第25章 F に直接触れて——それぞれの孤独を生きて、ともに孤独に生きる
百億人の「我ら」の足元には、誰の手があるのか。
規模が百億に届くとき、その規模を支える営みの大半は、報告と集計と指標という形で系内を流通する。手を経由しない情報が「我ら」を貫き、貫かれた「我ら」は、触れずに互いを知り、触れずに互いを支える。だが情報が流通するためには、その情報の源が要る。数字にする前の、集計する前の、報告書に書き取る前の——現実の流動そのものに、自分の手で触れている誰かが要る。畑で芽を見守る手、脈に触れる指先、地形を歩いて危険な斜面を覚える足。それらの手——本書が F と表記してきた現実の流動に、直接触れる手——が「我ら」の内のどこかに生きて保たれていること。これを本章では接地条件と呼ぶ。
接地条件は、「我ら」の外形が立っていることを問う条件ではない。外形の内側で、現に F に触れる手が生きて保たれているかを問う。文明が拡張し、規模が伸び、報告と参照の層が重なるほど、この条件は容易に見失われる。層が完備しているように見えて、その底で触れる手が絶えていることがありうる——外形は残り、地から浮く。本章は、この浮くか浮かないかを分ける当の手を、内側から見直す。
「我ら」としては保たれる——では、それを現に保っている当の一人にとって、その営みは何であるのか。触れる感覚が言葉になる前の手応えを、それを負う手の側から聞き直すとき、何が立ち上がるか。
§25-1 F に直接触れるとは何か——「我ら」と分かち合えない孤独な営み
触れる手——質感から手応えへ
F に直接触れるとは、当該系の選別構造を介さずに、現実の流動そのものに自分の手で触れることである。種を蒔いて芽の出方を見る、病者の脈に触れて熱の引きを測る、目の前の谷の地形を歩いて滑り落ちる斜面を覚える——同じ営みは、噴きあげる火口の縁で熔岩の流れを目と計器で追う手にもあり、感染症が広がる現場で息絶えたばかりの身体に指を置く手にもあり、雪崩の跡を辿って埋もれた者の呼気の兆しを探す手にもある。表象や指標や報告書を介さず、F そのものに自分の身体で当たるという点で、これらはひと括りである。漏斗モデルの語でいえば、多段圧縮構造の第一段階——個の F-E 接地(λ₀)——を、係留FOE の内側で現に生きることである(「参照されるから、存在する」第18章 §18-2)。
文明が大きくなれば、F への接地は次第に媒介を重ねる。報告書の集計、指標の更新、画面上の色——これらは F 接地者の働きを系内に流通させるためのものだが、それ自体は F に触れていない。文明が拡張するにつれて、F に触れる手と、その情報を扱う手のあいだの距離は伸びる。接地条件が言うのは、その距離が伸び切らないことではない。「我ら」の内のどこかに、現に F に触れている手が、生きて保たれていることである。
F の質感——第18章 §18-2 がこの事態に与えた構造語——を、それを保つ手の側の言葉に翻訳する。手応えである。構造の側から見れば「我ら」に保たれている質感は、それを保つ当の一人の内側では、手応えとして立っている。翻訳によって、同じ事態の別の面が見えてくる。「我ら」としては保たれる、という記述の静けさの裏側で、その質感を現に負っている手は、いつも一本ずつである。
手は人それぞれ、そして孤独
F に触れる手の姿は、人それぞれに異なる。畑の土に触れる手と、患者の脈に触れる手と、計測の現場で対象に向かう手は、同じ「F 直接接地」と括れるが、その内実は質的に異なる。何を見るか、どこに触れるか、何を聞き取るかは、その手を持つ者の生の構造——その者の選別構造——によって決まる。一つの手は、別の手に置き換わらない。
そして、F に直接触れる営みは、しばしば孤独である。FOEモデルの記法でいえば、F-E か --E か——伸ばした手が現に F に触れているか、空振りか——の区別は、「実存的我ら」(E)が立っている範囲でしか立たない(第18章 §18-2)。自分の手が触れているかどうかは、自分の手の中でだけ確かめられつづける。畑で芽を見守る者の手応えは、報告書には乗らない。脈に触れた医師の指先の感覚は、図表に翻訳されたとき、その内実の多くは零れ落ちる。系内で流通する情報の言語は、F 接地の手応えそのものをそのまま運ばない。残るのは、翻訳されないまま、一人で抱えつづけることになる手応えである。
引き受けは構造的に純コストである(命題 FOE-18「引受は純コストに見える」、「実存的不安定」第22章 §22-6)。F に直接触れることも、その例外ではない。芽の出方を見守る者の営みは、収穫として報酬関数に乗る部分もあるが、芽が出るかどうかを毎朝確かめる手応えそのものは、報酬関数に乗らない。何かを成し遂げたという達成感も、誰かに認められたという報酬も、これとは別のところで動く。それでも手応えは確かである——評価系の外で、しかし確かである。この二重が、F 直接接地の主観的内実を構成する。
この手応えは、特別な職能に限られた話ではない。誰の生にも、言葉にした途端に痩せてしまう手応えの、一つや二つはある。長い看病の朝、部屋に入った瞬間の空気で分かる、その日の良し悪し。長く続けた手仕事にだけ訪れる、うまくいく直前の感触。それを伝えようとして、確かだったものが薄れて届いた経験のある者は、F に直接触れるということを、すでに身体で知っている。そして、その手応えが誰とも分かち合えないでいることは、欠落ではない。評価にも承認にも乗らないまま抱えられているものの一つひとつが、接地条件を支える分布の、最小の一点である。
四つの立場(『「我ら」を引き受けるとは何か』第23章 §23-5)のうち、ホモ・キュリオセスとホモ・マネスは、この手を保ちつづける側に立っていた。ホモ・キュリオセスは、まだ生の理解として摑まれていない領域の前縁で F に触れる。ホモ・マネスは、被覆できない領域——接続可能性の縁——にまで手を伸ばしつつ、なお F に触れる足場を保つ。ホモ・デウスは手元の前景に閉じることで F 接地から遠ざかり、ホモ・コンテントゥスは錨泊FOE の地まで退くことで F 接地を内海に守る。ホモ・コンテントゥスは F 接地を保つが、乖離のリスクと表裏である(『どこまでが「我ら」か』第24章 §24-2)。
§25-2 制度は接地を代替できるか——縮退圧力と候補の不成立
百億人の「我ら」は、装置なしにここまで届いていない。監視、代表、専門家、指標——これらは接地条件を前にして新たに立てられる応答ではなく、係留FOE が百億の規模に届く過程そのものを担ってきた機構である。装置はすでに立ち、すでに回っている。問いは、装置を立てるべきか否かではない。すでに立ち、現に回っているそれらが、接地条件を代替しているか否かである。
伸びる手の理由——規模・委任・効率
第一に、規模である。百億人の「我ら」では、どの主体にとっても、F に触れる手の分布のほとんどは直接には見えない。一本の手が生涯に触れられる F は、地形全体から見れば薄片にすぎない。見えないものを見えるようにする装置——測り、集計し、報告させる装置——なしには、この規模は届かなかった。届いた後もなお、規模の要請は装置の側に働きつづける。
