第Ⅳ部 引受の不等式の不安定さ
第Ⅰ〜Ⅲ部で本書は、「我ら」を立ち上げ、運び、終わらせ、引き継ぐ MANES の装置を見てきた。操作の側は安く自走し、実存の側の引き受け直しは重い。いったん開いた差は閉じ直しにくく、引受の不等式は、ここで累積する不均衡として作動しはじめる。第Ⅳ部は、この不均衡の根源を、二つの「我ら」の関係の状態として探る。この状態に、次の問いを立てる。
結果は、いつ、誰に返るか。 因果の射影法である。行為の帰結が行為者に返るのか、別の誰かに返るのか、そもそも返らないのか。
重心は、どこにあるか。 流動と操作と実存の重なりの射影法である。系がいま立っている足場が、二つの「我ら」とどう重なり、どうずれているか。
どの規模まで、保てるか。 文明の出力の射影法である。出力はいかに生まれ、どれだけの大きさの「我ら」を、どれだけの安定性で、支えうるか。
これらは文明という同じものを、別の角度から射影する三つの射影法である。ある射影法で見えるものは、別の射影法では背景に退く——射影法どうしの固有域(「世界を切り取る幾何学」第1章)である。
三つの射影法で探ると、文明の MANES にはいくつかの相が現れる。保とうとする相がある。縮んで安定する相がある。破れたまま進む相がある。先に言っておかなければならない——これらの相のあいだに、序列はない。宇宙はどの MANES も上位に置かない。それらの相のあいだにある差は、良し悪しではなく、どちらへ転がりやすいかという傾向だけである。
第15章 「我ら」の境界と因果の創発——非対称性因果とは
「我ら」と感じる範囲は、文明の運命と直結している。
引受の不等式(序論 §6)、すなわち、「操作能力的我ら」(O)≤「実存的我ら」(E)——「操作能力的我ら」が「実存的我ら」の内に収まっているか——は、当たり前のように成り立つ前提ではない。壊れやすい不均衡として作動している。
この不等式が文明の運命と直結する——本書はこれを、次の主張として立てる。本章から第Ⅳ部を通じて、命題として順に接地させていく。
第一は、主観的な感覚としての「我ら」の境界が、客観的な構造としての文明の運命を直接規定するという主張である。技術が、制度が、経済が文明を動かすという見方を本書は否定しない。しかしそれらすべての上で、誰を「我ら」と感じるかという主観的な分節が、文明が HZ(創発可能帯域)内に留まりうるかどうかを分かつ構造的拘束条件として作動している。実存的な境界が、文明の運動傾向を決める支柱として立つ。
第二は、この不等式そのものが、宇宙の普遍法則ではなく、創発したレイヤーでのみ成立するという主張である。閉じた宇宙では情報はどこにも消えない。因果の応報は宇宙論的な地においては当然のことである——「不等式が破れる」事態はそこには存立しない。創発した開放系が、選別構造を介在させて初めて、因果の対称性破れが起こり、非対称性因果が立ち上がり、引受の不等式という拘束条件が世界に持ち込まれる。
本章では第二の主張を論証し、引受の不等式と非対称性因果の接地を与える。第一の主張が構造記述として接地されるのは、本章で立てた構造のうえで、不等式が文明レイヤーで動的・不安定な拘束条件として作動することが示され、破綻側を中核とする運動が文明の頓死経路を構成することが論証されたときである。これは「不等式の動性」(第16章)が引き受ける課題である。
§15-1 宇宙論的な地——因果は応報である
因果応報という観念
結果は、いつ、誰に返るか。
因果応報という言葉がある。行為と結果が結びついているという観念は、多くの文化に共通して見られる。この観念は、しばしば善悪の階梯として理解されてきた。善き行為には善き結果が返り、悪しき行為には悪しき結果が返る——という形で。
火に触れれば、火傷をする。触れた者の善悪を問わず、結果は即座に、触れた当人に返る。ここでは行為と結果の対応はあまりに明白で、物語を必要としない。雷はそうではない。どこに落ちるか、いつ落ちるか、誰に落ちるかは、当人の行ないと釣り合うようには見えない。多くの文化が雷を天空神の怒りとして——天罰として——語ってきたのは、この釣り合わなさを埋めるためだったように思える。結果がどこに・いつ・誰に返るかが見えないとき、人は善悪の帳簿を持ち込み、対応関係を物語として扱ってきた。
本書はこの観念を別の視点から扱う。重要なのは行為の善悪ではなく、因果の対応関係そのものの構造である。ある行為が及ぼした結果が、どこに・いつ・誰に対して立ち上がるか——この対応関係の構造を本書は問う。応報という語の字義に立ち戻れば、「応じて、返る」である。では、返るとは、どこで成り立っていることなのか。誰もいなくても成り立つことなのか、それとも、受け取る側に何ものかが立っていてはじめて成り立つことなのか。
宇宙論的な地——応報が当たり前に成立し対称である
物理的世界において、行為と結果は時空的因果関係によって結ばれている——という命題は、何を意味しているか。素朴に読めば、行為がエネルギーや運動量や情報を伝搬させ、その伝搬が別の場所と別の時点に到達して結果を生む、ということである。伝搬の経路は分岐しうるし、結果は複数の経路の重ね合わせとして現れうるが、いずれの結果も伝搬の総体のなかから抜け出すことはない。
この命題を、選別に先立つ極限まで遡って考えてみる。時間の矢——前と後の別——は流れていても、返りの宛先を画する選別構造は介在していない。本書はこれを宇宙論的な地(じ)と呼ぶ。ここでは「何が原因で、何が結果か」という非対称が、まだ立っていない。「世界を切り取る幾何学」(第1章)で、勾配は、等方的な R空間には存在せず、射影が生成するものだと述べた。同じ構造が、時間と因果にも及ぶ。時間の矢も因果の向きも、この地そのものには内蔵されていない。では、内蔵されていない矢は、どこから来たのか。矢を立てたのは、最基底の対称性破れ——選別が法則として固定される、最初で最も薄い介在である(「LEFFLAとLOT」第3章が「物理基底では選別が法則として固定されている」と置いた、その固定がこれにあたる)。法則として固定された選別は、どこでも同じに働く。ゆえに矢は立つが、返りの宛先は画されない——応報の対称は、この介在では破れない。宛先を画するのは、このあとの節が立てる、可変で局所の選別構造である。本書は、この地が「実在する無時間」なのか「時間がまだ生成されない極限」なのかを判定しない。判定せずとも、以下の議論は同型に運ぶ。
宇宙論的な地において、因果は応報である。応報の語は字義通り——「応じて返る」——として用いる。ただし、ここで応報が無条件・自動的に成立する理由に注意がいる。それは、何かが律儀に保存されて返ってくるからではない。そもそも「返る/返らない」という区別が、宛先を画する選別構造を介してはじめて立つからである。そうした選別のない地には、「引き受けられた因果」と「取り逃した因果」の差そのものがない。差がない以上、「応報がない」という事態も、この地には存立しない。応報は、宛先を画する選別を介さないがゆえに、区別の不在として無条件に成立する。
ただし、これは宇宙が善悪の応報を保証しているということではない。行為の帰結が、行為者にとって意味のある形で観測されるか、行為者の所属する系がそれを参照できる形で蓄積されるか、その帰結を引き受ける主体性が継続して存在するか——これらは別の問いである。宇宙論的な地に応報があることと、創発した上位レイヤーで因果が当該系の内側に立ち上がることのあいだには、ズレがある。
整理する。宇宙論的な地において、因果は対称である。応報は、区別の不在として無条件に成立する。本書はこの地の因果を対称性因果と呼ぶ。創発した系が選別構造を持ち込むとき、この対称が破れる。どこで、何が、どのように破れるのか——次節は、選別構造の作動に降りる。
ここで、本書の中核命題の一つが立つ。序論 §4 の宇宙論的中立性が、対称性因果として構造記述の語彙で再確認される位置である。
