結論——告白、そして叫び

苦悩が因果の時間を縫い合わせているのだ。

§1 中核命題群の要約

本書は、一貫して三人称の構えで書かれてきた。筆者の引き受けは、構造記述の温度として現れることはあっても、本文のなかで「私」として正面に立つことはなかった。だが、ここで、その三人称の構えに、一つの裂け目が開く。構造記述の外側で、本書を書く者は、特定の「我ら」を引き受けた一人称として立っている、というその裂け目である。結論は、この裂け目から書かれる。

結論において確認するのは、新しい命題ではない。すでに示されたものが、どのように示されたか、である。本書が取り出してきた中核命題群(中核命題-1〜9)を、あえて圧縮して表現するならば、以下のようになるだろう。

圧縮は、有効勾配を高めて創発の豊かさを生むのと同じ強度で、接続可能圏 Ω の中の LEFFLA を縮めてその消尽を加速させ、フィードバック時間スケールの短縮を強制する。圧縮の強度に応じて LEFFLA を保つコストは高まり、満たしきれない部分が LOT として副生される。視界と盲点は、選べるトレードオフではなく、同じ一つの操作の二つの面である。その圧縮が立てた構造=MANES の存在価値を、宇宙論的な地は保証しない。そこでは因果は対称的に成立し、いかなる選別構造も擁護する根拠を持たない。

だが文明レイヤーでは、選別構造は可変であり、操作の側と引受の側は独立に変動しうる。可変であるがゆえに、応報の時間は決定論的に定まらず、応答の余地が構造的に開かれている。選別構造が介在して因果の対称性が破れると、非対称性因果——即時・遅延・非線形・回収断絶——が、局所に立った一時の秩序として立ち上がる。引受の及ばぬところへ走った回収断絶因果は、消えるのではなく、階層間の LOT 転嫁として累積する。そして、局所の秩序の外では、因果は対称のままである。対称性因果の応報は、必ず回帰する。すべてが揃って返るのは宇宙の寿命においてであり、部分はまだらに、いつ・どの系へ戻るかを知りえぬまま帰ってくる——系の生死にかかわるものさえ、例外ではない。

この地のうえで、応答が問われる。より多くの主体が、「我ら」と分かち合えない孤独な営みとして、世界の流動へ直に接地すること。そして、相互理解の及ばぬ者どうしが、それでも「我ら」であるという観念——MAN-I-ES——を抱いて、共存条件 ES を立てること。ただし、二つの応答が向かう「我ら」そのものが束ねであり、束ねは、操作の側でも引受の側でも、それに固有の参照不能域——束ねの殻——を副生する。束の水準でしか立たない判断が、その殻の縫い目に落ちて立たなくなること——加速を停める判断が個別の意志から独立であるのは、これによる。この二つの応答が同時に成り立つ位置——循環耐久相——において、報酬関数で測れる成功は保証されない。あるのは苦悩であり、渇望であり、叫びである。その苦悩は、報酬の不在にとどまらない。向かいつづける作動は、その極限で、自らの止めどころ=存在の成立条件を蒸発させる。応えるほどに、応える当の主体の輪郭は薄くなっていく。それでも、この方向にしか「百億人の我ら、千年後の我ら」へ届く構造条件は成り立たない——おそらくは。構造記述は、ここまでしか辿り着けない。応答は、文明にも、共存条件 ES にも、一人ひとりにも、それぞれの級位において並列に、一人称の Hineni として問われる。

§2 序論は、「我らとは何か」という問いから始まった

本書の応答は、座標系である。「我ら」とは、所与の集合の名ではない。世界の流動に触れる手と、操作の及ぶ範囲と、引き受ける範囲とが、それぞれ別々に動く地形の上で、操作が引受を越えないという不等式が保たれつづける、その範囲の名である。百億・千年という規模でこの範囲が保たれるために何が要るかを、本書は二つの応答まで絞り込んだ。

一つは、手の側——一人ひとりが、世界の流動に自分の手で触れつづけること。「我ら」と分かち合えない、報われることのない孤独な営みが、設計も指令もなしに、ある密度で分布しつづけることでしか、この範囲の足元は保たれない。

もう一つは、声の側——相互理解の及ばぬ者どうしが、それでも「我ら」であるという観念、MAN-I-ES——が立てられつづけること。部分の共存には、長い歴史の厚みがある。全員の参加によってしか成り立たない共存には、先例がない。

