣化は閾値を超えた事後にしか全体像として現れなかった。短い時間尺度の判断回路には、何世代にもわたる土壌の塩類化は像を結ばない。
現代でも、同じ構造は別のスケールで作動している。化石燃料の累積的な燃焼は、ある一世代の判断回路には現れない量から始まったが、世代を越えた積み上がりとして、気候の改変という形で立ち戻りつつある。各世代が前の世代と大差ない燃焼を続けただけで、累積は閾値を超えた事後にしか全体像として現れない。公的債務の累積も、同様の時間構造を持つ——各年度の判断回路には現れない増分が、世代を越えた負担として立ち戻る。
改変された地形は、物理として返る
時間軸の回収には、もう一つの相がある。改変された地形——伐採された森、塩の集積した農地、変質した気候——は、消えるのではなく、時間をかけて物理として当事者の時間に戻ってくる。
これらは、再供給されない固定 Stock——いちど削れば次の世代の起動条件そのものを痩せさせる蓄積——の費消である。第20章では、費消は流入が補いうる FO- の側にとどめられた。時間軸では、重心がここで -O- へ深まる(章扉)——取り返しのつかない二段目である。第16章でいう Stock 消尽と Flux 流動の対が、時間軸で前面に立つ局面である。
錨泊FOE は、時間軸では消尽しうる蓄えとして現れる。係留を要さない、下位レイヤーで生きて支えられる自立の地である(「どの規模まで、保てるか」第19章 §19-3)。表層に積もった土壌、再生に世代を要する森林、地表近くで採れる鉱石、化石燃料——いずれも一度引き出されれば、次の世代に同じ姿で残るとは限らない。錨泊FOE の地から引き出された分が、文明の出力に変換されて消費される。次の世代が同じ地から同じだけを引き出せるかは、保証されていない。
ここで、接地条件が、時間軸で満たされない方向に滑る。漏斗の深部に F に接地する主体が生きて保たれていることである(「どの規模まで、保てるか」第19章 §19-2)。前借りで引き込まれる F の源は、現時点ではまだ作動していない未来世代の選別構造である。消尽していく錨泊FOE の地から引き出される F は、次の世代に同じ姿では残らない。F 接地者の側にも、F の源の側にも、時間構造の非対称が立ち現れて、接地条件の充足は痩せていく。
改変の利得は判断の時間尺度の内で確定し、改変の付けは判断の時間尺度の外から戻る。この時間配置の非対称が、累積を不可視のまま進ませ、いずれ非線形に返す。送り出した先に引き受け手はおらず、付けは地形そのものに積もって、いつか現在へ立ち戻る。
前借りが切るのは、返りの経路である。健全な連なりのもとでは遅延回収として返るはずだった果は、連なりが痩せるにつれ、二つの運命に分かれる(第15章 §15-7)。連なりの先がなお生きていれば、果は潜伏する。誰の判断にも入らないまま走りつづけ、蓄積し、ある世代で閾値を超えて噴き出す。連なりの先が死ねば、果は真正の断絶へ落ち、噴き出すことすらない。送り出し先が自系の延長である以上(§21-4)、それは自系の未来の死でもある。どちらに落ちたかは、送り出した側には見分けられない。見分けられないものに、ブレーキは掛けられない——累積が内在的ブレーキを欠くのは、このためでもある。前借りとは、自分の遅延回収を、潜伏か真正の断絶かのいずれかへ、自らの手で書き換える操作である。
送り出した付けの累積が、起動条件の地までを削ったとき、何が立ち現れるのか。その問いの総合は、三軸が交わる地点を待たねばならない。だがその前に、時間軸には、空間軸との並行が尽きる一段が残っている。
§21-4 抗えない相手と自系の延長——時間軸の送り出しの構造的特異性
時間軸には、空間軸にない構造的特異性が二つある。
抗えない相手の帰結
第一の特異性は、送り出し先が抗えないことから直接出てくる。
空間軸では、送り出し先となった同時代の他者は、コストを負わされたとき、反乱・陳情・外交・撤退といった応答を返しえた(§20-3)。送り出す側はその応答を通じて、送り出しが「相手のいる」操作であることを知らされていた。たとえ多くの応答が押し戻されたとしても、応答そのものが存在することが、送り出しに「相手がいる」という最小の認知を与えていた。
時間軸では、この最小の認知が欠ける。未来世代は、まだ生まれておらず、現在の前借りに同意も拒否も返せない。送り出す側にとって、送り出し先は「応答しない相手」として現れる。この応答の不在は、しばしば「相手の不在」と区別がつかなくなる。応答しないものを、相手として認知することは、構造として容易ではない。
ここに、空間軸との非対称が立つ。空間軸では、抗える相手の存在が、送り出しに「これは送り出しである」という最小の認知を残していた。時間軸では、抗えない相手は、送り出しを「送り出しではない、現在の決済の内部での操作である」として現れさせやすい。前借りが現在の決済として処理される(§21-1)根拠の一つは、ここにある。
自系の延長としての未来
第二の特異性は、送り出し先の「実体」がどこから来るかである。
空間軸の送り出し先——同時代の他者の選別構造——は、現時点で現に作動している。エジプトの農夫の選別構造は、ローマが穀物を引き取る引き取らないにかかわらず、現に動いている。送り出し先は、送り出す側の外側に、独立に作動する系として存在する。
時間軸の送り出し先——未来世代の選別構造——は、現時点では作動していない。それが「あるはず」として現れるのは、現在の系の表象が、未来世代の選別構造を「将来作動するもの」として呼び出すからにほかならない。送り出し先の実体は、送り出す側の外側にあるのではなく、送り出す側の表象によって呼び出された自系の延長として立ち上がる(章扉)。