§15-2 選別が世界を因と果の二つに分ける——非対称性因果の立ち上がり
破れはどこから生じるか
破れは、選別構造(「圧縮から創発する世界」第2章)から生じる。
創発した開放系は、宇宙のあらゆる差異を保持することはできない。Stock と Flux の制約(「圧縮から創発する世界」第2章)のもとで、系は限られた差異を選別して保持する。系の選別構造は、無数にありうる差異のうち、限られた集合を有意な情報として取り込み、それ以外を実効的に切り捨てる。系が存続し作動できるのは、この選別の結果として圧縮された情報構造のうえに、有限の操作可能性が成立しているからである。
選別構造は、接続可能圏 Ω を有意な領域と実効的に切り離された領域に分節する。LEFFLA と LOT(「LEFFLAとLOT」第3章)の語彙でいえば、こうである。選別の内側に取り込まれた差異は、当該系の判断回路に入る。選別の外側に押し出された差異——LOT——は、宇宙論的にはなお存在しているが、当該系にとっては実効的に存在しない。
これが対称性破れの起点である。
宇宙論的な地において対称的に保存されていた情報は、創発した上位系の側では、選別構造を通過した部分のみの因と果だけがつながり、通過しなかった部分は接続しない。創発した上位系は、選別された部分の内側でみずからの寿命を生き、選別の外側に押し出された部分が現実に作動しつづけることを、自らの内部からは原理的に追跡できない。このような非対称性の立ち上がりを、本書は非対称性因果と呼ぶ。
立ち上がった非対称性因果は、宇宙論的に成立している応報の全体ではなく、選別構造が切り取った投影である。対称性因果と非対称性因果のあいだに、選別構造の介在による対称性破れがある。
ここで、時間と因果を分けておく。時間とは時間の矢——前と後の別——である。この矢を宇宙論的な地に立てたのは、最基底の対称性破れ——選別が法則として固定される最も薄い介在(§15-1)——である。矢は、その上に積み重なるあらゆる選別構造に共通して流れる。これに対し因果とは、ある選別構造の中でその果が見えるか否か——その内に返ってくるか、外へ抜けるか——である。対称性を破る選別構造は一つではなく無数にありうるから、何が果として返るかは、どの選別構造から見るかに相対的になる。共有されるのは、矢の向きだけである。すべてを刻む一つの時計があるのではない。
因果はそれ自体では立たない——龍樹の否定と選別構造
このような記述からは、宇宙論的な地と創発したレイヤーを「ある」「ない」として並べているように感じられるかもしれない。だが、そうではない。選別構造の内側に取り込まれた差異も、選別の外側に押し出された LOT も、宇宙論的な地ではいずれも同じ伝搬の総体のなかに位置する。両者を分けているのは、創発した上位系の側の選別構造であって、宇宙の側の区分ではない。
古典的な平面の盤——たとえば日本の本将棋の盤面——を、帯域の異なる選別構造として見てみよう。ある歩が1三のマス——筋と段で位置を示す将棋の記法である——から動き出し、1四、1五と進み、1六で相手の歩を取り、そこで相手の香車に取り返される。「1三から動いた」という因が、「1六で取り返される」という果を生んでいる。だが、盤の全体——八十一マス——を帯域に持つ選別構造ではなく、1三のマス一つだけを帯域に持つ選別構造から見れば、歩がそのマスを出たあとのことはもう見えない。「1六で取り返された」という果は、1三のマスには返ってこない。同じ一本の連鎖が、盤の全体を見る広い帯域では果まで見えて返り、一マスだけの狭い帯域では果が外へ抜けて返らない。因果が返るか返らないかは、果を受け取るべき相手の側が返すか否かではなく、選別構造がどれだけの帯域を持つかに依るのである。
いまの盤の上で、角度を変えてもう一度問うてみる。「1三を出た」という因と、「1六で取られた」という果——この二つは、同じ一つの出来事なのか、それとも別々の二つの出来事なのか。同じものなら、因と果を分けて呼ぶ意味がない。まったく別のものなら、無関係な二つが、なぜ一方は他方を生んだといえるのか。因の側を覗いても、果の側を覗いても、「生む」という結びつきそれ自体は、そこには見当たらない。動き出した歩のうちにもなく、取り返す香車のうちにもない。
龍樹は二世紀ごろ、まさにこの問いを立てた。因果は、因と果それぞれに内在する性質——龍樹のいう自性——から成り立つのではない。それ自体で立つのではなく、関係のうちにのみ仮に立つ。龍樹はこれを縁起と呼んだ。
龍樹が論理の側から示したこの否定を、本書は選別構造の側から裏づける。主体が体感する因果は、それ自体としては自性を持たない——では、何が関係をつなぐのか。選別構造である。下位レイヤーから創発した選別構造の積み重なりのなかで、仮に成立した関係である。「あの行為がこの結果を生んだ」と体感されるとき、その因果の輪郭は、当該系の選別構造が分節した結果として立ち現れている。輪郭の外には、選別から漏れた伝搬が、宇宙論的にはなお作動しつづけている——ただし当該系の内側では体感されない。
ここで、二つの経路が一つの結論に重なる。本書は選別構造の機構の側から達した——選別構造が因と果を切り取るから、選別を経ない因果は立たない。龍樹は論理の側から、同じ結論に達していた——因果はそれ自体では成り立たず、関係を経なければ立たない。出発点は離れているが、行き着く先は同じである。
因果の対称性破れ——対称性因果から非対称性因果が分化すること——によって帯域の外に消える因果は、主体が「失敗して取り逃した」ものではない。それは、創発した系が選別構造を持つ以上、避けることはできないものである。
§15-3 入れ子構造と可変選別
とはいえ、選別の外へどれだけのものが押し出されるか——その程度は、レイヤーごとに異なりうる。創発の階層的な積み重なりをあらためて確かめて、選別構造の可変性がレイヤーごとにどう分布するかを見ていく。
上位レイヤーは下位レイヤーに依存する——入れ子構造
創発は段階的に積み重なる——各レイヤーは、下位レイヤーの作動の出力を素材として創発し、その境界条件のなかで作動する。この積み重なりが入れ子構造である(命題 FLUX-4、「圧縮から創発する世界」第2章 §2-6)。本節はそれを引受の不等式の文脈で受け、下位の停止が上位に及ぶ動性と、レイヤーごとの可変選別の分布を取り出す。
各レイヤーは、下位レイヤーが安定して作動しつづけることを前提とする。下位レイヤーが機能停止すれば、その上に乗っていた上位レイヤーは必然的に機能停止する。逆向きの依存はない——上位レイヤーが機能停止しても、下位レイヤーはそのまま作動を続けうる。
超高温、あるいは超低温の環境において、高分子化学反応はある閾値を超えれば作動しなくなる。つまり、化学レイヤーが作動しなくなった環境だ。この時、化学レイヤーの上に乗る生命レイヤーはどうなるか。タンパク質は変性し、酵素は機能を失い、膜は崩壊する。化学反応の連鎖として成立している生命は、必然的に死ぬ。これは生命が「弱い」からでも「悪い選択をした」からでもない。生命というレイヤーが化学レイヤーに依拠して成立している以上、下位の崩壊は上位の崩壊を直接的に帰結する、という必然である。
同じ構造が、他のすべての階層境界で成立する。生態系基盤が破壊されれば、その生態系に依拠して成立している知性は機能しない。知性を支える神経・代謝系が損なわれれば、その知性の上に成立していた文明的判断は中断される。物理基盤——電力、通信網、計算装置——が崩れれば、その物理基盤に依拠して作動していた情報処理系も停止する。
最後の例が示唆するように、入れ子構造は人間の知性に固有のものではない。下位レイヤーへの依拠は、いかなる知性タイプにも成立する。生物学的な身体に依拠しない知性であっても、何らかの物理基盤に依拠している以上、その物理基盤の崩壊から自由ではない。文明レイヤーで作動するいかなる系も、自身の依拠する下位レイヤーから完全には逃れられない。
