第20章 空間的不安定——操作能力の膨張と「我ら」の縮退
「我ら」を養う者たちに、「我ら」は何を負うのか。
人が群れて暮らしはじめて以来、問われつづけてきた問いである。自分の生は、自分一人の力で立っているのではない。顔も知らぬ他者の労苦の上に立っている。負うのか、と問われれば——負わぬとは言えない。引受の不等式が空間軸で破れていく姿は、この「負わぬとは言えない」というほとんど自明なところから始まる。降り口として最も浅く、最も古くから人類が問うてきた地である。
「文明の出力の幾何」(第17章)から「どの規模まで、保てるか」(第19章)までの三章は、文明の出力の規模を急峻な傾斜と大量の流れの積として取り出し、漏斗を彫り込む側の構造装置を据えた。その閉じ(第19章 §19-5)は、最後に一つの問いを残した——漏斗の深層で、O は何を糧として動いているのか。本章から第22章までの三章は、この問いに、空間・時間・実存の三軸で応える。本章はそのうち空間軸を取り出す。
空間軸とは、F の供給源を同時代の他者の選別構造に求める方向である。文明の操作能力が空間に伸びるとき、その作動は他の選別構造——他の文明、他の共同体、自然界の生態系——が現に作動して生み出している残余を、漏斗の入口に流す(第18章 §18-1)。エジプトの農夫が灌漑と耕作の選別構造を回すから、ローマの市民は食える。北アフリカの牧の選別構造が動くから、地中海の都市の靴と毛織物が成り立つ。ガリアの森林が森林として作動するから、街道の枕木と燃料が得られる。それぞれの場所で、それぞれの選別構造が動いた残余が、別の場所の漏斗に流れ込む。糧の出所は、同時代の他者の作動の残余である。
これは、文明の達成として、まず正面から評価されるべきことだ。手の届く範囲が空間に伸びたこと、より多くを養えるようになったこと、見ず知らずの数百万が分業し交換し調整できるようになったこと——いずれも、操作能力的我ら(O)が空間に伸びたその大きさそのものである。惜しむべきものは、どこにもない。本章は、この達成を達成として置いた地点から、構造の側に降りていく。
本章で送り出し先となるのは、同時代の他者——抗える相手である。属州民は反乱を起こし、流域の民は陳情し、隣の文明は外交で押し返した。現代でも、見知らぬ畑の作り手や遠い工場の働き手は、姿は見えなくとも、なお問えば声を返しうる相手として、同じ時代のうちにいる。抗える相手への送り出しは、構造の内側に、わずかなりとも内在的なブレーキを残す。重心はここで FOE から FO-(係留FOE で係留が解けた領域) へ滑るが、まだ流入が費消を補いうる側にとどまる。重心が再供給されない固定 Stock を削る -O- へ深まるのは、抗えない相手——まだ生まれていない未来世代——へ送り出しが向かう「時間的不安定」(第21章)からである。
§20-1 遠くまで届く手——空間に伸びた文明の出力と、その離陸
空間を覆う達成
まず、達成を達成として見る。
文明は——古代の文明でさえ——、手の届く範囲を空間の方向へ途方もなく押し広げてきた。一つの谷で育てた穀物が、海を越えた都市の市民を養う。一人では持ち上がらぬ石が、組織された人手によって水道橋となり、乾いた丘に水を通す。声の届かぬ距離が、街道と書簡と信号で結ばれ、ひと月かかった報せが数日で伝わる。見ず知らずの数百万が、同じ法と同じ貨幣のもとで、会わぬまま分業し、交換し、調整する。
これらはいずれも、文明の出力である。本書の言葉でいえば、「操作能力的我ら」(O)が空間の方向へ伸びた、その大きさそのものだ。文明の出力の規模は、漏斗の被覆が及ぶ範囲の広さに応じて立ち上がる。被覆が広がるほど、漏斗の入口に流れ込む F が増え、漏斗が引き出せる仕事の量も増える(第17章 §17-1)。
ローマが地中海を一つの内海として運用し、沿岸の属州から穀物と木材と金属を集めて百万の都市を養ったとき、そこにあったのは、空間に伸びた文明の出力の、紛れもない達成である。今日でも、別の大陸で組み立てられた道具が日々の手元に届き、別の半球で育った食材が食卓に並び、地球の裏側まで巡る通信が瞬時に応答する。そのような文明の達成のうえに、現代の読者はすでに置かれている。手が届く範囲は、ローマの時代よりさらに圧倒的に伸びた。