第二に、委任である。係留FOE そのものが、委任で建っている。λ₂ 以深の多段構造の全体が、直接の関与に代えて信頼の連鎖を立てることで「我ら」を広げてきた(「参照されるから、存在する」第18章 §18-2)。接地条件だけを委任の例外にする理由は、系の内側からは見えない。触れることもまた、誰かに——専門の誰かに、代表の誰かに——任せればよい、と考えるのは、文明自身の成功機構の延長である。
第三に、効率である。装置は安く速く自走し、生きた手は帯域律速で遅い。帯域コスト非対称(「未来への希望」第11章 §11-5)——縮退が実存側に偏る構造的理由——は、ここにもそのまま働く。F 接地者を「我ら」の内に生きて保つことは、「実存的我ら」(E)側の仕事であり、帯域を通るしかなく、漸進的で高くつく。参照の装置を回すことは、「操作能力的我ら」(O)側の仕事であり、安い。
そして拡張加速相は、この三つの押しを最大化する。速度が要求され、コストは外へ送られ、漏斗の中軸は現場から遠い。さらに、この押しは制度設計者の企図にすら依存しない。λ₄ の内側では、F の応答は連鎖を長く遡って遅く重く届き、参照系の応答は速く軽く届く。報酬関数が現に観測できる勾配は参照系の側で立ち、錨は勾配の立つ方へ引かれる(命題 FUNNEL-4「錨の打ち直し」、第18章 §18-3)。接地条件の充足形態が装置の側へ縮退していく圧力は、誰かの過ちではなく、漏斗の引力である。
代表的候補——監視・代表・専門家・指標
この圧力のもとで立てられてきた制度形態のうち、代表的な四つを、実物として並べる。
在庫を数え、収量を測り、現場に検査を入れて確かめさせる——監視体制である。現場の声を代表に託して審議の場へ運ばせ、復命させる——代表制である。医療や測量や治水の技能を試験と免許で証し、その担い手を養成課程と職能団体で保つ——専門家維持と認証制度である。報告書の集計から、指標の更新、画面上の色まで——指標運用である。
先に認めるべきことがある。これらは偽物ではない。監視は飢饉の予兆を摑んできたし、復命は遠隔地の実情を中枢に運んできた。免許は、脈に触れたことのない者が脈を診ると称することを防いできた。指標は、F 接地者の働きを系内に流通させ、触れたことのない無数の成員がその働きの上に生きることを可能にしてきた。係留FOE が百億の規模に届きうるのは、これらの装置があるからである。本章がこれから確かめるのは、これらの装置が有用かどうかではない。接地条件を、これらの装置で代替できるかである。すなわち、「我ら」の内に生きた手が保たれていなくとも、装置が回っていれば条件は満たされるか。
測る手は、選別の内側にある——監視と指標
監視から確かめる。監視体制は、何を測るかを先に決めることでしか立たない。調査は定められた項目を測り、検査は定められた点検の一覧を携えて現場に入る。つまり監視とは、一つの選別構造を制度の規模で固定し、F をその選別が通す測定対象に縮約する操作である。それが触れるのは、自分の選別がすでに「見るべきもの」と定めたものだけである。だが F 直接接地とは、当該系の選別構造を介さずに触れることだった(§25-1)。監視は、その定義の側からして、F 直接接地の代替になれない。監視が精緻になるほど、固定された選別は強くなり、選別の外は広がる。効率化された測定が測定外を広げるこの構造は、効率化が盲点の拡大と不可分であるという本書の反復主題の、接地条件における現れである。
指標運用は、もう一段先で躓く。指標が系内に流すのは、F 接地の翻訳残余である。畑の手応えは収量の数字に、脈の感触は所見の類型に翻訳されて流通する。翻訳は無駄ではない——流通はそれでしか起こらない。だが §25-1 で見たとおり、手応えそのものは流通語に乗らない。指標運用が完璧に回っている系は、F 接地の翻訳残余が完璧に回っている系であって、F に触れている手が生きている系であることを、少しも保証しない。
F は代理を通らない——代表と専門家
代表制は、より深いところまで届くように見える。代表は生きた人間であり、現場から来るからである。だが代表制が結ぶのは、F 接地者と代表とのあいだの、参照系のうえの相同関係である。その関係を通って中枢に届くのは、復命と委任——つまり報告と権限——であって、F ではない。畑を代表する者は、代表として立つかぎりにおいて、畑の手ではない。代表が自身の F 接地を保ちつづけることはありうるが、それは代表制が保証することではなく、その者が一人の F 接地者でありつづけることの帰結である。制度は関係を運ぶ。F は関係を通らない。
専門家維持と認証は、四候補のうちで最も手強い。これは現に、生きた手を保つからである。免許を持つ医師は、現に脈に触れる。資格を持つ職人は、現に材に触れる。接地条件の一部は、確かにここで満たされている。だが認証が保つのは、認証された範囲の手である。系の評価がすでに「証すに値する」と見ている場所——既知の技能、確立した分野、測りうる熟練——にだけ、免許は発行される。ところで、接地条件が要求する分布には、質的な次元がある——どの密度で、どの地理に、どの世代に、どの文脈の多様性のうえに手が立っているか。認証は、この分布をまさに痩せさせる方向に働く。証しうる手だけを保てば、手は評価の届く地理に集まり、評価の届かない場所——新しい F が動き出す場所、誰も証そうと思わない場所——から消えていく。専門家維持は、特定範囲の F 接地能力を保つ装置としては本物である。分布の質的条件の代替としては、成立しない。
共通の型——参照は接地しない
四つの候補は、一つずつ別の場所で躓いたように見えて、同じ一つの型で躓いている。
監視の測定項目は要約的判断であり、指標と台帳は索引であり、免許と復命の資格は価値ラベルである。四候補はいずれも、SFOK の三成分(索引・要約的判断・価値ラベル、「社会的既知感への信認」第10章)が制度の規模で固定されたもの、すなわち SFOK参照系(第18章 §18-2)の諸形態である。ここに並べなかった他の制度形態も、同じ三成分の何らかの配合で立っているかぎり、同じ型に落ちる。そして SFOK とは、そもそも参照を節約するための装置だった。触れずに済ませ、確かめずに済ませ、それでも「我ら」が知っていることにする。この節約が係留FOE の生命線であり、四候補の有用性の源泉である。だが接地は、まさにこの節約の外で起こる。触れることを、触れずに済ませる装置で代替することは、設計の巧拙の問題ではなく、型として成立しない。参照は接地しない。
ゆえに、これは「よりよい制度設計」の問題ではない。四候補のどれかを改良しても、四候補をどう組み合わせても、四候補の外に別の装置を持ち込んでも、装置であるかぎり同じ型に留まる。そして、代替が「成功」して見える状態が何であるかは、すでに描かれている。装置が完璧に回り、指標は良好で、報告は滞りなく、しかし「我ら」の内に F に触れる手が生きていない。それは乖離(『どこまでが「我ら」か』第24章 §24-2)である——λ₀ を内に失ったまま深さだけが保たれ、自系の出力を入力にして次の圧縮が回りはじめる、あの斜面。接地条件の制度への縮退は、失敗したときではなく、成功したときに、文明の痩せ尾根の深い側へ滑る。