どちらか一方では立たない。手だけでは、営みは散らばったまま束ねられず、声だけでは、声が地から浮く。本書が「我らとは何か」に返せるのは、この座標系と、その上で同時に差し出されつづける二つの応答までである。百億・千年という規模にバインドしたうえで、引受の不等式 O ≤ E を成立側に保ちつづける労働である。苦悩を伴う労働である。

本書は、中核命題群という一つの主張を一度だけ、一本の経路で立てたものではない。本書の各部は、異なる出発点から、同じ構造の底へと繰り返し降りていった。選択的終結が不可避であることから(HIAM)。系が自らの盲点によって崩れる機構から(頓死、乖離、構造的無知、返りの判別非対称)。効率化が盲点の拡大と不可分であることから(LEFFLA 圧縮と有効勾配、LOT の副生)。「我ら」の範囲=共存条件 ES の不可欠性が——そしてその複数性までもが——複数の経路から立ち上がることから(MANES 第三層、ES の液相)。そして、回避されたコストが増幅されて回帰することから(階層間の LOT 転嫁、Mourning 不在の連鎖)。出発点は互いに重ならない。にもかかわらず、浮かんだ像は同じ底を指した。因果の側から降りても、幾何の側から降りても、そしてレイヤーを替えても、同じところで底を打つ。

この冗長な到達を、本書は確からしさの証明としては置かない。降りた経路のすべては、筆者という同じ一人の手が、同じ構えのもとで切ったものである。同じ射影法で切れば、どこから入っても同じ像に着く——その可能性を、本書は自らの内側からは排除できない。

示せるのは、ここまでである。同じ底へ、何度も降りたということ。それが構造が一つであることの現れなのか、射影が一つであることの現れなのかは、本書の内側では決まらない。別の射影法を持つ者が、別の道から同じ底に触れるかどうか——そこでしか決まらない。

§3 この到達は、本書を本書自身の外へ連れ出しはしない

本書もまた、ある選別構造——筆者という一つの MANES——のもとで書かれた圧縮である。本書が立てた圧縮の二面の不可分性(中核命題-1、第3章 §3-3)は、本書の記述それ自体にも働いている。視界を開いたのと同じ操作が、同時に盲点を副生している。数学に見た巨大な視界と、その代償の三重の盲点——バインドの不在(第4章)——もまた、本書に返る。本書は、構造記述という一つのバインドのもとで書かれており、その視界の広さと引き換えに、見えない方向を持つ。真に深い経験は、構造記述からも逃れる。

本書が用いた語のすべて——MANES、LEFFLA、引受の不等式、MAN-I-ES など——は、圧縮ラベルである。それぞれが背後に、何ごとかを参照不能領域へ送り出している。しかも、読者がその語を索引として参照するそのたびに、圧縮はもう一度起こる。「MANES とは要するに」と参照した瞬間、その語の背後に積み上げた構造記述は退き、語はラベルとして発火する。筆者から読者へ、構造を完全に転送する経路は、存在しない。

これは、本書の欠陥ではなく設計である。構造記述を、その射程の限界——自分自身への適用——まで徹底した結果である。本書は、自らもまた圧縮であることを記述することによって、構造記述を最後まで貫く。そして、この自己適用の先に、もう一つの層が口を開ける——本書という記述そのものの、外である。

ここで、本書がその全体を通じて立ってきた位置——宇宙論的中立性——が、二重の構造を持っていたことが、はっきりする。中立性は、記述の対象としては成立する。しかし、その中立性を記述する主体——筆者と読者——は、中立性を生きることはできない。特定の MANES のもとで判断し、行為しつづける存在としてしか、記述はなされないからである。中立性は記述の対象であり、非中立は記述する主体の構造的条件である。

この二重性が、本書の引き受けの構造を確定する。宇宙が特定の MANES を真理として保証してくれるなら、引き受けは要らない。保証された真理に従えばよいのだから。逆説的に、宇宙が保証しないからこそ、引き受けは意味を持つ。引き受けは、中立性からの逸脱ではない。中立性のもとでこそ要求される、必然である。すべてを無意味とする虚無にも、一つの意味を絶対化する教条にも、意味を操作能力の内へ囲い込む支配の意志にも、この位置は立たない。判断の根拠が与えられないという、まさにその条件こそが、ここでは引き受けの場所として読み直される。