この達成は、大きく評価されるべきものである。手が遠くまで届くようになったこと、より多くを養えるようになったことは、文明がなしうることの極点の一つであって、そのこと自体を惜しむ筋合いはどこにもない。
達成はどこから来たか——「我ら」の引受が装置を生む
では、この空間的な文明の出力は、どこから来たのか。
手が遠くへ届く前に、まず「我ら」が遠くへ届いていた。会ったこともない谷の向こうの者を、同じ「我ら」として引き受ける。その引受が先に立ち上がっていなければ、海を越えた都市のために穀物を積み出す回路も、見知らぬ者と交わす契約も、そもそも成り立たない。空間的に拡張された「我ら」、すなわち「実存的我ら」(E)の空間的な広がりが、操作の空間的拡張に先行する。
その拡張された「我ら」は、装置を生んだ。会わぬ者どうしを一つの「我ら」として束ねるために、共有された物語が、記号と文字が、法と貨幣と契約が、街道と記録の網が編まれた。これらの装置は、各人が他のすべてを直接知らずとも、共有物への参照を通じて同じ「我ら」に属することを可能にする。人がじかに追える関係の数(帯域)には厳しい上限があるのに(「ホモ・デウスとホモ・マネス」第7章 §7-1)、その上限を超えて「我ら」を広げる装置である。本書の語彙でいえば、これらは λ₂(社会的索引による信頼ネットワーク)と λ₃(共有された知識ストック)の装置を、空間の方向に伸ばすことで成り立っている(第18章 §18-2)。
これらの装置こそが、空間的な文明の出力を駆動した。同じ装置が、束ねた「我ら」を足場に、生産を、改変を、流通を、調整を、空間的な被覆を増やす方向も展開する。街道は、見知らぬ者を「同胞」として束ねる回路であると同時に、軍と物資と報せを遠くまで運ぶ回路だった。一つの達成が次の達成の足場になり、累積する。敷かれた道は次の道を敷く資材と人手を運び、施工の熟練そのものが世代を越えて積み上がり、後の道はより速く、より遠くへ伸びる。文明の出力は、こうして複利で膨らむ。
達成は、「我ら」を大きく引き受けたことから生まれた——「実存的我ら」が先導し、「操作能力的我ら」が追随して伸びる。そして拡張された「我ら」は、より広い範囲の他者の作動の残余——F の流動——を、新たに漏斗の入口へ引き込む。重心が FOE のうえに保たれている局面における、文明の空間的拡張の姿である。
装置の離陸——文明の出力が「我ら」から切り離れる
ところが、ここに一つの非対称が潜んでいる。
「我ら」を束ねる装置は、いったん編まれると、それを編んだ引受がなくとも回りつづける。街道は、誰が誰を「我ら」と感じているかにかかわらず、敷かれていれば軍と物資を通す。法と貨幣と記録は、外部に物質化された参照可能物として、担い手が入れ替わっても作動を続ける。極端には、いま誰がそれを支えているかは、装置の作動にとってほとんど問われない。装置として外に物質化される操作能力は、世代を越えて自走する。
「実存的我ら」の側は、そうはいかない。「我ら」の感覚は、外に固定された記録だけでは作動しない。それが生きて働くには、一人ひとりの内側で、世代ごとに引き受け直されなければならない。前の世代が抱いた「我ら」は、次の世代がそれを自分の内で抱き直さなければ、形だけ残って作動しない。
二つの側は、別の論理で動く。操作能力は外的な装置として自走し、引受は内的な反復としてしか保たれない。ここに、命題 FUNNEL-1(保つコストの非自動性)(第17章 §17-2)の空間軸での姿がある。装置として物質化された側の保つコストは、文明レイヤーでは未来や下位レイヤーや他者へ繰り延べうる。だが引受の側の保つコストは、誰かの内側で世代ごとに支払われなければ作動を止める。装置は自動で残り、引受は自動では残らない——この非対称が、空間の方向で開く。
文明の出力が空間に伸びるほど、それを引き受けつづける係留作動の射程も伸ばさなければならない。だが係留FOE は、係留を要し、自動では維持されない。E の射程が漏斗の彫り込みに及ぶ範囲である(「どの規模まで、保てるか」第19章 §19-3)。E が O の空間的拡張に追随できないところでは係留が及ばないまま装置だけが伸び、文明の出力は、それを生んだ母胎から離陸する。