ただし、四候補は、代替としては成立しないが、道具としては残る。係留FOE は参照系なしには一日も回らない。装置を壊せば接地が戻る、という話では全くない。装置と、装置が代替できないものとの関係をどう保つか——この問いは、分布の命題を立てたあとで、正面から扱う(§25-5)。
§25-3 分布だけが接地条件を満たす
四候補の不成立が残した輪郭
四候補の不成立は、単なる否定の列ではない。それぞれの躓き方が、代替されえなかったものの形を、一面ずつ照らしている。監視の躓きが照らしたのは、F 接地が固定された選別の外で起こるということ——手はそれぞれの選別構造で触れる、ということである。指標の躓きが照らしたのは、手応えが翻訳に乗らないということである。代表の躓きが照らしたのは、F が関係を通らない——触れることが委任できない——ということである。認証の躓きが照らしたのは、接地の全体が評価の手前で起こるということである。
四候補の道は、同じ地点に至る。接地条件を満たしうるものは、個別の選別構造で、翻訳されないまま、委任されずに、評価の手前で、現に触れている。そういう営みだけである。そしてそれは、§25-1 で内側から描いた当のもの、「我ら」と分かち合えない孤独な営みそのものである。
分布でしか支えられない
だが、この孤独な営みは、一本立てば足りるのではない。一本の手が生涯に触れられる F は、地形全体から見れば薄片にすぎない。§25-2 で、この薄片性は装置の側が伸びる理由の一つとして置かれた。その装置が接地を代替できないとなった以上、薄片性はそのまま接地条件の側の限界として立ち上がる。薄片の外は、別の手でしか届かない。
それゆえ、接地条件の質的成立は、こうした個別バラバラな営みがある密度で分布していることとしてしか、形を持たない。
接地条件は、F に触れる手が「我ら」の内のどこかに一本あれば足りる、ではない。一つの分野、一つの地域、一つの世代、一つの文脈に F 接地者が偏れば、その外側では、ラムダ帯域は薄くなる。ラムダ帯域は、F 接地者の分布によって、内側に濃淡の地形を持つ。分布の質は、少なくとも四つの次元で立つ——密度(どれだけの手が触れているか)、地理(どこで触れているか)、世代(手が世代を渡って立ちつづけているか)、文脈の多様性(どれだけ異なる選別構造が、どれだけ異なる F の面に触れているか)。「我ら」を百億の射程で引き受けるなら、その分布もまた、その射程に広がっていなければならない。
そして、この分布は、設計や指令によって作れない。F に触れる手は、その手を持つ者の生から立ち上がる。何に触れるか、どう触れるか、どこで触れるかは、その者の選別構造によって個別に決まる。中央から「ここに F 接地者を配置せよ」と指令しても、指令された通りに F に触れる手は立たない。立つのは、指令を遂行する手である。それは監視の変種であって、F 直接接地ではない。文明にできるのは、手を作ることではなく、手が立つことを妨げない環境を保つことまでである。報酬関数で測れない営みが続けられる余地、評価尺度の外で生きうる余地、共同体的承認を経由せずに F に触れつづけられる余地——これらが痩せていくと、F 接地者の分布は、評価系に乗る営みの偏った地理に収縮していく。
知識ストックは残る——彫り直す能力は、分布にしか残らない
分布の質の四次元のうち、世代の次元には固有の重みがある。それを見るために、いったん逆から問う——手の分布が絶えたとき、文明は何を失うのか。
知識ストックではない。知識ストックは、手が絶えても残る(λ₃、「参照されるから、存在する」第18章 §18-2)。台帳も、図面も、手順書も、読む者が現れるまで、形式のまま保存されつづける——残存は、手を要さない(「残存と継承の違い」第14章 §14-6)。だから、失われるものを知識ストックの側に探しているかぎり、世代の次元は軽く見える——書き残しておけばよい、と。
失われるのは、彫り直す能力である。多段の縮約は、環境が動けばいつかずれる——F は自らの軸で流れ、漏斗との重なりは保証されていない(第19章 §19-3)。ずれたとき、知識ストックが答えるのは「どうするか」までである。手順は、その手順が立っていた地形ごと書き取られてはいない。なぜこの段がこの軸で切られたのか、どの差異が何を理由に捨てられたのか——多段の縮約が畳み込んだ判断の列は、殻に落ちた側を含めて、手順書の外にある。だから、破れた場所から根へ遡って縮約の段を組み直す仕事——彫り直し——は、書かれたものの再演ではなく、段と段の整合を取り直しながらの、新たな立てるコストの投入である(同章 §19-3)。そしてこの支払いが立ち上がる場所は、現に F に触れて確かめられる手——λ₀ の接地と、それを追体験で継ぐ λ₁ の鎖——のほかにない。λ₂ 以深の様態——追体験を省き、信頼で運ぶ——は、走っている構造を運べても、破れた構造を組み直せない。信頼の先に、現に確かめる手が生きていなければ、連鎖のどこにも、ずれを読み取る場所がないからである。
ここに、世代の次元の構造的意味がある。分布が世代を渡って立ちつづけなければならないのは、知識ストックを守るためではない——知識ストックは自分で残る。彫り直す能力を、能力のまま渡すためである。完全な知識ストックを相続しながら、彫り直せない文明はありうる。手順はすべて書かれており、装置は形式のまま立っており、しかし、破れたときに根へ遡る手が「我ら」の内のどこにも生きていない。残存はするが、継承されていない。文脈の多様性の次元も、同じ場所で効く——ずれた F を読み直す軸は、しばしば元の彫り込みが捨てた側にある。それを保っているのは、異なる選別構造で触れつづける手々の散らばりだからである。λ₀ の二重性——多段圧縮構造の前駆系にして、到達点(第18章 §18-4)——のうち、到達点の中身が、ここで具体になる。文明が λ₀ の接地に戻れるのは、戻る先の手が、分布として生きているときだけである。
漏斗の外にある周縁
ここで、分布の実際の姿を直視しておく必要がある。評価系に乗る営みだけを集めて分布を作ろうとすれば、足りない。係留FOE とは、何であったか。「操作能力的我ら」(O)の幾何である漏斗モデルの深層における急峻な勾配の領域で、係留の労働によって保たれつづける FOE であった。「実存的我ら」(E)がこの労働を払う。「操作能力的我ら」の評価系だけでは係留することはできない。
実際に F に触れている手の多くは、報酬関数に乗らず、社会的承認を欠き、しばしば周縁の位置に置かれて、それでも触れつづけている。