入れ子構造は、創発した上位レイヤーがどれほど豊富な機能を獲得したとしても、下位レイヤーの境界条件のなかでしか作動できないという構造的拘束を意味する。上位レイヤーは、下位レイヤーの境界条件のなかでだけ自由である。その境界を越えた振る舞いは、たとえ短期的に成立したとしても、依拠の連鎖を断ち切ったときに必然的に崩れる。
選別構造は変わりうるのか——物理・化学の法則、生命の進化、知性・文明の可変
入れ子構造は構造的拘束だが、各レイヤーが下位レイヤーの拘束のなかで何をするかは、レイヤーごとに様態が大きく異なる。とくに選別構造の可変性は、レイヤーによって質的な差を示す。
物理・化学レイヤーでは、法則である。選別構造は物理法則そのものに組み込まれている。原子間結合の閾値、相転移の境界、エネルギー準位の量子化——これらはいずれも法則の表現であり、法則そのものは可変ではない。物理・化学レイヤーで起こる「選別」は、所与の境界条件のもとでの不可避な分節であって、物理系や化学系の側で動かしうるものではない。
生命・生態系レイヤーでは、進化である。選別構造は進化を介して可変となる。何を取り込み何を排除するか、何に応答し何を無視するかは、変異と選択の累積を経て長時定数で組み替えられる。ただし、組み替えの単位は世代を越える時間スケールであり、進化的拘束のもとでしか動かない。生命・生態系の選別構造の可変性は、個体や群の側からは事実上の固定として現れる。
知性・文明レイヤーでは、可変である。選別構造の可変性が質的に変わる。表象能力を持つレイヤーでは、何を有意な情報として取り込み何を排除するかが、内側からの操作対象となる。座標系を組み替え、報酬関数を再設計し、共存条件の境界を引き直すことが、進化の時間スケールを待たずに——個体の生涯のなかで、ときには対話の場面のなかですら——成立しうる。
下位レイヤーの拘束のもとに与えられた情報のうち何を判断回路に入れ、何を切り捨てるかを動かしうる。これによって知性・文明レイヤーは、下位レイヤーが課す境界の内側で、桁違いに広い操作可能性を獲得している。
しかしこの能動性は、入れ子構造からの解放を意味しない。可変選別を持つレイヤーであっても、自身の依拠する下位レイヤーが機能停止すれば、必然的に機能停止する。操作可能性の桁違いの拡張と、下位レイヤーへの構造的拘束は、共存する。
では、知性・文明レイヤーが能動的に対称性を破る能力を発揮するとき、その破り方が下位レイヤーの境界条件と整合することは保証されるのか。物理・化学レイヤーは選別が可変でないため、過度に対称性を破ることができない。生命・生態系レイヤーは進化的時間スケールで動くため、過度な破壊が成立する前に淘汰が作動する。知性・文明レイヤーには、いずれの歯止めも組み込まれていない。可変選別の対象は、下位レイヤーの境界条件そのものを含みうる。つまり、過度な対称性破れの可能性が、知性・文明レイヤーには存在する。歯止めは保証されていない。
§15-4 応報から学習へ
選別構造が対称性因果を破って、因と果を生む。つまり、選別構造とは、その主体にとっての因果の構造そのものと言える。そうであれば、選別構造の可変性は、そのまま因果の可変性の話ということになる。では、因果が選別構造によって可変であることは、主体にとって一体何を意味するのであろうか。
個々の主体にとっては応報しない因果がある
§15-2 で見たように、選別構造を介すると、因と果の接続のうち選別を通った部分だけがつながり、通らなかった部分は接続しない。果は、帯域の内に返るものと、外へ抜けるものとに分かれる。あるいは、別の選別構造がその系の外部に排出した果が、別の系にとっては沸いたように果として現れることがある。
宇宙論的な地では、こうではなかった。そこでは因果は応報であり、果は必ず返った——「返る」と「返らない」の区別そのものがなかった(§15-1)。破れによって初めて、返らない果と沸いて出る果——応報しない因果が生じる。帯域の外へ抜けた果は、宇宙論的にはなお作動しつづけているにもかかわらず、系の内には現れない。
日本の本将棋では、チェスや象棋と違って、相手から取った駒を自分の持ち駒として再び利用することができる。持ち駒は駒台に置く。持ち駒は別の機会に盤面に打ち直すことができる。選別構造の帯域を盤面だけでなく駒台という帯域に広げてみよう。さきほどの例で言えば、1六で取った相手の歩と、1六で取り返された自分の歩は、盤面という帯域の外側に消えた。盤面で起きた因に対応する果として、盤面という帯域からは外に消えた。駒台という帯域に目を移そう。自分の駒台には歩が沸いた。相手の駒台にも歩が沸いた。盤面に視点を戻すと、駒台から歩が打たれたとき、盤面の外側から駒が沸いて出現する。しかし、盤面と駒台をあわせた本将棋全体の帯域の中では、いずれの歩も消えていないし沸いてもいない。
選別構造によって、返らない果が生じる。他の系からの排出が届くことも生じる。これが対称性因果が破れて、非対称性因果が創発するという意味だ。宇宙論的な地のうえに重なった選別構造のレイヤーでは、物理・化学レイヤーでも、生命・生態系レイヤーでも、果は抜けているし沸いている。
非対称性因果と学習——応報の自動性が崩れているから学習が成立する
では、選別構造が可変であることは、ここに何を加えるのか。
応報が自動でなくなった地点より先に、成立するものがある——学習である。果が帯域の外へ抜けうるということは、裏を返せば、その果を次は内へ取り込むよう、選別構造の側を更新する余地が、ここに生まれたということである。果が選別構造へ返り、その内容を書き換える——この回路は、応報の自動的な往復のうちには存在しなかった。応報には、外れた果を糧にするすべがない。
雷を例にとろう。宇宙論的な地において、雷は当たり前に応報している。放電は伝搬し、帰結はどこにも消えない。だが受け手の側から見ると、雷雲の発生という因は帯域の外にあり、落雷という果だけが帯域の内に落ちてくる。大気のどこで電荷が分かれ、どの経路を伝ってきたのか——因の連鎖は、受け手の選別構造が持つ帯域の外で進行し、落雷という果だけが、ある時、帯域の内に届く。
因を欠いたまま果だけが届くとき、雷は釣り合わないものとして現れる。この釣り合わなさに、生き物はまず身をもって応じる。空が変われば物陰へ走り、閃光を避けるようになる。落雷という果——痛み、死——が、その個体の生涯のうちに、いつ・どこを避けるかという行動を彫っていく。これは学習である。だが、避けることは、雷がなぜそこに落ちたのかを問わない。果に応じて身の振りを変える、という学習だ。
だが、因の側そのものを問い、組み替える応じ方もある。雷に打たれて死ぬことを天罰として語る文化は、帯域の外にあった因——大気のどこかで電荷が分かれたこと——を、帯域の内の因——当人の行ない、その善悪——に置き換える。これは果に応じて身を変える学習を超えて、因の側の枠組みそのものに手をかける応じ方である。この段——引受——は、次節以降で正面から扱う。本節は、その手前、学習にとどまる。
応報の自動性——応じて必ず返る——が崩れた先では、外れた果を糧にできるか否かが、選別構造の側に懸かるようになる。ではここで、レイヤーの階段として並べて見直してみよう。鍵は、果が選別構造へ返って内容を更新できるか——果を糧とする回路=学習が、どこで立つかである。
宇宙論的な地——応報。果は必ず返るが、返り先を画する選別構造がない。区別は不在である。宇宙は、因果から学ばない。
物理・化学レイヤー——選別構造はあるが、法則に固定されている。果は帯域の外へ抜けるが、それを内へ取り込む回路がない。果の去就は委ねられておらず、立ち上がる非対称性因果は応報とほとんど見分けがつかない。物理・化学レイヤーにとって、法則は、ある条件が与えられたときの反応であって、学習のきっかけにはならない。