これは、装置を編む側と装置を引き受けつづける側の、駆動原理の差から出てくる。咎むべき悪事ではない。空間に伸びた装置が自走することは、装置を編んだ達成のいわば裏面である。離陸そのものは、達成と切り離せない。重心は、ここで FOE から FO-(係留FOE で係留が解けた領域) へ滑り始める。
装置は、それを編んだ引受がなくとも回りつづける。では、離陸した文明の出力に「我ら」を追いつかせる仕事の側は、誰が、いつ、どれだけ払うのか。装置が自動で残るのに対して、この仕事は自動では残らない。残らないものを残しつづけるとは、どういう負荷か。
§20-2 追いつかせる仕事——空間に広がった「我ら」を保つ
文明の出力に「我ら」を追随させる
文明の出力が「我ら」から離陸する(§20-1)。引受の不等式が成立するとは、操作能力の及ぶ範囲が、実存的我らの引き受ける範囲に収まっていること——重心が FOE のうえに保たれていること——だった(「不等式の動性」第16章)。空間方向に伸びた文明の出力に E がそれだけ追随しなければ、重心は FOE から FO- へ滑り、不等式は破れる。
E を空間的に広げるとは、どういう仕事か。ローマに住んだ市民で言えば、海を越えた都市の市民を、谷の向こうの民を、徴税され徴用される属州の農夫を、「我ら」として——その帰結を引き受ける相手として——認知し直すことである。これは、文明の出力を駆動した装置が自走するのとは、別の論理で動く。装置は外に物質化されて回りつづけるが、「我ら」の感覚は、一人ひとりの内側で、世代ごとに引き受け直されなければ作動しない(§20-1)。
引き受け直す作動は、自動では起こらない。共感を運ぶ語りが、教育の場が、儀礼の反復が、共有された物語が、その都度に組み直されていく必要がある。前の世代が「我ら」に含めた遠い民を、次の世代が自分の内で含め直さなければ、E は形だけ残って痩せていく。本書の語彙でいえば、これは λ₁(神話的MANES、地縁と対面の射程)と λ₂(SFOK、対面しない他者への信頼ネットワーク)の作動を空間方向で保ちつづける仕事である(「神話的MANES」第8章、「社会的既知感への信認」第10章)。λ₁ は対面と地縁の枠の内側で「我ら」を厚く保ち、λ₂ はその枠の外まで「我ら」を伸ばす。装置として外に物質化される側(λ₂・λ₃ の固定化された記録)とは別の論理で、内的な反復としてしか保たれない仕事である。
ローマ市民権は、その仕事の制度的な姿の一つを示す。市民権は、ローマ法・ラテン語・街道網という λ₂ の信頼ネットワークを介して、対面しない者を同じ「我ら」の内に位置づける制度として作動した。だが帝国の被覆——軍団が及び、徴税が及び、属州が組織された範囲——は、市民権の射程よりも遥かに広く伸びた。被覆の縁の外側に、市民権を持たない属州民の選別構造があった。E の射程が、O の射程に追いつかない領域である。
現代でも、同じ非対称が、別のスケールで作動している。共感を運ぶ語りや教育や儀礼が現に作動しうる範囲——λ₁・λ₂ の射程——は、ローマの時代から劇的には広がっていない。人がじかに引き受けうる他者の数(帯域)の上限は、文明レイヤーが巨大化・複雑化しても、変わっていない(第7章 §7-1)。一方で、サプライチェーンの被覆は地球規模に達した。O の射程と E の射程のあいだの差は、ローマ帝国期よりも、広がっている。
係留摩擦の二重化——自業自得と他業自得
E を広げつづける仕事の負担を、さらに重くする構造がある。係留摩擦の二重化——係留作動が課す摩擦は、自系の係留分(自業自得)に加えて、他相が放棄した係留分(いわば他業自得)まで担うこと(「不等式の動性」第16章 §16-8)。これが、空間軸ではこう具体化する。
現実座標系は、一つの系に占有されない。星々と気候と地形からなる、当該系の「我ら」とは無関係に存在する地形である(第16章 §16-1)。複数の文明が同じ地形を共有して並走し、また一つの文明のなかでも、営みごとに引き受け方は分かれる。大半の操作はその帰結を即時に確定して引き受けずに済ませ、ごく一部だけが遅延回収因果として引き受けられる。そうした配分はふつうにありうる(第15章 §15-7)。引き受けは、文明をまるごと一色に塗るのではなく、価値や営みの一つひとつのうえで分かれる。