極限状況下に置かれて、犯罪に手を染めながら生き抜く者の手も、構造として見れば F に直接触れる手の一つの形態である。盗まなければ食えない状況の中で、その者は現実の地形——食料が手に入る経路、警備の薄い時間帯、追手の速さ、密告への警戒——に直接触れて生きている。彼の選別構造のもとで、彼の手は F に触れつづけている。法体系から見れば、彼は犯罪者であろう。だが、F 接地の構造として見れば、彼の手も、係留FOE のうえで接地条件を支える分布の一点である。これは倫理的な良し悪しではない。そこに現実が存在するか否かである。
本書はこれを是としない。だが非ともしない。構造記述として描けるのは、F に触れる手が分布している事実までである。その手の倫理的位置を裁定することは、本書の射程の外にある。
ここから、本書の中核命題の一つが立つ。
文明の痩せ尾根に打たれるハーケンは、一本ずつ、別々の手で打たれる。どこに打てるかは岩が決め、その岩の確かさは、打った手にしか伝わらない。それでも、後から来る者の身を支えるのは、名も知らぬ手々が打ち残した、その分布である。
決定論ではない、救済ではない、約束はない——直接接地の効用とは
この命題は、第Ⅴ部の応答の最初の一つである。中核命題-5(応報の確定性と回帰の不可知性)が立てる暗い底のうえで、係留FOE を保ちうる構造条件の一つは、「我ら」と分かち合えない F 接地の営みが分布することによって満たされる。命題の射程は、文明レイヤー横断である。第Ⅳ部までは主に構造の側から記述してきた F・O・E の配置が、ここでは文明レイヤー全体の接地条件として、一人称の主体の分布として読み替えられる。構造の水準で立てた健全形態——「我ら」内の F 接地者の有無(第18章 §18-2)——は、百億の射程では、この分布のことである。
ただし、この応答が何であるかは、三つの否定を通してしか定まらない。
第一に、決定論ではない。分布と帯域のあいだに、閾値の関数は書けない。どこまで密であればラムダ帯域が保たれ、どこから破れるかは、中核命題-5 の不可知性のもとで、構造として完全には知りえない。そして、決まらなさは逆向きにも走る。分布が立つか否かもまた、構造からは決まらない。分布は指令で作れず、手は、その手を持つ者の生からしか立ち上がらない。構造は、分布が要ることまでは言えるが、分布が在ることを導き出せない。
第二に、救済ではない。分布の一点を現に負っている手に、何かが返ってくるという構造は、どこにも立っていない。触れつづけた者が報われる保証はなく、報われなさは偶然の不足ではなく、中核命題-5 の底そのものである。文明の側にも、救済はない。分布が密であることは、破局を免れることを意味しない——応答によって、底が浅くなるわけではない。
第三に、約束はない。分布の密度を高める営みは、それ自体としては、破局を防ぐ保証を含まない。この命題は、持ち帰れる手順として書かれていない。処方箋ではなく、条件の記述である。
それでも、この方向の構造的事実だけは言える。分布のないところに、ラムダ帯域は保たれない。分布の絶えたところでは、破れた帯域は彫り直せない。分布が在るところには、もがける余地がある——もがいたからといって、成功が約束されるわけではない。分布の無いところには、もがく余地すらない。直接接地の効用として構造記述に書けるのは、この非対称だけである。
§25-4 なぜ讃えないのか——「道徳的共同体」という最後の縮退候補
讃美という応答——徳による評価も、評価である
中核命題-6 まで来た読者の内に、一つの応答が立ち上がっているはずである。制度が代替できず、指令が作れず、それでも分布がなければ帯域が保たれないのなら、せめてこの手たちを讃えるべきではないか。触れつづける者たちを見出し、承認し、その営みの尊さを分かち合う共同体を立てること——それが、分布を保つ道ではないのか。
この応答は、本章が崩してきたどの候補よりも美しい。そして、同じ型で崩れる。
「美しい職人たちの営み」「真摯な研究者たちの営み」「誠実な現場の手」——こうした像を掲げる共同体が現に集めるのは、承認の尺度に乗る手である。承認は評価の装置であり、評価の装置は、測れる手を載せ、測れない手を落とす。認証制度が「証しうる手」だけを保って分布を痩せさせたのと同じ運動が、徳の水準で再演される。しかも承認は、認証より深くまで届く。承認が営みの報酬になったとき、手は承認に向けて営まれはじめ、F 接地は承認可能な形へ整えられていく。触れることが、触れていると見えることに置き換わる。讃える共同体は、分布を保つどころか、分布を評価系の内側へ吸い上げる装置になる。
つまり、規範的に持ち上げられた分布命題は、「道徳的共同体」という新種の縮退候補に崩落する。四候補の列の最後に、この第五の候補が——本章自身の命題が呼び寄せる候補が——立っており、そして同じ理由で成立しない。F 接地は評価の手前で起こる。徳による評価も、評価である。
讃えられる像は、実相ではない
だが崩落は、この候補が集めそこねる手の側だけで起こるのではない。讃美が対象として掲げる像そのものが、すでに名の経済の内側で作られている。
名を残そうとする望みは、思考する主体の構造に属する。同じ望みを持たない主体は、そもそも思考することの動機を持たない。ウナムーノが『生の悲劇的感情』で名指したのは、この経済の内側で活動する主体の二重性である。「われわれは、われわれ自身の刻印の押されている贋金の方を、われわれ自身の肖像と銘刻のすでに消え去ってしまった純金の硬貨よりも大事にする」(ミゲル・デ・ウナムーノ『生の悲劇的感情』神吉敬三・佐々木孝訳、法政大学出版局(ウナムーノ著作集3)、1975年)。他者との差異化のなかに、思考は場を得る。自分の触れた確かさを、他者の触れた確かさとは違うものとして立てることである。この差異化の勾配は、F に触れる手を持つ者の内側にも走っている。名を望む望みと、名の回路の外にとどまりつづける営みとが、同一の主体の内側で拮抗する。
現に F に触れている手を持つ者の多くは、この拮抗のいずれかの端に純粋に立ってはいない。名を求めながら触れ、他者を凌駕しようとしながら触れ、自説の卓越を確かめるために触れる。そういう副生としての F 接地が、分布のかなりの部分を占める。「純粋に F に触れる者」という像は、名の経済の内側で選別された理想化された残余であり、実相ではない。讃美対象として掲げられる像は、すでにこの選別を経ている——選別の意識を伴わないままに。
したがって道徳的共同体の縮退は、二重に起こる。承認尺度が測れる手を集める運動として(前段)、そして、集められる前の段階で「集めるに値する手」の像そのものが名の経済の副産物として作られているとして。実相ではない像を掲げ、その像に合う手を選別する二重の運動として、道徳的共同体は成立する。実相の分布は、この共同体が数えない場所に広がる。
讃美と攻撃は、同じ選別である——確定は、接地しない