生命・生態系レイヤー(淘汰)——ここには、果が選別構造に返る回路がある。変異と生死という果が、世代を越えて遺伝的な選別構造を書き換える——淘汰である。これは引受の前駆形といってよい。だが、淘汰は自動である。環境が剪定するのであって、主体が引き受けるのではない。果の去就はなお、主体の側には委ねられていない。たとえば、地上の動物にとって、窒素分子は呼吸する空気の大部分を占めながら、代謝されることのない物質である。窒素は、アミノ酸——タンパク質の部品——を成す、生命に欠かせない元素でもある。生命に欠かせないものに包まれていながら、ある動物がその一生のうちに、自らの遺伝的形質を動かして空気中の窒素を代謝できるようになることはない。窒素を固定できる選別構造を持つ生物種は現にいる——根粒菌のように——が、それは変異と選択が世代を越えて書き換えた結果である。個体の生涯のうちに動かせるものではない。
生命・生態系レイヤー(個体学習)——淘汰よりもう一段、果の回路が個体に近づく。ソーンダイクが問題箱で見たように、餌にたどり着いた行動は満足によって刻まれ、外れた行動は弱まる——効果の法則である。果——餌や痛み——が、その個体の生涯のうちに、何に注意し何を選ぶかという選別構造の内容を書き換える。世代を待たず果が生涯内に選別構造へ返るこの回路は、淘汰よりも近い引受の前駆形である。だが、これもなお引受ではない。書き換わるのは選別構造の内容であって、その枠組み——何を餌とし何を避けるべきとするかという報酬関数——ではない。動物は、与えられた報酬関数のうえで、いま何をどれだけ欲するかを更新できる。だが、報酬関数そのものを操作対象として組み替えることはできない。ブレランド夫妻が報告したように、硬貨を貯金箱に入れるよう仕込まれたブタは、やがて硬貨を地面で転がす採餌の本能へ引き戻され、報酬を犠牲にしてまで仕込みを崩していく。個体の学習は、種に与えられた枠組みを上書きできない。剪定する主体が環境から強化信号に変わっただけで、剪定される側にいることは変わらない。動物は学習するが、引き受けてはいない。
知性・文明レイヤー——梯子の最後の段である。選別構造の枠組みそのもの——座標系・報酬関数・共存条件——が操作対象になりうる(§15-3)。学習が果に応じて内容を更新するのに対し、ここでは枠組みの側が動く。果の去就が、ここではじめて系に委ねられる——この段が、引受である。
この階段が確かめたのは、学習がどこまで届き、どこで止まるか、である。学習は、果に応じて選別構造の内側——どの果にどう応じるか——を生涯内に書き換える。だが、何を果とすべきかという枠組み——座標系と報酬関数——には届かない。枠組みの側を動かす段は、この階段の最後にようやく現れ、次節に渡される。
§15-5 選別構造を動かす——学習の次
学習は、座標系と報酬関数の枠組みの中での最適化であった。果に応じて、何に注意し何を選ぶか——選別構造の内容——を生涯のうちに書き換える。だが、何を有意な果とし何を切り捨てるかという選別構造そのものには、手をかけない。
表象能力を持つ知性・文明レイヤーには、もう一段がある。このレイヤーは選別構造そのものを生涯のうちに動かせる。下位レイヤーの学習があらかじめ選別構造として定まった帯域の中を最適化するのに対し、表象能力は選別構造の縁を動かす。これが、学習の次に来る段——選別構造を動かす——である。
動かす選別構造は、「我ら」の境界でもある
「MANESの三層」(第6章)に立ち戻ると、座標系と報酬関数に加えてもう一つの層がある。共存条件、すなわち誰を「我ら」として引き受けるかの境界である。選別構造を動かすとは、何を因とし何を果とするか、その切り取りを動かすこと——座標系・報酬関数・共存条件の三層のいずれをも動かしうることである。引受の不等式が直接追うのは、その第三の層、「我ら」の境界である。そしてこの切り取りは、その境界と表裏一体に結ばれている。何を有意な果として取り込むかを変えれば、それを引き受ける「我ら」の輪郭も動く。逆に「我ら」の輪郭を引き直せば、何を有意とするかも動く。どちらが先かは決められない——選別構造と「我ら」の境界は、同時にしか動かない、一つの事態の二つの面である。
この選別構造と境界との表裏一体は、文明レイヤーに固有のものではない。生物の感覚器がそうである。可視光だけを帯域に持つ生物には可視光の世界が存立し、紫外線や超音波まで帯域に含む生物には、それらを含む世界が存立する。帯域を変えれば存立する世界が変わり、世界を引き直せば帯域が変わる——どちらが先かは決められない。この一般構造が文明レイヤーで現れるとき、「我ら」の境界という MANES の三層の一つが選別構造の可変性を論じるうえで重要な要素として浮上してくる。
ゆえに、文明レイヤーにおける「選別構造を動かす」とは、二つの輪郭の語で捉え直せる。序論 §6 で予告した、「操作能力的我ら」(O, The Operational We)と「実存的我ら」(E, The Existential We)である。
二つの「我ら」は別々に動く——操作実存独立変動
「操作能力的我ら」(O)は、当該系の行為が及ぶ範囲。「実存的我ら」(E)は、当該系が因果を引き受ける範囲である。選別構造を動かす作動は、この二つの輪郭を、それぞれ別の側から動かす。
ここで先に要るのは、O と E が別の論理で動くという一点である。両者は作用し合うが、同じ動きをする保証はない。本書はこれを操作実存独立変動と呼ぶ。二つの輪郭がそれぞれ何であり、何によって動くのかは、次節が構造記述として置きなおす。
もう一度、将棋盤を想い起こしてみよう。§15-4 では、本将棋では取った駒を駒台に置いて打ち直せることを例に示した。盤の外から駒が沸いて出るこの拡張は、本将棋という規則が認めている帯域拡張だった。ここからもう一歩進んだ帯域拡張を考えてみよう。将棋を覚え始めた幼い子供がやりがちな一手である。玉が詰まされた。盤上には逃げ場がない。では、盤の外に玉を逃がしたら、どうか。玉という駒は、物理的に盤外に動かせる。だが、その一手が詰みを逃れる手として認められるには、対局相手がその新しい規則を「我らの将棋」のルールとして認めなければならない。
ここに二つの別挙動がある。玉という駒を盤外へ動かす手——操作(O)。そのルール変更を対局相手と合意すること——実存(E)の側、引き受ける「我ら」の批准である。両者は別の論理で動く。手は一方的で即時、合意は双方的で別の作業を要する。相手が合意すれば、盤外への退避は正統な変種となり、枠の変更は「我ら」に編入される。いわゆる、ハウスルールが生まれたということだ。相手が合意しなければ、手は動いても枠は動かない——詰みは盤に残る。同じ一手が、相手との関係次第で、新たな変種にも、空を切る動作にもなる。
枠を動かすだけでは、引受にならない
この盤外逃げを、本書では、幼さゆえの未熟とは読まない。その読みは、「ルールは守られなければならない」という規範にバインドされたときの読み方である。
本書は、構造として読む。この構えは、操作の射程(O)だけを伸ばし、引き受ける「実存的我ら」(E)を伴わせずに、果(負け)を枠の外へ送り出そうとする構えである。それで勝てるのなら枠の外へ逃がせばよい。本書後半で扱う、操作が実存を置き去りにして加速する相の、盤上の最小形にあたる。
三つの構えに分けられるだろう。構え1、双方が「我らの将棋のルール」として合意して新しいハウスルールを創発させる。構え2、ルールはそのままに、詰みは詰み、負けは負けとして受け入れる。この構えは相手の合意を要しない。一人称で、相手なしにも成立する。この二つは、どちらかが正しいものではない。いずれの「止めどころ」を選ぶかであり、この「止めどころ」を、本書は引受と呼ぶ。構え3 は、先ほどの通りだ。双方の合意の有無に関わらず、玉を盤外に逃がす操作を行い、それを正当化する。構え1 と分かつのは、相手の批准を問うか否かである。構え3 は批准を判定基準から外し、操作が通ったこと自体を正当化の根拠にする。構え3 を、本書は引受とは呼ばない。操作(O)だけが伸びて実存(E)が伴わない——ここに、操作と実存の破れの萌芽がある。