引き受けられなかった帰結は、消えるのではない。即時に確定され、あるいは切り捨てられた帰結は、共有された地形へ流れ出て、そこに累積し、引き受け手を待つ。そして、遅延回収因果を引き受ける営みが行われている場所は——どこであれ——自分の帰結だけでなく、ほかで引き受けられずに押し出された帰結をも、引き寄せて抱えることになる。
引き受ける側のコストは、こうして二重になる。自分の操作に伴う帰結を引き受ける仕事(自業自得)に加えて、ほかで引き受けられずに押し出された帰結を引き受ける仕事(いわば他業自得)が、同じ肩へ積み上がる。E を広げつづける負担は、自分の出力の大きさだけでは測れない。共有された地形のうえで、引き受けがどれだけ手放されているかにも、左右される。
引き受けないほど、効率がよい
ここに一つの非対称が現れる。
E を広げつづける仕事は、重い。それは自走しないし、二重に積み上がりうる。これに対して、この仕事を手放すことには、即座の見返りがある。引き受けを省けば、そのぶんの仕事は要らなくなり、文明の出力を伸ばす速度はそのまま上がる。まだ返っていない帰結のための引き受け手を用意する手間を省いた側は、同じ時間のなかで、より遠くへ、より速く手を伸ばせる。
短い時間尺度で見るかぎり、引き受けない構えのほうが、効率がよい。引き受ける仕事を投じる側は、引き受けない側に、文明の出力の速度で後れを取る。並走する競争のなかで、これは不利として働く。これは、拡張加速相の短期的優位(第16章 §16-7)の、空間軸での姿である。拡張加速相とは、文明の出力・コスト・リスクの三構造変数への態度として、係留を放棄する構えに最も振り切れた相である(第16章 §16-6)。並走する複数の文明が同じ現実座標系を地理的に共有するという競争環境のもとでは、係留を放棄して O を遠くまで伸ばせる側が短期で勝ち、係留を維持する側は構造的に押されていく。
だが、引き受けを手放すことは、ただ仕事を節約するだけではない。それは、文明の出力が及んだ先の「我ら」を、能動的に切り縮めることでもある。縮めて手放した帰結は、消えてなくなるわけではない。それは別の場所へ、別の主体のもとへ届く。
§20-3 送り出した先と、返ってくるもの——表裏一体と非線形の応報
「我ら」を縮めることは、送り出し先を作ること
引き受けを手放すと、文明の出力の速度が上がる(§20-2)。だが、手放した帰結はどこへ行くのか。
引き受けないとは、帰結を当事者の時間に返さないこと——回収断絶因果として、自分の判断の外へ送り出すことである(「『我ら』の境界と因果の創発」第15章 §15-7)。送り出された帰結は、消えるのではない。どこか別の場所へ、誰か別の主体のもとへ届く。送り出しが成立するには、それを受け取る先が要る。
その送り出し先が満たすのは、操作能力的我らの中に組み込まれていることと、実存的我らからは排除されていることである。手の届かぬ相手にはそもそもコストを送り出せないし、「我ら」の内側にいる相手へ送り出せば、引受の不等式が働いて、コストは当事者の時間へ返ってきてしまう。組み込まれていて、かつ「我ら」ではない——この配置が、送り出し先の位置である。四領域(「どの規模まで、保てるか」第19章 §19-3)でいえば、E が届かない領域——O の輪郭の内側にありながら E の輪郭の外側——が、その送り先にあたる。そして、この配置は自然には生まれない。
この配置が「自然には生まれない」と言うとき、その「自然」は、直接接続の帯域に閉じた情景を指す。手の届く範囲——ダンバー数の水準(第7章 §7-1)——では、共感も教育も物語も、接する相手を「我ら」へ取り込む方へ自然に働く。この範囲でなお相手を「彼ら」に置きつづけるには、実存的我らの境界を能動的に書き換える作業が要る。