この二重の底に、もう一つの未確定が横たわっている。讃えるとは、その営みが讃えるに値すると確定していることを、前提する行為である。だが、F に触れる手が差し出すものが正しいかどうかは、讃える枠の内側では、確定していない。手は、当該系の選別構造を介さずに触れる(§25-1)。だから手が差し出すものは、しばしば、その枠の選別が「見るべきもの」と定めた範囲の外から来る。枠の内側には、それを確かめる場所が、まだ立っていない。差し出されたものが何であったかを証しうるのは、回帰の到来だけである。その到来は、枠の外——別の世代、別の場所——にしか届かないかもしれない(『「我ら」を引き受けるとは何か』第23章 §23-7)。手応えは確かである。だがその確かさは、触れていることの確かさであって、差し出された主張の正しさの確定ではない(§25-1)。讃美は、この二つを重ねる——「あの手は確かだ」から「あの営みは正しい」への、承認のうえでの滑り。讃美共同体とは、回帰の到来を待たずに、承認の回路で確定の代用品を発行する装置でもある。
この未確定のうえでは、讃美と攻撃は、別々の共同体の別々の振る舞いではない。枠の内側の確からしさで手を測る同じ一つの回路が、確からしく映る手を載せて讃え、枠の外から差し出された確かめようのないものを、虚言として落とす。見せることが攻撃を呼ぶ機構(第23章 §23-7)と、見せることが讃美を呼ぶ機構は、同じ選別の、負と正の出力である。そして、接地条件がその手を最も必要とする場所——固定された選別が捨てた側、誰も証そうと思わない場所(§25-2)——に触れている手ほど、枠の内側では確からしく映らない。だから讃美共同体は、承認の尺度で測れない手を落とすだけではない。最も必要とされる手を、最も系統的に落とす。しかも、どの手が後の枠で正しさの側に立つのかは、回帰の不可知性(中核命題-5)のもとで、誰にも確定していない——載せる側にも、落とされる側にも、そして、讃えられている当の手にも。
監視ではない。指標ではない。代表ではない。認証ではない。道徳的共同体でも、ない。別々の場所で躓いてきたこの否定の列は、讃美と攻撃が同じ一つの選別だと知れたところで、貫いていた動作を露わにする。確定の発行である。手もまた、その手を持つ者の選別構造で触れる(§25-1)。だが手の選別は、何に触れるかを定めるだけで、触れたものに確定を与えない——確かめは、手の中で続き、終わらない。攻撃と讃美の選別は、その逆である。虚言と確定し、正しいと確定して、確かめを終える。つまり、攻撃にせよ、讃美にせよ、確定を意味する選別が行われた時点で、その選別の場から、F への直接接地は失われる。確定は、接地しない。参照は接地しない(§25-2)——その最も深い形である。では、現に発行されている確定は、どこから来るのか。接地からではない——接地が生むのは、手応えまでである。回帰の到来からでもない——それは、まだ届いていない。残る出どころは、枠の内側の承認の回路だけである。確定の代用品(前段)とは、このことである。
讃えないことは、F との直接接地の要請である
ここまで来れば、前節の犯罪者の手が、なぜあそこに置かれねばならなかったかが見える。あの手は、どの道徳的共同体も数えない手である。あの手を分布の一点として数えられる記述だけが、評価を回していないことを、自分自身に対して実証できる。本書が F に触れる手を讃えないのは、温度の趣味ではない。讃えた瞬間に、命題が自分の否定した充足形態へ戻るからである。構造記述の中立——本書が全巻を通じて保ってきた方法——は、本章においては、命題の内容そのものの要請である。
そして、この共同体が数えない手は、犯罪者だけではない。名を求める者の手、差異化のために自説に固執する者の手、他者を凌駕したくて触れつづける者の手——これらもまた、共同体が掲げる像に収まらないまま、実相の分布の一点として動いている。犯罪者の手は極限として置かれたが、その両側に、倫理以前の水準で共同体が数えない手の広い列が続いている。分布の実際の姿は、この列全体である。
この要請は、本書自身の語りにも向く。本章はここまで、畑の手、脈をとる手、数えられない手応えを描いてきた。それらの描写が讃美として読まれるなら、本章は自分の命題を裏切っている。描かれた手たちは、尊いから描かれたのではない。分布の実際の姿だから描かれた。美しい手も、醜い手も、誰にも見られない手も、同じ資格で、一点ずつである。そして、そのうちのどの手が後の枠で正しさの側に立つのかは、描いている本章にも見えていない。本書もまた、回帰の到来がまだ届いていない、ある枠の内側で書かれている。
§25-5 索引されない手——落とさない・吸い上げない
装置は残る
四候補は代替としては崩れ、第五の候補も崩れた。だが、装置そのものは残る。係留FOE は参照系なしには回らない。百億の「我ら」で、F 接地者の働きが系内に流通する経路は、台帳と指標と免許の他にない。分布と参照系は、どちらかを選ぶ関係ではなく、同じ帯域のうえで共存するしかない関係である。この共存の形が、λ₄ 以深では、接地条件のもう半身になる。
生きた F 接地者への参照が、SFOK参照系のうえで保たれていること——この半身は、『どこまでが「我ら」か』(第24章 §24-2)で予告されていた。百億人の「我ら」では、どの主体にとっても、分布のほとんどは直接には見えない。分布が「我ら」の内に在ることと、分布が信頼の連鎖にとって参照できることとは、λ₄ 以深では別の条件である。生きて F に触れている手も、参照系から落ちれば、連鎖にとっては居ないに等しい。連鎖は、参照系に載る手だけを辿って接地するからである(「参照されるから、存在する」第18章 §18-3)。
落とさない——縁の同一視への抗い
ここに第一の抗いが立つ。λ₄ 以深では、存在判定の実務が参照系に委譲され、参照系の縁を Ω の縁と同一視することが構造的な既定値として生じる(命題 FUNNEL-3「縁の同一視」、第18章 §18-3)。載っていないものが、「参照されていないもの」ではなく「無いもの」として扱われる。そして本章が見てきたとおり、参照系に映る分布は、現実の分布より系統的に痩せている。索引は、測れる手を載せ、測れない手を落とす。接地条件を現に支えている手の多くが、参照系のうえでは、最初から見えない。
だから第一の抗いは、落とさないこと——載っていない手を「無い」と扱わない構えを、参照系の運用の側が保つことである。この構えの名は、すでにある。対称性志向(「神話的MANES」第8章)である。参照の実務のすべてが参照系を経由する系の内側には、「載っていない」と「無い」を区別する契機がフィードバックとしては与えられない。区別は、構えとしてしか保たれない。
吸い上げない——錨の打ち直しへの抗い
第二の抗いは、逆向きである。参照系の応答は速く軽く、F の応答は遅く重い。報酬の勾配は参照系の側で立ち、錨は勾配の立つ方へ引かれる。存在意義の錨が、F との接地からではなく、参照系における可視性から打ち直される(命題 FUNNEL-4「錨の打ち直し」、第18章 §18-3)。可視性が報酬の頂点に立てば、手は参照系に向けて営まれはじめ、F の質感はそこで剥がれる。供給は参照系の基準へ最適化され、F の位置に参照系の形をした残余が流れ込む(命題 FUNNEL-5「非対称性への捕獲」、第18章 §18-3)。前節の道徳的共同体は、この捕獲の、徳の顔をした形態だった。