§15-6 引受——枠を定めて辻褄を合わせる
前節は、将棋の玉の盤外逃げを手がかりに、選別構造を動かす三つの構えを取り出した。本節は、その三つを構造記述として置きなおす。鍵は、操作(O)と実存(E)が別の原理で動くこと——両者がどう合わさり、どう合わさらないか——である。
操作と実存は別原理で動く
「操作能力的我ら」(O)は、当該系の行為が及ぶ範囲である。それは行為者の自覚を要しない——自覚されようがされまいが、帰結が事実上届く範囲が、操作でかたちづくられる輪郭となる。外側から画定される事実である。「実存的我ら」(E)は、当該系が因果を引き受ける範囲である。「我ら」として共存条件に含め、応答すべき相手として認知し、結果の引受を保持する範囲——内側から構成される輪郭である。
両者は、別の論理で動く。「操作能力的我ら」は技術と組織と物理基盤の拡張で広がり、「実存的我ら」は共感と教育と儀礼と物語で広がる。一方は外部に物質化した装置として自走し、他方は各個体の経験を介してしか作動しない。駆動原理が非対称である以上、両者が同じ動きをする保証はない。
独立変動が立つレイヤー
この独立変動は、どのレイヤーにも立つわけではない。操作と実存とが別の輪郭として分かれること自体が、知性・文明レイヤーに固有だからである(§15-3・§15-4)。物理・化学レイヤーにも生命・生態系レイヤーにも非対称性因果は立っているが、そこには操作と実存の区別がなく、引き受ける主体が立たない。立った非対称は、選び取られるものでも背負われるものでもなく、系がそのなかで動く環境のままである。独立変動は、操作と実存が分化したこのレイヤーのうえで成立するものである。
三つの構え——実存は操作にどう応じるか
操作が動いて果を枠の外へ漏らすとき、実存はそれにどう応じるか。応じ方は三つに分かれる。
第一は、追随である。操作の及ぶ枠に合わせて、引き受ける枠を広げる——実存を操作のところまで伸ばす(前節の構え1)。第二は、抑制である。引き受けられる枠に合わせて、操作の及ぶ枠を抑える——操作を実存のところまで戻す(前節の構え2)。この二つは、向きは逆だが、果が引き受ける枠の内へ返るという一点で一致する。
本書はこの一致を引受と呼ぶ。引受は、枠を広げる操作ではない。操作が及ぼす果が引き受ける枠の内へ返るように、枠を定める操作である——因果の辻褄を合わせる、と言ってもよい。辻褄が合うとは、及ぼした果のことごとくが返り先を持ち、回路が引受の内側で閉じることである。
第三は、不追随である。実存を伴わせないまま、操作だけが伸びる(前節の構え3)。果は枠の外へ漏れたまま、辻褄は開いたままになる。本書はこれを引受とは呼ばない。
この三型は、引受の不等式——「操作能力的我ら」(O)≤「実存的我ら」(E)(序論 §6)——の語で、そのまま読める。追随と抑制は O ≤ E を保ち(不等式の成立)、不追随は O > E を残す(不等式の破綻)。不等式が表わすものは、文明レイヤーに固有の、選別的・能動的・主体的な引受の成立/非成立である。文明レイヤーは、引受の能動性が創発する階層であり、同時に、引き受けられない因果という概念も創発する階層である。
もう一つの構え——実存先行
ここまでの三つの構えは、いずれも操作が先に動くことを前提にしていた。一手が指され、枠の外へ果が漏れ、そのあとで実存がどう応じるか——追随するか、抑えるか、不追随のまま正当化するか。三型は、操作先行の事態に対する実存の応答である。
だが、順序は反転しうる。実存が先に動く構えがある。盤に向かう前に「この範囲をルールとする」と取り決めてから対局を始める。枠(「我ら」)を先に立て、操作(手)はその内側で動く。果は、最初から引き受ける枠の内に返るように配置されている。事後に辻褄を合わせる三型に対し、これは辻褄を構造として先に組み込む構えである。
この順序は、文明が「我ら」を築いてきた過程に対応する。「ホモ・デウスとホモ・マネス」(第7章)で見たとおり、互いに直接知らない個体を一つの集合へ束ねる巨大な「我ら」は、虚構の共有——物語・制度・儀礼——によって立ち上がる。そこでは実存感(E)が虚構の共有によって先に拡張し、操作能力(O)と規模がそのあとを追う。第7章はこれを段階表の実存先行(「操作能力的我ら」 < 「実存的我ら」)と呼び、文明の構築型の経路——「我ら」未成立→萌芽→実存先行→両軸均衡——の一段に置いた。
実存先行は、引受の能動性が最も前に出た形である。破れを事後に直すのでも、外へ出すのでもなく、操作が果を漏らす前に、それを引き受ける「我ら」の枠をあらかじめ定める。ただし、これが別に「正しい順序」でもないし、「望ましい順序」でもない——ありうる順序の一つである。第7章の段階表が示すとおり、両軸均衡に到達してもそこに留まる保証はない。先に立てた枠は、操作が追随して実存を追い抜く過程で、ふたたび三つの構えの岐路に立たされる。
不追随が分かつもの——「我ら」と「それら」
操作先行の三型に戻る。そのうち第三の不追随——実存を伴わせないまま、操作だけが伸びる構え——は、果が枠の外へ漏れたままになるというだけでなく、もう一つの帰結を生む。「我ら」の境界そのものを引き直すのである。
追随は、操作の伸びた先まで境界を広げ、果を境界の内へ覆う。抑制は、操作を境界の内へ戻すのだから、境界そのものは動かさずに済む。不追随だけが、境界を据え置いたまま操作を先へ送る。伸びた操作の射程に対して、境界は相対的に内へ引き直され、果が落ちる領域は境界の外に置かれる。引き直された内側が新しい「我ら」、外側が「それら」である。盤外へ逃げられる側のルールと、逃げられない側——果を負う側——のルールが、ここで分かれる。新しい「我ら」にとって、「それら」はもはや引き受けの対象ではない。
これは是非ではない。境界がそう引かれた、という構造的事実である。追随と不追随は、ともに「我ら」の境界を操作の伸びに対して定める構えである。一方は操作の及ぶところまで境界を広げて果を覆い(引受)、一方は境界を広げないまま操作だけを先へ送り、果を境界の外へ押し出す(不追随)。操作が大きくなり、実存が縮退する——第Ⅳ部の入口で置いたこの傾きの萌芽が、ここにある。行為は及ぶが引き受けてはいない領域、すなわち「操作能力的我ら」と「実存的我ら」の差が、そのまま「それら」の輪郭となる。
この引き直しは、自覚的にも行われる。だが文明レイヤーで支配的なのは、自覚を経ない引き直しのほうである。「操作能力的我ら」と「実存的我ら」の境界は、誰も意識的に動かしていなくても、制度の変化として、技術の浸透として、文化的慣性の蓄積として、構造のレベルで動いていく。境界は、必ずしも誰かが動かすものではない。
§15-7 非対称性因果の四類型——結果はいつ・誰に返るか
前節は、操作と実存がどう合わさるか——あるいは合わさらないか——を、構えとして取り出した。本節は、合わさった果が、あるいは枠の外へ漏れた果が、どの時間配置で返るかを問う。その場で返るか、遅れて返るか、意味付けられないまま届くか、ついに返らないか——この時間配置を、本書は非対称性因果の四類型として扱う。
四つの時間配置——即時・遅延・非線形・回収断絶
非対称性因果は、選別された世界のなかで仮に成立する。同じ物理的因果関係も、観察者がどの時間幅で観察するか、社会がどの時間幅で結果を蓄積し参照するかに依存して、別々の現れ方をする。この時間配置の差異に着目すると、非対称性因果は次の四類型に分類される。
- 即時回収因果(現在 → 現在)——行為と結果が同じ時間幅で結ばれる
- 遅延回収因果(現在 → 未来)——行為と結果が時間を経て結ばれる
- 非線形回収因果(過去 → 現在)——結果は届くが意味付け回路を介して結ばれない
- 回収断絶因果(現在 → 系外)——結果が当事者の時間に返らず結ばれない