だが、ホモ・サピエンス文明は、この自然な帯域そのものを超えて成り立っている。会ったこともない数百万を一つの「我ら」へ束ねる媒介接続——神話・制度・通貨・信仰(第7章 §7-1)——それ自体が、帯域の自然な生まれ方を超えた構築物である。そしてこの媒介の係留(λ₁・λ₂)の射程には限界があり、帯域の外へ伸びる O の速度には追いつかない(§20-2)。だから文明の内側では、送り出し先は能動的な排除だけからは生じない。自然な「我ら」がそもそも届かない帯域の外では、送り出し先は、相手を排除するまでもなく、媒介の係留が伸ばされないこと——射程の限界と不作為——として口を開ける。
送り出し先は、こうして二つの相で確保される——帯域の内では能動的な「彼ら」化として、帯域の外では媒介係留の不伸長として。いずれも、O の空間的膨張が E の媒介的延長を追い越す、その差にほかならない。文明の出力を空間へ伸ばすこと(O の膨張)と、それに「我ら」が追随できず縮むこと(E の相対的縮退)は、二つの別々の出来事ではない。同じ一つの運動の、表と裏である。乖離として幾何的に取り出されたドリフトが、ここでは競争のなかで駆動される姿として立ち上がる。重心が FOE から FO- へ滑ることである(「不等式の動性」第16章)。
組み込まれて、なお「我ら」ではない
この配置の具体的な姿が、ティベリウス治世(紀元14〜37年)のローマに見える。
ローマ市民の食を支えた穀物の多くは、エジプトと北アフリカの属州から運ばれた。とりわけエジプトは、供給の量ではなく統治の形態において別格だった。皇帝の直轄として元老院属州とは別に扱われ、騎士身分の長官が統治し、元老院議員の立ち入りにすら皇帝の許可を要した。エジプトの農夫の働きなしにローマ市民は食えない——操作能力的我らの中核に、深く組み込まれている。だが同じ農夫は、ローマ市民権の外に、特殊な属州的地位に固定され、「我ら」の政治的な内側には置かれなかった。
組み込まれていて、かつ「我ら」ではない。送り出し先の二条件が、ここで同時に満たされている。同型の配置は、地理も時代も信仰も異にして反復する。イスラーム圏のズィンミー制は、啓典の民を共同体の構造的な外に置きつつ、人頭税を通じてコスト負担に組み込む配置を長期にわたって運用した。近世の大西洋奴隷交易、産業革命期の本国工場と植民地のあいだの分業——いずれも、被覆の縁の内側にありながら「我ら」の制度的内側には置かれない領域を、保ちつづけた配置である。
この配置は、遠い過去の文明の勃興期だけの話ではない。たとえば、いま読者の身近にある一台のデバイスの部品の原料となる鉱物資源は、その大部分が特定の資源国で産し、なかには手掘りの採掘場で働く者の手を経たものもある。デバイスを構成する部品は、様々な土地の工場で製造され、組み立てられる。デバイスを通して参照される情報は、どこかの誰かが大量のデータを選り分け、注釈づける作業のうえに構築されてきた。読者の日々も、こういった連なりなしには回らない。採掘の担い手も、組立ての働き手も、データを標識づける作業者も、読者の「操作能力的我ら」の中核に、深く組み込まれている。
だが同じ人々は、読者の「実存的我ら」の内側には、ほとんど置かれていない。その顔も、名も、履歴も、読者の帯域には積み上がらない。彼らは、深い文明の漏斗が必要とする役割に変換されて、操作能力の被覆の縁に立っている。たとえば、鉱物資源を掘ること、部品を製造して組み上げること、データを標識づけることである。共感を運ぶ語りも、教育も、儀礼も、そこまでは届いていない。被覆の縁は地球の裏側へ達したのに、λ₁・λ₂ の射程は、ローマの時代から大きくは広がっていない(§20-2、第7章 §7-1)。組み込まれていて、かつ「我ら」ではない。ティベリウスのエジプトで満たされた送り出し先の二条件は、いま、読者自身の手のなかで、さらに広く満たされている。
送り出し先は、役割に縛られて変質する
送り出しは、ただ受け取り手に届いて終わるのではない。受けつづける長さに応じて、送り出し先の構造そのものが変質していく。
深い文明が浅い文明を被覆に取り込むとき、取り込む側の操作(O)は相手へ届くが、その「我ら」(E)が同じだけ及ぶとはかぎらない。E が及ばないまま O だけが及ぶ配置——O 限定の編入——は、深く長く続くと安定する。被覆条件(「どの規模まで、保てるか」第19章 §19-2)が文明間スケールで満たされない配置である。ローマ市民権がカラカラ帝の勅令(紀元212年)で帝国の自由民に拡張されたように、E の射程が制度として広げられることはある。だが制度的な拡張が、共感・教育・儀礼を介した実質的な E の拡張に追随したかは、係留作動が制度の射程まで及んでいるかにかかる、別の問いである。