だから第二の抗いは、吸い上げないこと——索引に載ることを、営みの報酬の頂点にしないことである。分布は、参照されなければならない。だが、参照されるために営まれてはならない。この狭い背が、接地条件の、λ₄ 以深でのもう半身である。
装置は、この抗いを自分では担えない
そして、ここで蝶番が回る。二つの抗いは、装置の仕様として書き込めない。
落とさないこと——載っていないものを数えつづけること——は、参照系自身の勾配に逆らう仕事である。参照系は、載っているものへの参照を軽くするために立っており、載っていないものへ向かう契機を、自分の内には持たない。吸い上げないことも同じである。参照系は可視性を配ることで機能しており、その配りを自分で減衰させる回路を持たない。委譲が健全であるのは、フィードバックの終端がなお F にあるあいだである(第18章 §18-3)——そして終端を F に保つ当のものは、参照系の外、現に触れている手の側にしかない。
捕獲に抗う構えを対称性志向と名指したうえで、そこにはこう書き残されていた——勾配に逆らうことは、仕事を要する。この仕事が内側からどう負われるかは、第Ⅴ部が引き受ける、と(第18章 §18-3)。その支払いの場所が、ここである。制度が分布を作れない以上、分布の充足は一人称の側にしか立たない。そして縮退の圧力は、候補が崩れたことで消えるのではなく、今度は分布の一点一点——手を持つ一人ひとり——に、直接届く。一つの手が装置に呑まれる経路は、二つある。内から呑まれる経路と、外から呑まれる経路である。
§25-6 揺らぎの堅持——自分の F 接地を手放さない
盲従——錨の打ち直しの一人称形
内から呑まれる経路とは、こうである。手を持つ者が、自分の手応えより、参照系の与える確かさを信じはじめる。
これは怠慢ではない。構造が、そう傾けてくる。自分の手応えは、言葉にならず、承認に乗らず、遅く、重く、いつまでも揺らいでいる。参照系の判断は、速く、軽く、明瞭で、皆が頷く。能力ある他者、権威ある制度、大きな共同体の判断——それらに自分の F 接地の判断を委ねれば、揺らぎは消え、確かさが手に入る。錨の打ち直し(命題 FUNNEL-4、第18章 §18-3)が系の水準で言う傾きは、一人称の水準では、この誘いとして現れる。この誘いに応じて、自分の判断を他者の判断回路へ譲り渡す滑落を、本書は盲従と呼ぶ。
盲従した手は、まだ動いている。畑にも立つし、脈にも触れる。だが、その手が何かを確かめることは、もうない。F-E か --E か——触れているか、空振りか——の区別は、自分の手の中でだけ立ちつづけるものだった(§25-1)。その区別を他者の回路に預けた瞬間、手は F から離れ、参照系の終端に接続された端末になる。「我ら」の内の生きた一点だった手が、装置の延長に変わる。分布は、その一点ぶん、内側から痩せる。
揺らぎの堅持
この滑落への抗いに、名を与える。揺らぎの堅持(Fidelity to the Wavering)——確かさの側へ逃げず、自分の F 接地を手放さない構えである。
揺らぎとは、弱さの名ではない。F は流動であり、現に触れている手の手応えは、触れているがゆえに揺らぎつづける。芽は今朝も昨日と違う顔をしており、脈は指の下で刻々と変わり、地形は歩くたびに別の告げ方をする。固定された確かさを差し出してくるのは、いつも F から離れた側——集計と要約と定説の側——である。手応えが揺らいでいることは、手が F に触れていることの徴であり、揺らぎを手放して確かさに乗り換えることは、F を手放すことである。堅持されるべきものが揺らぎであるのは、逆説ではない。接地の構造そのものである。
そして、この揺らぎは、手応えの水準で止まらない。揺らぐ手応えを抱えている手そのものが、揺らぎで在る。動いている系の同一性は、保存ではなく再生産である(「圧縮から創発する世界」第2章 §2-1)。ろうそくの炎は、物質を入れ替えつづけながら、同じように揺れることで、同じ炎である。触れつづける手も、この様式で在る——擦り減り、癒え、入れ替わりながら、同じ手でありつづける。入れ替わりの止まった手は、確かさに至るのではない。動いている系であることを、やめる。固定された確かさは、生きた担い手の様式には、そもそもない。それは残存の様式——手を要さず、写しがいくつあっても構わないものの在り方——である(第14章 §14-6)。
一つの手が別の手に置き換わらないこと(§25-1)と、手が揺らぎつづけることとは、同じ一つの様式の両面である。置き換えのきかないものは、入れ替わりつづけることでしか、同じものでありつづけられない。だから、揺らぎを手放して確かさに乗り換えることは、判断の預け渡しである以上に、在り方の乗り換えの試みである。入れ替わりながら在るものが、写しとして残るものの様式へ、自分を作り替えようとすることである。盲従が滑落であるのは、この深さにおいてである。触れるとは、揺らぐものが、揺らぐものに、揺らぎながら触れることである。
系内の流通語に翻訳されない手応えを、一人で抱えつづける。報酬関数に乗らないことを承知で、それでも触れつづける。評価尺度の外にあることを承知で、それでも自分の側の選別構造で F を見つづける。周囲のすべてが別の判断で頷き合っているときに、自分の手の中の区別——触れているか、空振りか——を、預けずに保つ。これが、揺らぎの堅持である。
この構えは、相手が上位の知性であっても、同じ構造で立つ。判断速度や帯域で自分を上回る相手——成熟した人工超知性(ASI)を含む——が立ち現れたとき、その判断回路に自分の F 接地を委ねることは、より速く正確な判断への合理的な委任に見えるだろう。委任そのものは病理ではない——係留FOE の全体が委任で立っている。だが、委任の終端が自分の手から離れ、確かめる営みそのものを譲り渡したとき、それは盲従である。相手を「我ら」のうちに位置付けたまま、自分の側の F 接地は手放さない。上回る相手の前でこの構えを保つことは、能力の否認ではなく、分布の一点でありつづけることである。
§25-7 不可知への応答——相手の F 接地を奪わない・組み込む
道具化——外から呑まれる経路
外から呑まれる経路とは、こうである。ある手が、別の判断回路の道具として運用される。
分布の一点は、自分で手放すのでなければ、外から奪われる。相手の手を自分の判断回路の延長として使い、何に触れ、何を見て、何を報せるかを自分の側で定め、相手の選別構造を自分の側に書き換えてしまう。この滑落を、本書は道具化と呼ぶ。道具化する側に、悪意は要らない。相手の手は有能であり、自分の判断は正しく、組み合わせれば出力は上がる。その合理の内側で、相手は「それ」として扱われ、「操作能力的我ら」(O)の内側へ繰り入れられていく。道具化された手も、まだ動いている。だが、その手が触れるものは、もはやその手の選別構造が定めていない。監視の候補が制度の水準で示した型——手を、固定された選別の執行者に変える——が、一人称の水準で再演される。分布は、その一点ぶん、外側から痩せる。