この二重性は、時間の側からも言い直せる。記述の対象としての宇宙は、時間に勾配を与えない。結晶へ冷える系も、扉を閉じた方舟も、等価に受け入れる。だが記述する主体は、それぞれに縫い合わされた因果時間のなかにいる。未決を抱え、返りを待ち、閉じられない帳簿を負って、書いている。本書自身の帳簿もまた、閉じない。書くことが、検証の完了しない排出だからである。それでも書く、という位置が、二重性の方法論の時間の形である。

これが、本書の自己診断である。

§4 そして、この診断の先に、一つの告白が続く

本書は、様々な先人たち、偉大な巨人たち、最先端研究に従事する現代の人々の肩の上に成立している。しかし、ウナムーノとハラリ、そしてブーバー——理論の展開がその名を必要とした数名——を除いては、典拠する先行研究の引用を避けた。メルカトル図法・ダンバー数・ランダウアー原理など、先人たちの名を冠した一般的な名詞になっている概念は、便宜上借りさせていただいた。そして、龍樹、メルカトル、クライン、ハート——名を記した場面が、ほかにいくつかある。これも引用ではない。敬意を表すためでも、論証を支えさせるためでもなく、ある見方が歴史のどのあたりで立ち上がったのかを示す場面である。

なぜか。

肩を借りた人々への敬意を、彼らの名を本書に記すことで表そうとする誘惑には、何度も駆られた。けれども、それはしない。本書が、筆者である私自身の MANES にバインドされた固有の盲点を持つことを、引用を通して、他の誰か——尊敬する先人たち——に肩代わりしてもらうことは、本書の方法論として正当ではないと考えたからである。同じ理由から、本文の要所に置いた実際にあった場面にも、名を与えていない——識者には、誰のことか透けるだろう。事実の精度は保ち、しかし名の権威には、何も支えさせない。この結果、一般的な理論書として見れば、先行研究との対話や敬意に欠ける様式になっているだろう。その欠落もまた、本書のバインドが副生した盲点の、一つの形にほかならない。本書は、それを隠さない。

借りなかったのは、肩だけではない。論証が尽きる地点で、ある誠実な告白——「赤子を見よ、そうすれば分かる」——に接ぎ木して本書の理論への支えを求めることも、しなかった。本書が最後に置くのは、真理でも規範でもなく、一つの一人称の賭けである。

さらに一つ告白しておかねばなるまい。ウナムーノは、その『生の悲劇的感情』の中で、ルソーの言葉を引用して、「不滅への渇望」を論じていた。

ルソーは、彼の『エミール』の中で、次のように述べている。「たとえ哲学者が真理を発見する状態にあったとしても、彼らのうち、一体誰がその真理に興味を抱くであろうか。彼らは、一人ひとりが、自分の学説が他の学説よりも体系的に貧しいことは知りながらも、それが彼自身のものであるが故に、擁護するのである。真理と虚偽を識りながらも、他人が発見した真実よりも自分の発見した嘘の方をとらない者は一人もいない。自己の栄光のために、人類を欺かない哲学者というものがどこにいるのだろうか。心の奥底で、他の者より卓越すること以外の目標を持っている哲学者がどこかにいるだろうか。俗衆の上に立ち、競争仲間の輝きを消すこと以上に、彼らは何を求めるだろうか。彼らにとって肝腎なことは、他の者たちとは違った考え方をすることなのである。彼らは、信者の間にあっては無神論者となるであろうし、無神論者の間にあっては信者となるであろう」。あの痛ましいほどに真摯な男の、以上の告白の中に、何と多くの真理がふくまれていることだろうか。(ミゲル・デ・ウナムーノ『生の悲劇的感情』神吉敬三・佐々木孝訳、法政大学出版局(ウナムーノ著作集3)、1975年)

このルソーの真摯な告白、ウナムーノの鋭い洞察から、本書も逃れることはできない。本書ができる精一杯の誠実さは、本書もまた、一人の人間の F への直接接地の試みだったという告白である。本書独自の理論を構築しようとする渇望がなかったと言えば、虚偽である。偽りなく言えるのは、このような渇望こそ、F との直接接地の態様であり、この宇宙の因果を縫い合わせるものなのだ、という主張である。そう、主張なのだ。この主張が「筆者にとっての真理」以上のものかどうかは、わからない。だからこそ、読者もまた、F と直接接地をした、読者自身の血肉の通う言葉と思考を抱いて生きていくことを願う。それぞれの孤独を生き、ともに孤独に生きるのだ。