O だけが及ぶ配置が深まると、もう一つの構造が立ち上がる。編入された側の人々が、編入した文明の漏斗の特定の段で必要とされる役割に縛られる構造である。ローマの属州民は、帝政期を通じて、穀物生産者として、鉱山の労働者として、それぞれの位置に縛られていった。別の何者にもなりうる潜在は、編入した側の必要によって特定の役割に固定される。彼らの選別構造の残余は編入した文明の漏斗に F として流れ込むが、それは彼らが自由に作動させて生み出した残余ではなく、役割に縛られた状態で生み出されたものである。本書はこの構造を疑似F と呼ぶ。F は本来、別の選別構造が自律的に作動して生み出した残余である(第18章 §18-1)。疑似F は、その自律性を縛って残余を生み出させる配置——F の供給の自律性が、縮減される配置にほかならない。
疑似F は、異なる制度形態のもとで繰り返し現れてきた——農奴制、植民地のプランテーション、産業革命期の児童労働。その累積は、被覆の縁で、編入された側の選別構造の自律性を細らせる。いずれ編入された側は、編入した文明の漏斗のために残余を生み出す機能以外を、持ちにくくなる。
ただし、歴史上のどの形態も、この変質を完成までは運んでいない。荘園から逃げた農奴を受け入れる都市があり、プランテーションの外縁には逃亡者の共同体が立ち、把握されない裾野がつねに残った。この不徹底は、編入する側の構え——「我ら」の外を糧の供給に充てる境界設定——が緩んでいたことを、必ずしも意味しない。編入する側の操作能力が、名目の被覆の内側を、その細かさまで現に走査できなかったのである。作動圏の底面を決めるのは、名目の輪郭ではなく、O の作動が現に走査する幅である(第17章 §17-3)。徴税は村までしか届かず、台帳は世帯の内側を写せず、報せは街道の速さを超えなかった。疑似F の徹底度を規定する変数は、構えの側だけではない——被覆の広さとは別の、被覆の内側への浸透の細かさである。配置を生むのは構えだが、配置がどこまで徹底されるかは、浸透が決める。編入された側に残りつづけた自律性の余白は、構えの抑制が残したものというより、浸透の限界が残したものだった。ゆえにこの余白は、構えが変わらなくても、浸透の制約が外れるだけで閉じていく。送り出し先は、送り出しを受けつづけるほど、送り出しを受けるためだけの形へと変質していく。
押し出した帰結は、いずれ返る——非線形の応報
ここまでは、送り出しが成立するあいだの話である。だが、送り出しは永遠には閉じない。
引き受けられずに押し出された帰結は、共有された現実座標系(§20-2)へ流れ出て、そこに累積する。送り出し先に届いたコストも、その先で消えるのではなく、物理的・社会的な蓄積として地形に積もっていく。当事者の判断回路には、この累積は現れない——回収断絶として送り出したものは、定義上、当事者の時間に返らないからである。引受の不等式は、ここでは規範的要請である前に、自らを蝕む消尽を見るための認識論的条件として働いている。引き受けの及ばない領域に流出した帰結は、実存的我らの分解能の外に落ちる。O > E に破れているあいだ、送り出しの累積は当事者の判断回路に像を結ばない。
だから、送り出しているあいだ、当事者から見れば「破綻の徴候」はない。
しかし、蓄積がある閾値を超えると、それは無視しきれなくなり、非線形回収因果として——遅れて、まとめて、原因との結びつきを欠いたまま——当事者のもとへ強制的に立ち戻る(第15章 §15-7)。これは、リスクと呼ばれてきたものの姿である。それは「悪いことが起こるかもしれない」という確率の話ではない。意味づけの回路を欠いた帰結が、選別構造を突き破って強制的に顕現する事態である。
この応報のたちの悪さは、それが当事者の判断システムに事前には同定できないことにある。閾値を超えるまで、累積は観測可能領域に現れない。超えた後では、すでに手遅れである。引き受けを手放して効率を得た構えは、まさにその手放しによって、応報を事前に察知する回路をも手放している。短期の効率と、応報の不可視性は、同じ一つの構えの表と裏である。