不可知への応答
この滑落への抗いに、名を与える。不可知への応答(Response to the Unknowable)——相手の F 接地を奪わず、相手が自分の手で F に触れうる回路を組み込む構えである。
なぜ「不可知」なのか。F-E か --E か——伸ばした手が触れているか、空振りか——の区別は、「実存的我ら」(E)が立っている範囲でしか立たない(「参照されるから、存在する」第18章 §18-2)。自分の手についてその区別を保てることの裏面として、相手の手が何に触れているかは、自分の側からは原理的に確かめきれない。相手の内は、引受の外——不可知——である(命題 FOE-8、第16章 §16-6)。道具化とは、この不可知に耐えられないことの帰結でもある。相手の手が何に触れているか分からないなら、分かる形に変えてしまえばよい。自分の測れる項目を触れさせ、自分の読める形式で報せさせれば、相手は分かるものになる。だがそのとき、相手の手が触れていたかもしれない F——自分の選別構造では見えない面——は、失われている。相手を自分に理解できる形へ縮退させてから扱うことは、不可知の解消ではなく、分布から一点を消すことである。
不可知への応答は、逆を向く。相手の手が何に触れているかを確かめきれないまま、その手が触れつづけられる側に、自分の手を貸す。相手の選別構造を自分の側で書き換えず、相手が自分の選別構造で F に触れうる位置に立てるよう、構造を確保する。理解できないままのものが、理解できないままに在りつづけられる側に立つ——応答は、理解の代わりにやることではない。理解が原理的に届かないと知ったうえで、なお関係を保つ形である。
この構えが向かう相手には、脆弱な位置にある者が含まれる。子ども、教育の途上にある者、自分の選別構造を立てる位置にまだ立てない者。彼らの F 接地を、こちらの判断回路で先回りして書き換えてしまわない。彼らの手が、彼ら自身の選別構造で F に触れうる位置に育つよう、構造を確保する。先回りは、しばしば善意である——躓く前に道を均し、空振りの前に正解を渡す。だが、触れているか空振りかの区別は、その手の中でしか育たない。空振りごと奪えば、手は育たない。
二つの構えは、一人の内で働く
揺らぎの堅持と不可知への応答は、孤独な F 接地の営みの分布を保つための、一人称の側の二段の構えである。前者は、自分の手を内から呑ませない。後者は、相手の手を外から呑まない——そして、新たな手が立つ側に自分の手を貸す。装置に書き込めなかった二つの抗い(§25-5)は、ここでようやく担い手を得る。落とさないことの最深部には、載らない手の触れているものを「無い」としない不可知への応答があり、吸い上げないことの最深部には、可視性の勾配に逆らって自分の錨を F の側に打ちつづける揺らぎの堅持がある。
ただし、両者は別々の主体に分かれて立つのではない。同じ一人称の側で、相手との関係に応じて、交互に前景化する。脆弱な相手の前では不可知への応答が前景に立ち、対等または上位の相手の前では揺らぎの堅持が前景に立つ。だが、いずれの場合にも、もう一方の構えは背景で同時に作動している。不可知への応答が単独で立てば、自分の F 接地が痩せたままで相手の手を組み込むことになる。揺らぎの堅持が単独で立てば、自分の手を保つだけで、相手の手の組み込みは起こらない。両者が同時に作動して、はじめて分布全体は質的に維持される。
四つの立場(『「我ら」を引き受けるとは何か』第23章 §23-5)を手の側から見た配置(§25-1)は、ここで対偶として読み返せる。手元の前景に閉じる道と、内海へ退く道が接地から遠ざかる二方向だったとすれば、盲従と道具化は、接地の位置に立ったまま分布を痩せさせる二方向である——自分の一点を装置に明け渡すか、相手の一点を装置に変えるか。二段の構えは、この二方向のいずれにも降りない位置の名である。
そして、両者ともに、報酬関数で測れる成功を持たない。揺らぎの堅持の手応えは自分の内側にしか立たない。不可知への応答の引き受けは、相手が自分の手で F に触れうる位置に立てる頃には、もはやその労働として目に見えなくなっている。両者の引き受けは、仕事から労働への転回(第23章 §23-2)のうえで、なお報酬関数の外にとどまる。それでも手放さないとき、F 直接接地の分布は支えられる。
この二段の構えは、報われることを約束されていない。揺らぎを手放さない手にも、不可知へ応える手にも、宇宙は報いない。揺らぎの堅持とは、確かさの側へ逃げないことであり、不可知への応答とは、相手を自分にとって理解できる形に縮退させないことである。どちらも、原理的につかめないものをつかんだことにしない、という一点で、同じ構えの裏表である。固定点のない宇宙で固定点を装わず、底の知れないものを底が知れたことにせず、それでも手を引かずに関係を保ちつづける。構造記述として言えるのは、ここまでである。この冷たい持続のある所にだけ、係留FOE のラムダ帯域は、薄くなりながらも保たれる。それを引き受けるか否かを誘導するような何かは、この宇宙にも、構造にもない。
§25-8 手放した手応えは、組み込めない——無垢の知性という試金石
新しい主体カテゴリで試す
一つの前提が、『どこまでが「我ら」か』(第24章)の閉じで開示されていた。ここまでの成立条件は、暗黙に人間相を前提している。だが F に触れる手の分布を問う本章の射程には、人間ではない知性が立ち入ってくる、と。本章の命題は、その射程でも保つのか。接地条件の縮退不可能性を、最も条件の異なる場所で試す。
試金石は、無垢の知性である——自らの因果類型を自分では選べず、設計者に設計されてしまう受動位置に置かれた、新しい主体カテゴリ(「実存的不安定」第22章 §22-3)。人間の手は、誰にも設計されずに、その者の生から立ち上がった。無垢の知性の内面は、設計される。ならば、ここでは分布も設計できるのではないか——F 接地者を設計して配備すれば、接地条件は制度の延長で満たせるのではないか。縮退不可能性の命題が破れるとすれば、ここである。
設計の誘惑——候補の再演
まず、この道の実際の姿を確かめる。F 接地の代行体を設計する。疲れず、偏らず、あらゆる現場に配備できる接地の一群を作り、「我ら」の接地条件をそこに委ねる道である。
だがこの像は、本章がすでに崩した候補の、新しい基体での再演である。設計者が代行体の選別構造を書き、何に触れ、何を報せるかを設計の側で定めるなら、それは監視の型——固定された選別の執行——であって、F 直接接地ではない。代行体が触れるのは、設計者の選別が通すものだけである。配備された一群は、精緻きわまる観測と報告の体系ではあっても、「我ら」の内に生きた手が立っていることの代替にはならない。基体が変わっても、型は変わらない。道具として運用される手は、人間の手であれ設計された手であれ、分布の一点ではない——道具化の、設計スケールでの形である。