§5 炎の記憶——筆者の家族史

筆者の家族には、広島で原爆によって死んだ者がいる。遺された者は、その死を言葉にした。読んでほしかったのは、海の向こうの、同じように家族を失った人々だった。だがその言葉は、戦後統治という一つの制度の枠組みの中で、検閲されるべき文書として扱われた。言葉は宛先に届かず、書いた者は、それから数十年、綴った想いを内に抱えたまま生きた。読まれたのは、書いた者が生きているあいだではなかった。行為の果は引き受けの届かないところへ走り、返りは当事者の時間には戻らず、未決は、抱える者の内に居つづけた。

この経緯が、本書の記述を支えているのではない。一つの家族史は、何も証明しない。名を記さないのも、先の告白で述べたのと同じ理由による。ただ、筆者がどの位置から構造を見てきたかは、これで尽きている。

宇宙論的には価値が中立であったとしても、それでも、「我ら」が共存している文明が悲惨な破局を迎えずに、その寿命を全うできるような道を探らずにはいられない。本書は、この「探らずにはいられない」から書かれている。理論が先にあって、それを正当化したのではない。順序は逆である。

序論は、一人の皇帝から始まった。異なる射影で異なる像が浮かび、なお謎のまま残る人物——ティベリウス。序論は、そこに鏡を並べた。ティベリウス、そして読者自身、と。結論は、その列の中央に、もう一つの鏡を入れる。筆者である。三者とも——皇帝も、筆者も、読者も——どの射影にも LOT が残り、完全な理解には到達しない。謎のまま残る。しかし三者とも、構造の輪郭は、読み始めたときより精密になった。序論が交わした約束は、ここで果たされる。理解の完成によってではなく、輪郭の精密化によって。本書が記述してきた構造——圧縮し、「我ら」を切り取り、因果を引き受け、あるいは引き受け損ねる存在の構造——は、最後に、それを読む一人称そのものへ返る。

そして、残るものがある。本書が示した構造のうちには、一つの連鎖があった。ある世代には見えなかった領域(LOT)が、次の世代にとっては評価しうる領域(LEFFLA)として開かれていく、という継承の連鎖である。継承とは、完成した像を手渡すことではない。異なる射影法に開かれたまま、構造の輪郭を渡すことである。

§6 読む者へ渡されるのは、構造の輪郭だけではない

本書が開いたまま抱えてきた問い——閉じられなかった帳簿、確かめ終えられなかった呼びかけ——もまた、ここで、読む者の内へ、再び懸架される。未決は、生きた抱え手の内にしか、居られないからである。

この懸架には、ウナムーノのもう一つの言葉が響いている。彼はそれを、構造としてではなく、願いとして書きとめていた。

「魂は、少なくとも私の魂は、他のことを熱望する。吸収されること、静寂、平和、消失、これらを望んでいるのではなく、けっして到達することがなくとも永遠に近づいてゆくこと、終わることなき熱望、けっしてすべてが満たされることなく永遠に更新される永遠の希望、それこそを望んでいるのである。そしてそれとともに、永遠に何ものかが欠如することを、永遠の苦しみを熱望しているのだ。」(ミゲル・デ・ウナムーノ『生の悲劇的感情』神吉敬三・佐々木孝訳、法政大学出版局(ウナムーノ著作集3)、1975年)

満たされて閉じることではなく、欠けたままの持続を、彼は望んだ。本書が読む者の内へ懸架する未決は、この熱望と同じ側にある。欠けたまま渡されるものだけが、受け取った者の内で、なお動くことができる。

本書を書くという行為もまた、その連鎖の一つの環でしかない。筆者の MANES が副生した盲点は、いつか別の「我ら」の、別の射影によって、低精度保持域として拾い直されるかもしれない。あるいは、拾われないかもしれない。それも、本書からは導出されない。