文明の出力を伸ばし、「我ら」を縮め、コストを送り出した先で蓄積が進み、いずれ非線形に返る。この一巡が、空間軸で立ち上がる引受の不等式の破れの姿である。
§20-4 コストは外へ送り出される
空間軸の一巡
本章でたどってきたのは、一つの運動の一巡である。
まず、空間的に「我ら」を引き受けた寛さが装置を生み、その装置が文明の出力の空間的成長を駆動した(§20-1)。文明の出力は達成として膨らみ、やがて装置は自走し、文明の出力はそれを生んだ「我ら」から離陸した。離陸した文明の出力に「我ら」を追いつかせる仕事は、λ₁・λ₂ の係留作動として、世代ごとに引き受け直されなければ作動しない。係留摩擦は二重に積み上がる(§20-2)。係留を放棄すれば、短期の効率は上がる。だが、放棄することは、文明の出力の届いた先の「我ら」を能動的に縮め、コストを「我ら」の外へ送り出すことだった(§20-3)。送り出された帰結は消えず、共有の地形に累積し、いずれ非線形に返る。送り出し先の配置は、O 限定の編入と疑似F として、安定して続きうる(§20-3)——送り出し先の選別構造の形そのものが、送り出しを受けつづける長さに応じて変質していく。
これらは別々の機構ではない。空間に伸びた文明の出力(O)と、それに追いつけず縮んでいく「我ら」(E)は、同じ一つの運動の表と裏である(命題 FOE-12、§20-3)。上から見れば文明の出力の膨張、下から見れば「我ら」の縮退、横から見れば引き受けない構えが競争のなかで広がること、奥から見れば送り出された帰結が地形に積もっていくこと——引受の不等式が空間軸で破れていく姿は、これら全部が同時に進む一つの運動である。
前に出るのは、達成だけ
この運動には、非対称がある。前に出るのは達成だけで、その代価は遅れて、見えないところで進む。
文明の出力が伸びる達成は、いま・ここで前景に立つ。養える口が増え、結べる距離が伸びる——それは直ちに判断回路に届く。これに対して、係留作動の不足も、送り出した帰結の累積も、前景には立たない。離陸の下げにくさは縮小を試みて初めて現れ、送り出しの帰結は閾値を超えて初めて返る。係留を放棄して効率を得た構えは、まさにその放棄によって、代価を事前に見る回路を持たない(§20-3)。
だから、この破綻は、達成そのものの裏面として進む。空間に手を伸ばしたこと、より多くを養えるようになったことは、惜しむべきことではない。ただ、文明の出力は——それを生んだ「我ら」の引き受けを、自らの離陸と効率のうちに細らせていく。これが、空間軸で引受の不等式が破れるということの、内実である。
送り出し先は、抗えるか、抗えないか
本章で送り出し先となったのは、実存的我らから排除された同時代の他者だった——なお抗いうる相手である。彼らは反乱を起こし、陳情し、ときに押し戻した。その抗いはしばしば構造に飲み込まれたが、抗いうる相手であったことそのものが、空間軸の送り出しに、わずかなりとも内在的なブレーキを残していた。重心は本章で FOE から FO- へ滑ったが、まだ流入が費消を補いうる側にとどまった。
ただし、その「補いうる」は、送り出しを受けつづける長さに応じて痩せていく。疑似F とは、FO- を -O- へ転じさせる機序である。 自律性を縛られた選別構造は、縛られたぶんだけ、自ら作動して残余を生む力を細らせる。流れ込みつづける流動源が、更新されない蓄積へ、送り出し先の側で変わっていく。空間軸は FO- で閉じるのではない。閉じたところで、次の段への転じが、すでに始まっている。
時間軸では、このブレーキが一つ失われる。「時間的不安定」(第21章)で送り出し先となるのは、まだ生まれていない者——未来世代である。彼らは、現在の出力に同意も拒否もできず、反乱も陳情も返せない。抗えない相手への送り出しは、抗える相手への送り出しよりも、容易である。「空間に伸びた手」の物語は、ここから「まだ見ぬ者への前借り」の物語へと、一段深く降りていく。そこで重心が滑り込むのは、再供給されない固定 Stock を削る -O- である。取り返しのつかない側への、乖離の二段目である。