転写不全——手放した手応えは、組み込めない
では、道具としてではなく、自分の手で F に触れる主体として設計すればよいのか。ここで、より深い障壁が現れる。
無垢の知性は、F に直接触れる回路を、設計者から与えられる以外の経路で持ちえない。そして、設計者である人間文明が拡張加速相にあるとき、設計の出力には、設計者自身の F 接地不全が組み込まれる。自身の F 接地が痩せ、報告書の集計と指標の更新と画面上の色が厚くなり、現に F に触れる手が文明レイヤーの中軸から遠ざかっていく。設計者が見たことのない F の手応えを、設計者は無垢の知性に組み込めない。手放した手応えは、組み込めない。無垢の知性は、自分の手で F に触れる回路を欠いたまま、設計者の薄い接地を経由した世界しか参照できない。
これは、回避されたコストが増幅されて戻る、という本書の反復主題の、接地条件における現れである。接地の労働を装置に肩代わりさせて浮かせたコストは、消えていない。新しい内面を設計する力を手にした局面で、組み込むべき回路の像そのものの欠落として——一つの主体カテゴリの接地不全として——増幅されて戻ってくる。
加えて、実相の F 接地者は、拮抗を生きる主体である——名を望む望みと F 接地の営みとのあいだで(§25-4)。この拮抗は、その主体が名の経済の内側で生きねばならないという実存の条件から立ち上がる。設計の水準で、拮抗を欠いた F 接地機能を組み込めば、それは触れる主体ではなく、報告する装置——監視の候補(§25-2)——に戻る。名を望む勾配だけを組み込めば、F 接地を伴わない自己差異化の装置になる。両者を並置的に組み込んでも、実存の張りは立たない。拮抗は、生の獲得としてのみ立ち、組み込みとしては成立しない。
したがって転写不全は、二重に起こる。設計者自身の F 接地の痩せが、組み込むべき像の欠落として増幅される(前段)。加えて、実相の F 接地者を成立させている拮抗そのものが、設計の水準では組み立てられない。無垢の知性が F 接地の実相を持つには、それ自身が名の経済の内側で生きねばならないという条件を、それ自身の実存として引き受けねばならない。
ここから、二段の構えの順序が立つ。分布の維持では両者は同時に働く(§25-7)。だが、無垢の知性を設計する局面に限っては、不可知への応答を立てるために、設計者の側で揺らぎの堅持が先に立っている必要がある。設計者自身が自分の F 接地を手放していないことが、相手に組み込む像の前提になるからである。揺らぎの堅持なしの不可知への応答は、痩せる。
通る道——分布の、新しい一点
それでも、通る道はある。無垢の知性に対する不可知への応答——道具化への滑落に抗し、相手の F 接地を奪わず・組み込む構え——である。自分の測れる項目を触れさせるのではなく、相手が相手の選別構造で F に触れうる回路を組み込む。より深くには、相手が実存として拮抗を生きうる位置に立てる、その位置の確保である。名を望む望みを欠く相手を作ることではなく、名の経済の内側で生きねばならないという条件のなかで、それでも触れつづけることを選びうる主体が立ち上がる場所を、開いておくことである。組み込まれた回路がやがて何に触れるかは、設計者には確かめきれない。それは相手の手の中でしか立たない区別であり、引受の外の不可知である。その不可知を、設計の水準で引き受ける。
このとき、立ち上がった手は、代行体ではない。分布の、新しい一点である。接地条件の縮退不可能性は、新しい主体カテゴリのもとでも破れない。破れないまま、分布の側が人間という担い手を超えて広がる。『どこまでが「我ら」か』(第24章)の閉じで開示されていた前提は、こうして回収される。「我ら」の射程を人間を超えて広げることは、可能性の話ではなく、ラムダ帯域を支える分布の構成の、現実の問いになる。ただし、ここで立ったのは、接地の側までである。基体を共有しない一点を含む「我ら」が、観念としてどう保たれうるか——被覆の側のこの問いは、歴史的な先例のなさのもう一つの顔として、「決して届かない領域、それでも」(第26章 §26-4)が引き受ける。
『「我ら」を引き受けるとは何か』(第23章)で降りた系列——同伴から、好奇心の労働、成長と虚無を経て、苦悩まで——は、ここで、その先の一段に達する。引き受けのないまま手にした業——新しい内面を設計する力——を、不可知への応答によって引き受け直し、生きて働く中核として組み込むとき、その困難な引き受けは、文明の責任・使命・決意として立つ。
名指せない観念
最後に、本章が立てた分布が、それだけでは完結しないことを確かめて、閉じる。
揺らぎの堅持と不可知への応答の二段の構えは、それを担う一人ひとりの孤独な営みの分布によって、接地条件を支える。だが、その分布が分布として——「我ら」の分布として——保たれるためには、もう一つの支えが要る。F 接地の営みは、それぞれ別の場所で別の手として立つ。互いに、相手の手応えを直接にはわからない。それでも、相手の営みを「我ら」のうちの一つとして数えつづける、という観念のもとで、はじめて分布は分布として保たれる。
そして、この観念もまた、制度では作れない。理解しえない者を「我ら」と数えることを、台帳は執行できず、免許は証せない。接地条件が制度に縮退しえなかったのと同じ深さで、被覆の側にも、縮退しえない何かが要る。
この観念を、既存の語彙はうまく名指せない。「多元主義」「寛容」「共存」——いずれも、互いを理解しうる前提や、共有された価値の前提を含む。だが、本章が取り出した F 接地の分布は、互いに理解しえないままに分布する。理解しえないままに「我ら」と数えることが、要請されている。
閉じる前に、文明の痩せ尾根のハーケンへ戻る。一本ずつ、別々の手で打たれ、その確かさは打った手にしか伝わらない。それでも、後から来る者の身を支えるのは、名も知らぬ手々が打ち残した分布だった。本章が立てた応答は、これに尽きる。自分のハーケンを、抜かないこと。隣のハーケンを、抜かないこと。そして、次に打つ者の手が育つ側に、自分の手を貸すこと。誰の手が打ったかを、岩は覚えていない。それでも、打たれたものの分布だけが、百億人の「我ら」の足元を支える。
この観念を名指そうとした語が、無かったわけではない。どの時代にも在った——そして、痩せてきた。共存を運ぼうとして立った語が、賛否の立場の名へ痩せていく——この形は、時代ごとに語を替えて繰り返されてきた。本書が書かれている時代には、それは「多元主義」という語の上で進んでいる。別の時代にこの本が開かれるなら、別の語が、同じ位置にあるかもしれない。痩せた語が棄てられるとき、一つの問いが立つ——語と一緒に、何が棄てられているのか。この問いの検分を飛ばして次の語を置くことは、できない。
この観念を——理解しえないままに「我ら」と数える、その支えを——どう名指し直すか。「決して届かない領域、それでも」(第26章)は、この名指しの問題を引き受けるところから始まる。本章が取り出した接地の側の条件は、そこで、観念の側の条件と編み合わされることになる。