(1) 即時回収因果(現在 → 現在)。行為の結果が、行為とほぼ同時に観測される因果である。手を火に近づければ熱さを感じる。物を落とせば落下する。商品を販売すれば代金が支払われる。行為と結果が同じ時間幅に収まり、果は当事者の内へその場で返る。
(2) 遅延回収因果(現在 → 未来)。行為の結果が、行為者の生存期間内ではあるが、相当の時間を経てから観測される因果である。教育投資が労働市場での成果として返ってくるまでには数年から十数年を要する。植樹が木材として利用可能になるまでには数十年を要する。インフラ整備が経済的便益として現れるまでには数年から数十年を要する。遅延回収因果は、結果がいまは返らない因果である。結果が現れるまでの遅延期間を通じて、行為者あるいは社会が継続して存在し、結果を引き受ける主体性を保持していることが要請される。未来が意味を持つことを前提とする因果類型である。信頼・制度・文化といった社会基盤を支える因果構造は、ほぼ全面的にこの類型に属する。
(3) 非線形回収因果(過去 → 現在)。過去の行為の結果が現在に届くが、届いた時点の受け手の側にそれを意味付ける回路が成立していない因果である。即時回収因果・遅延回収因果においては、選別構造が時間を通じて連続しているため、行為者あるいはその継承者は結果と原因を結びうる。非線形回収因果においては、結果は届くが、原因との対応関係を引き受ける意味付け回路が、届いた時点の受け手の側で欠落している。届いた結果は、応報として引き受けられず、出来事としてのみ顕現する。多くの歴史的破局や、災害として体験される事象は、この構造を持つ。
(4) 回収断絶因果(現在 → 系外)。行為の結果が、当事者の時間に返らない因果である。結果は存在する。しかし、結果は当事者の経験・観測・判断のなかには現れない。負債は——コスト、副次的影響、副生物として——未来・他者・環境・あるいは観測者がそもそも想定していない領域へと投棄される。回収断絶因果は、それ自体としては悪を構成しない。物理的に、結果が当事者の時間に返らない構造は、いかなる文明にも常に部分的に存在する。問題は、回収断絶因果が支配的になるとき、当事者の判断システム全体が、結果を引き受けることのない判断によって構成されるようになる点にある。
回収断絶の二つの型——真正と潜伏
回収断絶には、二つの事態が重なっている。第一に、果の痕跡そのものが散逸し、あるいは接続が絶えて、もはやどの系にも現に届かなくなる場合——真正の断絶である。第二に、果は現に走りつづけている——誰かの、あるいは自分自身の届く範囲の内を——にもかかわらず、判断の回路がそれを「返らないもの」として扱っている場合である。後者を本書は潜伏と呼ぶ。潜伏は、断絶の外形をとった非線形回収の前段であり、無視しきれなくなった瞬間に噴き出す。真正の断絶は噴き出さない。
そして二つは、当事者の内側からは区別できない。区別するには、参照の届かない領域を参照しなければならないからである。区別は非対称にしか進まない——潜伏は、噴き出したとき、潜伏だったと事後的にわかる。真正の断絶は、いつまでも「まだ噴いていない」と見分けがつかないまま、確かめられずに残る。排出の帳簿は、閉じられない。
因果の時間構造とは一体、何なのか——選別構造の連鎖が因果を生み、操作実存独立変動が因果の時間類型を生む
宇宙論的な地では、因果は応報である。宇宙論的な対称性因果のもとでは、即時回収因果・遅延回収因果・非線形回収因果の区別はなく、回収断絶因果は存在しない。これらの四類型は、創発したレイヤーである文明レイヤーで立ち上がった非対称性因果の類型である。では、このような因果の時間構造とは、一体、何なのか。
それは、創発した選別構造が連なり合う、連鎖する接続である。下位レイヤーから上位レイヤーに重なる階層構造によって、上位レイヤーは下位レイヤーの選別構造と接続している。宇宙論的な地に立った時間の矢の流れの上で、無数の選別構造がそれぞれ動きながら連なっている。この連鎖する接続の中での因と果の連鎖が、因果の時間構造の底流を構成している。
ここで、二つを取り違えてはならない(§15-2)。時間の矢——前と後の別——は、最基底の対称性破れが宇宙論的な地に立てた、あらゆる選別構造に共通の流れであり、選別構造が生むものではない。選別構造が生むのは、その矢の上で何が・いつ・どう果として返るか——因果がとる時間の形のほうである。本書が因果の時間構造と呼ぶのは、矢そのものではなく、矢の上に選別構造が描くこの返りの構造を指す。
文明レイヤー未満のレイヤーにも、非対称性因果そのものは立っている。だが、操作と実存が分化しておらず、返る・返らないを引き受ける主体が立たないところでは、その連鎖する接続は、法則、あるいは環境として現れているだけである。そこに意味付けはない。非対称性因果の時間構造の四類型は、選別構造が可変になったレイヤーではじめて分岐する。
選別構造が可変性を持つこと——操作と実存とが独立変動をはじめること——から、同じ物理的因果関係が、観察する時間幅、社会の継承機構の状態、結果が及ぶ範囲の同定方法などに依存して、異なる類型として現れはじめる。独立変動のどの状態がどの類型を立てるかは、§15-8 で取り出す。
たとえば、同じ自然環境・生態系への負荷も、ある側面では即時回収因果として観測される(汚染が住民に直接の被害を与える)。別の側面では遅延回収因果として観測される(数十年後の健康影響として現れる)。別の側面では非線形回収因果として観測される(蓄積された影響が閾値を超えた時点で生態系の急変として顕在化する)。さらに別の側面では回収断絶因果として観測される(地球の反対側に影響が及び、当事者の判断には現れない)。同じ物理的因果が、観察者側の選別構造に応じて、非対称性因果の四類型の異なる組み合わせとして立ち上がる。
選別構造の可変性が、私たちが体感する因果の時間構造——時間の矢そのものではなく、その矢の上で果がとる返りの形——を生むのだ。
当事者の時間——返りの宛先
四つの類型は、いずれも「返り」を当事者の時間で測っていた。ここで、その語の中身を言うことができる。一つの系にとっての当事者の時間とは、当該系が、直接に、あるいは他の選別構造を介して、因果を現に及ぼし合っている範囲の全体である。流入の合成が届く深さが、その系の過去をなす。流出した果の返りを引き受ける接続が存続する射程が、その系の未来をなす。それは系に与えられた容器ではなく、接続の中で保たれる作動である。
認識はこの範囲を引かない。作動が引く。ゆえに、系が見ている時間と、系を縛っている時間は、一致するとは限らない。非線形回収とは、縛る側だけを走っていた返りが、見える側へ噴き出すことの名であり、潜伏とは、その噴き出しまでの姿の名である。
§15-8 引受の不等式と非対称性因果の四類型——操作実存独立変動による統合
引受の不等式の成立と破綻が文明の運命に対して何を意味するか。操作(O)の輪郭は、帰結が事実上届いているか否かという、問いを要しない事実として外側から画定される。実存(E)の輪郭は、どこまでを「我ら」として引き受けるかという、内側に開かれた問いとして引かれる。事実と問い——別の論理で動く両軸が、同じ動きをする保証はない。この独立が操作実存独立変動である(§15-6)。その両軸のズレが、当該系の非対称性因果の構造を規定する。非対称性因果の四類型(§15-7)は、この独立変動の特定状態——両軸の大きさと相対関係——として読み直せる。
四類型を二つの軸に解きほぐす——成立は時間配置、破綻は受容モード
非対称性因果の四類型(即時回収・遅延回収・非線形回収・回収断絶)は、それ自体としては時間配置の分類だった。操作実存独立変動を媒介すると、非対称性因果の四類型は引受の不等式の成立/破綻のそれぞれにおいて、別の軸で配置されていることが明らかになる。