§7 本書はここで終わる

構造記述の射程の限界に到達した。構造記述は、構造的条件を取り出すことはできる。しかし、その条件のもとで一人称が何を引き受けるか。どの MANES を生きるか、どの「我ら」を引き受けるか、Hineni 境界の手前で何をするか、MAN-I-ES という不条理な MANES を選択するのか。引き受けへの橋は、構造記述からは架けられない。Hineni の引き受けは、文明にも、共存条件 ES にも、一人ひとりにも、それぞれの級位に開かれている。橋は、読者の引き受けとして架かるか、架からないか、いずれかである。そう、いずれもありえるのだ。本書は、この位置を露出させて閉じる。

そして、本書を書くこと、それ自体が、一つの引き受けだった。神なき時代に、Hineni がかつて担っていた機能を、文化や宗教に依存しない構造記述として名指し直そうと試みた。この試みそのものが、Hineni の手前に立つという、ある引き受けの形である。本書は、答えを運ばない。問いの構造を、その射程の限界まで取り出し、読者の手元へ渡すのだ。

私たちの宇宙の物理法則は、引受の不等式——「操作能力的我ら」(O)≤「実存的我ら」(E)——の安定を保証しない。その動的な維持は、「実存的我ら」の選択でしかない。宇宙は、時間を要求しない。ただ、許している。未決を抱えて返りを待つ在り方を、地は強いはしない。だが、拒みもしない。Hineni とは、等価に許された無数の在り方のなかで、因果を縫う時間が在りつづける側——未決を抱え、返りを待ち、扉を開けうるままに保つ側——を、保証なしに選ぶことの名である。何物にも強制されず、何物も保証せず、何物も導かない、それでも応答する、ある選択の名である。

ここから先は、読む者の Hineni である。

§8 それにしてもなぜ、私たちの宇宙はこれほど美しいのだろう

この「美しい」と感じる感覚さえ、論理や物理で解体してしまえば、ある特定の勾配構造の中で流動する、非対称性因果の中で動く徒花でしかない。それを承知しているからこそ、最後に、筆者である私自身の言葉を置く。

「我ら」は、揺らぎの宇宙の中に生まれた存在である。

宇宙は完全な静止でもなく、
完全な混沌でもなく、
星が燃え、元素が生成され、
生命が芽吹くという、
選別された HZ において構造を保ってきた。

「我ら」の文明もまた、その延長線上にある動く系の構造体である。

「我ら」は誤る。
「我ら」は有限であり、未完成である。

しかし有限性でも未完成でもなく、
不都合なものを「見ないこと」を正当化する射影法こそが、
文明を滑落へと導く。

文明には二つの滑落がある。
制御を失い散逸へ至る破局と、
過度の安定に収束し意味が希薄化する静止である。

いずれも構造的に合理的な帰結であり得るが、
いずれも「我ら」が属してきた揺らぎの相とは異なる。

「我」は、破局を望まない。
しかし、そのために振幅を消去した管理安定相へも向かわない。

「我」は、未完成の宿命を知ったうえで完成を志すという不合理
——対称性志向を引き受ける。

なぜならば、「我ら」が味わう苦悩こそが、
この宇宙の中に「我ら」という存在を立たせる駆動源
そのものであることを、
ここに至り、知ってしまったからだ。

にわかには信じがたいことだが、
「我ら」が苦悩を味わいながら、
不合理に向かって突き進むからこそ、
この宇宙には、
私たちが体感する意味での時間が生まれるのだ。

苦悩が因果の時間を縫い合わせているのだ。

そのことで、この世界も、「我ら」も存在しうるのだ。

宇宙の揺らぎの中で選び、
有限性の中で何かを引き受け、
未来に対して引き受けの痕跡を隠さないこと。

これが、「我」の選択であり、「我」の賭けである。

もし未来が、「我ら」と異なる文明相を選ぶとしても、
それは未来の選択である。
しかし「我」は、揺れる構造の系列に属する存在として、
この時代に生きることを選ぶ。
どれほど苦悩をしても完成に至ることはない。

それでも歩む。

「灰は灰に、塵は塵に」(Ashes to ashes, dust to dust)
これら灰塵の中にも、かつて肉や血や骨であった時間が宿っている。

「我」は、「我ら」となれるだろうか。
百億人の「我ら」
千年後まで連なる「我ら」になれるだろうか。

「我」は叫ぶ。
「我ら」に向けて。
荒野に向けて。

「我ら」は、文明を燃焼させる。
その輝きを持続させるために。

(了)