これは、空間軸の送り出しと違う事態である。空間軸では、送り出し先は自系の外側に独立して存在し、糧(F)は独立した別の選別構造の残余として供給される。時間軸では、送り出し先が自系の表象によって呼び出されたものである以上、糧の供給源も、表象が呼び出した自系の延長になる。
連なりが切れると前借りは自系内の循環になる
二つの特異性を合わせると、時間軸の前借りに固有の構造が立ち上がる。
連なりが係留されているあいだ、前借りは、まだ生まれていない未来世代を「我ら」のうちに数える作動と結合している。その係留とは、過去から受け取り未来へ渡す感覚が世代を越えて反復されていることである。前借りで畳まれた未来は、いずれその世代が現実に到達したとき、その世代の「我ら」によって引き受け直される。この再引き受けが、連なりの装置(λ₁、第8章)が果たしている機能である。
連なりが切れると、この再引き受けの作動が消える。前借りで畳まれた未来は、いずれその世代に到達するが、その世代も同じ前借り構造の内側で生まれ、自分もまた前借りを続けるという構造を継承する。前借りが「いつか返すべき借り」であるという感覚は、その世代の内側で立ち上がらない。立ち上げる装置(過去から受け取り未来へ渡す感覚を支える装置)が、すでに細っているからだ。
結果として、連なりが切れた前借りは、世代を越えても返済されず、次の世代もまた同じ構造を継承する。前借りは、世代を越えた自系内の循環になる。各世代の自系の表象が呼び出す未来を、自系の現在が糧として畳み、その畳まれた未来はその世代の次の世代がさらに畳む。糧の出所と糧の引き受け手のあいだに、もはや対話はない。
§21-3 で見た「果がどこへ返るか」の二択(潜伏/真正の断絶)とは別に、いま未来世代の側に立つと、選べる余地そのものが失われている。受け取る帰結は、二つのうちのどちらかに定まる。この循環を F・O・E の幾何で見直したとき、その二つが見えてくる。
これは構造として現に起こりうる事態である。連なりの再起動装置——アマルギ、ヨベルの年、式年遷宮(§21-2)——は、歴史を通じて、この自系内循環への対抗として立てられてきた。現代でそれに相当する装置が、どの程度作動しているかは、本書の射程の外にある。
§21-5 過去を切れば未来も切れる
時間軸の一巡
本章でたどってきたのも、一つの運動の一巡である。
時間をまたぐ「我ら」を引き受けたことから、種もみの保留から多世代インフラまで、時間方向の達成が立ち上がり、同じ表象能力が前借りという飛躍を開いた。前借りの仕組みはやがて自走し、それを生んだ連なりの引き受けから離陸した。離陸した仕組みは、そこで止まらない。測られるがゆえに手入れされ、世代を越えて洗練されていく。連なりに「我ら」を追いつかせる仕事は、過去から受け取り未来へ渡すという双方向の引き受けとしてしか作動せず、世代ごとに更新されなければ痩せていく。追う側は世代ごとに内側から起こし直すほかなく、追われる側は世代ごとに前へ出ている。係留摩擦は時間軸でも二重に積み上がる。連なりを切れば、前借りは軽くなる——返るはずだったものが、潜伏へ、あるいは真正の断絶へ、書き換えられていく。だが、抗えない相手——未来世代——への送り出しは、内在的ブレーキを欠いたまま累積し、ある世代で非線形の閾値を超えて立ち戻る。改変された地形は、Stock の物理として、判断の時間尺度の外から戻ってくる。送り出し先が抗えないこと、そして送り出し先が自系の表象によって呼び出された延長であることが、時間軸の送り出しを構造的に自系内の循環へ向かわせる(命題 FOE-15)。重心は本章で FO- から -O- へ深まった——取り返しのつかない側、再供給されない固定 Stock の上に張り付く側へ。
これらは別々の機構ではない。時間方向に伸びた前借り(O)と、それを引き受けられない連なり(E)の細り——空間軸(第20章)の構造と同型の運動が、時間方向に展開した姿である(命題 FOE-14)。
過去を切れば未来も切れる
時間軸の不安定は、未来の側だけで起こるのではない。それは過去と現在の断絶に続くものである。いまを自分たちの達成のみに帰し、過去から受け取ったという感覚を手放すこと——その目が、未来へ渡すべきものを「我ら」の付けとして数える回路を、同時に閉ざす。上流を切れば下流も切れる。時間軸で引受の不等式が破れるとは、この双方向の連なりが切れていく過程にほかならない。
空間軸の達成が、それを生んだ「我ら」を細らせたように(§20-4)、時間軸の達成もまた——種もみを残した知恵から生まれた前借りの飛躍が——それを生んだ連なりを、自らの離陸と効率のうちに断っていく。これが、時間軸で引受の不等式が破れるということの、内実である。
空間軸(第20章)と時間軸(本章)は、いずれも「我ら」の境界の外へ何を送り出すかを扱った。送り出し先は同時代の他者であり、未来世代であった——いずれも自分の外にある。続く「実存的不安定」(第22章)は、向きを変える。問いは読者自身へ返り、「我ら」を構成する内面そのものが操作の対象として立ち現れる。外へ送り出す物語は、ここで「そう問う汝自身もまた、外から動かされている」という内奥への反転へと進む。
重心は本章で -O- に滑り込んだが、まだ文明レイヤーは固定 Stock の上に立っている。第22章で重心は -O- にとどまる——文明レイヤーは消滅していない——が、もう FOE へ係留を回復する経路が痩せていく。本章で -O- へ送り込まれた消尽は、三軸が交わる第22章後半(§22-5・§22-6)で、空間軸・実存軸の消尽と合流する。