不等式が成立しているとき(O ≤ E)、立ち上がるのは即時回収因果と遅延回収因果である。両者を分けるのは時間配置の軸——行為と結果が同じ「我ら」の内側でどの時間幅で結ばれるか。
不等式が破綻しているとき(O > E)、立ち上がるのは回収断絶因果と非線形回収因果である。両者を分けるのは受容モードの軸——「実存的我ら」が追随していない領域から応報してくる因果を、当該系がどう受け取るか。
不等式が成立しているとき——即時に返るか、遅れて返るか
即時回収因果は、両軸のズレが生じる余地を持たない状態のなかで立ち上がる非対称性因果である。「操作能力的我ら」の及ぶ範囲と「実存的我ら」の引き受ける範囲が、同じ範囲を覆っている。行為と結果が同じ「我ら」の内側で短い時間幅で結ばれる。両軸が揃っていることが、即時回収因果が成立する条件である。規模の大小は問わない。小規模共同体の対面的やりとりも、グローバルな市場における価格フィードバックも、両軸が揃っているかぎり即時回収因果として作動する。
遅延回収因果は、引受の不等式 「操作能力的我ら」(O)≤「実存的我ら」(E) が成立し、かつ「実存的我ら」が時間的に拡張している範囲で立ち上がる非対称性因果である。「操作能力的我ら」が及ぶ範囲が、「実存的我ら」が引き受ける範囲のなかに収まっており、行為の帰結が遅延して返ってきたとしても、返ってきた時点で当該系の「我ら」がなお引き受ける主体性を保持している。世代を越えて植えた木の実りを受け取る人々を「我ら」として引き受けつづける構造が、世代を越えた遅延回収因果を可能にする。引受の不等式の成立と E の時間的拡張が、遅延回収因果が成立する条件である。
不等式が破綻しているとき——無視しきれるか、しきれないか
引受の不等式が破綻した状態(O > E)では、「操作能力的我ら」が及ぼす因果のうち「実存的我ら」が追随していない領域に流出する部分が立ち上がる。この流出した因果は、宇宙論的な地では消えることはなく、いずれその果が当該系に返ってきうる。当該系がこの帰結をどう受け取るか——ここに二つのモードが立ち上がる。
回収断絶因果は、当該系が応報を無視しきれているあいだ立ち上がる非対称性因果である。流出した部分への帰結は、当該系の「実存的我ら」の外側に蓄積し、引き受けられる範囲には入らない。当該系の判断回路には現れず、応報は事象として顕現しない。当該系は不等式が破綻していることを意識せずに運動を継続する。回収断絶因果が支配的であるあいだ、当該系から見れば不等式の破綻は存在しないかのように振る舞いうる。
非線形回収因果は、同じ O > E 状態のもとで、当該系が応報を無視しきれなくなったときに立ち上がる非対称性因果である。「実存的我ら」が追随していない領域からの因果が、選別構造を突き破って当該系に届く。だが、届いた時点の受け手の側には、それを意味付ける回路が成立していない(§15-7 (3))。応報は事象として顕現するが、原因との対応関係を引き受ける回路が欠落しているため、意味付けられない出来事としてのみ経験される。
回収断絶と非線形回収は、同じ破綻条件(O > E)のもとでの二つの受容モードである。両者は並列の状態ではなく、応報を無視しきれるか・無視しきれないかで分岐する。文明レイヤーは、操作の及ぶ範囲の拡張や選別構造の引き直しを通じて、応報を無視しきろうとする。だが累積が選別構造を突き破る瞬間、受容モードは回収断絶から非線形へと反転する。
応報が立ち上がる前——破綻状態のまま運動が継続しているあいだ——には、不等式を成立に戻す自動的な回路は存在しない。応報が立ち上がった後には、受け手が応報の事実から原因との対応関係を事後的に再構成することで、当該の非線形回収因果を遅延回収因果として意味付け直す経路が開かれうる。
ただしこの事後的再構成——噴き出した果を、どの原因に結び直すか——は、二つの異なる形をとる。
自責系——帰結の原因を当該系自身として同定し、選別構造そのものを引き直す経路である。これまで「実存的我ら」の外側にあった対象が、新たにその内側に編入される。MANES の構造的更新を伴い、再構成の完了時点で O ≤ E が遡及的に成立する方向へ動く。当該の非線形回収因果は、遅延回収因果そのものとして当該系の引受回路の内側に編入される。
他責系——帰結の原因を当該系の外側にある別の存在として同定し、選別構造は引き直さない経路である。回収断絶因果の思考様式——帰結を「実存的我ら」の外側に押し出す構え——が温存されたまま、新たな対象が原因として帰属される。形式的には遅延回収因果として意味付けされた外形を持つが、構造的には引受の不等式の破綻は継続する。「実存的我ら」は実質的に拡張しない。
両経路を分けるのは、再構成の時点で選別構造そのものの引き直しが伴うか否かである。選別構造が回収断絶因果の思考様式のまま温存されるかぎり、再構成は他責系の形しかとりえない。自責系の経路には、選別構造の能動的な引き直しが必要条件として要請される。
非対称性因果の四類型の全体像——対応表
整理して並べると、非対称性因果の四類型と操作実存独立変動の対応は次のようになる。
成立(O ≤ E)——分岐軸は時間配置
| 類型 | 当該系から見た応報 |
|---|---|
| 即時回収因果 | 同じ「我ら」内で短い時間幅で結ばれる |
| 遅延回収因果 | 時間的に拡張した「我ら」のなかで遅れて返る |
破綻(O > E)——分岐軸は受容モード
| 類型 | 当該系から見た応報 |
|---|---|
| 回収断絶因果 | 無視しきれており、事象として顕現しない |
| 非線形回収因果 | 無視しきれず、意味付け不能な出来事として顕現する |
この対応が定めているのは、当該系が流出させた果が、どの類型として返るかである。不等式が成立していれば、果は引受の枠の内へ返り、分岐は時間配置で決まる。破綻していれば、果は枠の外へ漏れ、分岐は受容モードで決まる。独立変動の状態は、自系が出した果の返り方を規定する。
だが、これによって四類型が定義し直されるわけではない。四類型は §15-7 が立てたとおり、ある選別構造から見た果の時間配置の分類であり、独立変動の状態は、その類型が立つ条件の側にある。条件を定義と取り違えると、二つのことが読めなくなる。
一つは、他の選別構造が排出した果が、こちらへ沸いて出るように届く配置である(§15-4)。届いた果を意味づける回路がこちらに成立していなければ、その果は非線形回収因果として立つ。立てているのは他系の行為であって、こちらの両軸のズレではない。雷が釣り合わないものとして現れるのは、この配置においてである。もう一つは、同じ果が、見る選別構造を変えれば別の類型として立つことである(§15-2)。類型は果に貼りついた性質ではなく、果と選別構造の関係のうえに立つ。一つの排出が、送り出した側には回収断絶因果であり、受け取った側には非線形回収因果である。これは矛盾ではなく、相対性の帰結である。
以降、本書は四類型の語をこの意味で用いる。対応表は、そのうち自系が流出させた果について、独立変動の状態と類型の対応を与えるものとして読む。
非対称性因果の四類型を分かつもの——報酬関数は何を返すか
非対称性因果の四類型がどの位置に立ち上がるかは、当該系の操作実存独立変動の状態によって規定される(前項)。では、その状態を現に文明のなかで形づくっているものは何か。選別構造の連鎖する接続——無数の主体が因果で連なり合う、そのつながり(§15-7)——を、文明レイヤーは外部に接続として立ち上げる。操作の側がそれを立ち上げたのが、制度・契約・帳簿・指標・価格——引き受ける主体を問わず一様に作動する仕組みである。連鎖する接続そのものではない、この操作の側が立ち上げる接続には、制約がある。
報酬関数で測れるものは、未来の帰結であっても、現在において測れる一つの値へ畳まれる——金融が未来の収益を現在価値へ割り引いて一個の数字にするように。畳まれた未来は、もはや遅れて返ってくる帰結(遅延回収因果)ではなく、現在のうちで決済済みの量として扱われる。報酬関数に載るかぎり、操作の側が立ち上げる接続は遅延回収因果すら即時回収因果へ変換する。
一方、報酬関数で測れない帰結——測りようのない未来からの借り、値をもたない外部への流出——は、報酬関数の返り値からこぼれ落ちる。報酬関数を通して見るかぎり、それは存在しないに等しい。測れない因果のところでは、連鎖する接続が途切れる。連鎖は宇宙論的になお続いているのに、操作の側が立ち上げる接続はそれをつながない。これが回収断絶因果の、操作の側から見た生成条件である。操作の側が立ち上げる接続は、測れるものを即時回収因果へ畳み、測れないものを回収断絶因果へ落とす。両端のあいだにある遅延回収因果——測りきれないまま、なお引き受けて未来へつなぐ因果——は、報酬関数に依存するこの接続の上には現れない。
この生成条件は、§15-4 の窒素に戻ると具体の相で見える。地上の動物は、空気の大部分を占めながら欠かせない窒素を、生涯のうちには取り込めないまま生きて死ぬ。個体には動かせない選別構造であった。文明レイヤーは、この選別構造そのものに手を触れる。空気中の窒素を工業的に固定し、土に入れ、収量へ変える。進化が世代を越えて書き換えてきた帯域を、歴史の時間のうちで動かす。だが、操作の側が立ち上げる接続——収量・トン数・価格——がつなぐのは、報酬関数で測れる部分だけである。循環へ抜けていく流出——水系の富栄養化、大気へ抜ける一酸化二窒素——は、そこからこぼれ落ちる。
窒素を固定する力は操作(O)の射程の拡張であり、その流出も操作の射程の内側で連鎖している。操作はこの連鎖を接続している。だが、操作が射程を伸ばしたことは、実存(E)がそこまで伸びることを意味しない。両者は別の機構で動く。操作でつながった連鎖が実存でつながらないとき、流出は応報として自動的に返りはせず、「実存的我ら」の帯域に数え入れられるかぎりで——引き受けられるかぎりで——はじめて当該系の内に立ち上がる。引き受けられなければ、宇宙論的にはなお作動しつづけていても、判断回路には現れず回収断絶因果となる。
§15-7 の命題 RETURN-2(連鎖する接続が因果を生む)と前項の命題 RETURN-4(操作の側が立ち上げる接続は報酬関数で測れる因果しかつながない)を重ねると、一つの帰結が立つ。
報酬関数で測れない因果を遅延回収因果として保てるのは、操作の側が立ち上げる接続ではない。共感・教育・儀礼・物語は、未来を現在の一値へ決済せず、引き受けの相手として開いたまま次の世代へ手渡す。「実存的我ら」を時間の方向へ広げる、実存の側が保つこの接続だけが、報酬関数に載らない帰結を、遅延回収因果として引き受け直す経路を保つ。
終わりの縁は、誰が引くか——寿命と頓死の境
命題 RETURN-6 は、報酬関数に載らない帰結を引き受け直す経路が、実存の側が保つ接続にしかないことを立てた。だがその接続は、保たれるかぎりで保たれている。保つのをやめれば、経路は閉じる。閉じたとき、何が動くのか。
§15-7 は、当事者の時間の未来側を、流出した果の返りを引き受ける接続が存続する射程として置いた。この射程を引くのは、認識ではない。作動である(命題 RETURN-3)。引受とは、見ていることではなく、共感と教育と儀礼と物語として払われつづける作動だった(命題 RETURN-6)。ゆえに、払うのをやめれば、射程は現に縮む。
この縮みは、§15-6 が並べた構えのどれでもない。追随は境界を操作の伸びた先まで広げ、抑制は操作を境界の内へ戻し、不追随は境界を据え置いたまま操作を先へ送る。三つのうち境界そのものを動かすのは追随だけで、それは広げる方向である。境界を引き戻す構えは、あの類型にない。そして、広げる手と退く手は、要するものが違う。境界を広げることは、共有の枠に何かを加えることであり、加えられた側の批准を要した(§15-5)。境界を引き戻すことは、枠に何も加えない。自分が払っている作動を、やめることである。不追随が境界を相対的に内へ引き直したのに対し、これは絶対的に引き戻す——同じ O > E が立つ、第二の形である。
ここで、寿命と頓死の語が動く。動いている系の同一性は、保存ではなく再生産である(「圧縮から創発する世界」第2章 §2-1)。寿命とは、その再生産が続く幅であり、頓死とは、その幅より先に断たれることだった(「LEFFLAとLOT」第3章 §3-4)。恒星の寿命は質量が定め、恒星はそれを動かせない。だが文明レイヤーでは、再生産される当の「我ら」の範囲そのものが可変である。ゆえに、寿命の縁も、その縁より先に断たれることとしての頓死も、「我ら」をどこまで取るかに依存して動く。縁を縮めた系にとって、縁の外で起こることは、頓死ではない。完了の、あとである。
だが、動いたものと動かなかったものを、分けなければならない。動いたのは、引受の側の縁である。操作の作動が引く縁は、動いていない。消費も排出も止まっておらず、果は縁の向こうへ走りつづけている。系が見ている時間と、系を縛っている時間は、一致するとは限らない(命題 RETURN-3)——縁を引き戻す操作とは、この二つを、自らの手で引き離す操作にほかならない。動いたのは勘定の縁であって、果の走る先ではない。
動いた勘定の側で何が起きているかは、前項の表の語で言える。縁の内で遅延回収因果として引き受けられていた果が、縁の外へ落ちる。落ちた果は、当事者の時間に返らない——回収断絶因果である。すなわち、縁を引き戻すことは、表の上で、成立の行から破綻の行へ自らを移すことである。選別構造の可変性が四類型を生む(命題 RETURN-2)とは、この向きでも言える。
そして、移した側は、移した帰趨を確かめられない。縁の外へ落ちた返りが、もはやどの系にも届かない真正の断絶なのか、走りつづけていていつか噴き出す潜伏なのかは、当事者の内側からは区別できない(命題 RETURN-1)。縁を引き戻すとは、確かめの終わらない帳簿を、確かめずに閉じることである。
回収断絶因果がそれ自体としては悪を構成しないように(§15-7)、縁の引き戻しもまた、それ自体としては失敗の名ではない。引き戻された縁の外から、誰が、どこまで異議を唱えうるのか——それは、この手がどの方向へ向けられるかによる。本章は、縁が動きうることまでを立てる。
どこを終わりとするかは、当の系が引受という止めどころで定めている。ゆえに、頓死という名もまた、その止めどころの取り方とともに動く。
引受の不等式は宇宙の普遍法則ではない——そして次の問いへ
本章は、冒頭で立てた二つの主張のうち第二の主張を論証した。すなわち、引受の不等式は宇宙の普遍法則ではなく、創発したレイヤー固有の拘束条件である。非対称性因果の四類型は、操作実存独立変動という創発した構造から導かれる因果の時間的な類型であって、宇宙論的な地には四類型の区別も、不等式の成立/破綻もない。不等式は、選別構造が可変になったレイヤーではじめて世界に持ち込まれる。持ち込まれたそれを、どの縁で計上するかまで含めて、可変である。
ここから、本書の中核命題の一つが立つ。
一方、第一の主張——「我ら」の境界が文明の運命を直接規定する——は、本章では論証されていない。四類型はそれ自体としては中立に並んでおり、破綻側を中核とする運動が文明の頓死経路を構成するという主張も、不等式の動性・不安定性そのものも、本章は基盤を据えたにとどまる。これらは「不等式の動性」(第16章)が引き受ける。
本章が引き受けたのは、入口の三つの問いの一つめ。結果は、いつ、誰に返るか、因果の射影法であり、非対称性因果の四類型がその答えである。続く問いは——重心は、どこにあるか、流動と操作と実存の重なりの射影法である。同じ不等式を、系がいま現に立っている足場の側から射影し直すとき、因果の軸では背景に退いていた動性が前景に立つ。O > E のもとでの無視しようとする運動から、無視できない事態への移行をみていく。