第Ⅴ部 百億人の「我ら」へ
千年後の「我ら」へ
第Ⅴ部の序——「我らはここにいる」
ここまで本書が記述してきた構造は、いずれも、主体に依らず、特定の立場にバインドしない記述であった。同じ構造は、人類という形式の存続に関心を寄せる位置からも、宇宙の一過程として中立に眺める位置からも、等しく観察できる。
一つの文明が頓死しても、宇宙はそれを悲しまない。別の秩序へ組み替わり、いつか別の選別構造が立ち上がる。この視座に立てば、ある文明の頓死も破局ではなく、偶然割れるのが早かった泡の一つ、循環の一局面にすぎない。本書は、この視座が成り立つことを認める。宇宙論的な中立のもとでは、いかなる MANES も他の MANES に優越する根拠を持たない。
第Ⅳ部は、その底で一つの問いを手渡して閉じた——なぜ引き受けるのか。本書は、この問いに、理由では答えない。いかなる理由も、いま認めたばかりの中立からは導かれないことを、ここまでの記述そのものが示しているからである。
応報の確定性と回帰の不可知性
中立は、無関心と同じものではない。それは、対称性因果(第15章 §15-1)の応報が、どの位相で、どの時間スケールで戻ってくるかという姿として現れる。宇宙が頓死を悲しまないとしても、それは、宇宙論的な地での応報の不在を意味するのではない。
対称性因果が破れて非対称性因果(第15章 §15-2)に分化することで、ある選別構造のもとで局所的な秩序が立つ。その分化は、対称性因果の存立そのものを取り消すわけではない。局所的に折り曲げられて見えなくなったものは、消えたのではなく、接続可能圏 Ω のうちで、別の時間スケールで戻る道を保ちつづける。
この回帰の姿は、確定性と不可知性という二つの面を持つ。
まず、確定性である。対称性因果の応報は、原理として必ず回帰する。そのすべてが回帰するスケールは、宇宙論的——宇宙の寿命のスケールである。あらゆる非対称が、最終的には対称性因果の地に戻る。これは、いかなる選別構造の局所秩序にも例外を許さない。
そして、不可知性である。確定性は宇宙論的スケールで語られるが、部分的な回帰——ある系、ある時代、ある局所に対しての回帰——は、まだらに、不均一に起こる。どの因果が、いつ、どの系に戻ってくるかは、完全には知りえない。これは情報の不足ではなく、文明レイヤーで選別構造そのものが可変であることから来る原理的な不可知である。ある文明の生死にかかわる因果——すなわち頓死が、いつ戻ってくるか。その時期もまた、決定論的には予測できない。
「下げにくさの事後前景化」(空間軸・第20章)、「累積された未来制約の突然の立ち現れ」(時間軸・第21章)、「境界書き換えの隠蔽」(実存軸・第22章)——は、いずれも、この不可知性が文明レイヤーで具体的にとる姿である。回帰が閾値を超えて現前するまで、系の側にはそれを事前に掴む観測可能性が成立しない。同じ機構が、空間・時間・実存の三方向で三度、異なる相貌をとって立ち現れる。
「非線形回収因果の自己診断不可能性」(§22-5)は、この機構を、系が自らのうちで診断しえないという側から呼び直した名にほかならない。外側から「いつ・どこにかは完全には知りえない」と映る不可知性は、内側から見れば「事前には自らを診断しえない」ものとして立ち現れる。同じ一つの構造の、二つの現れである。
確定性と不可知性は、矛盾しない。宇宙論的スケールでの応報の必然と、部分回帰の予測不能とは、同じ一つの構造の、異なる位相での現れである。ここから、本書の中核命題の一つが立つ。
この二重が、第Ⅴ部のバインドが立つ地形を定める。確定性だけがあれば、応報の到来を予期して身構えれば足りる。不可知性だけがあれば、戻りの不在のうちで漂えばよい。だが両者は同時に成り立つ。応報は必ず戻る、しかし、いつ・どこにかは知りえない——この二重のもとで、引き受けの選択は何を意味するか。
変数の範囲をバインドする
ここから先、本書は自らの立場をバインドする。
バインドをせずに語れば視界は広いが、何も具体的には言えない。バインドすれば具体的に言えるが、その代わりに見えなくなる盲点が生じる。この制約を引き受けないかぎり、「我らはどう生きるべきか」を語ることはできない。誰を、いつまでの射程で「我ら」と数えるかを決めて初めて、その内側での構造条件が明らかになる。
百億人の「我ら」へ
空間的な広がりの方向である。本書はこれまで「我ら」を、家族から共同体、民族、人類、地球の一部へと連なる圧縮度の階段として描いてきた。その階段のうち、実存的に厚みを持って体感される「我ら」は、多くの場合ごく狭い範囲にとどまる。第Ⅴ部が選び取るのは、この実存的に厚い「我ら」を、上限規模に達した人類の全体にまで届かせる射程である。その圧倒的な大半は、生涯のうちに顔を合わせることのない人々である。見たことのない相手を「我ら」と数えることは、互いを知り合うことの上には成り立たない。それは一方の側から差し出される関係である。
千年後の「我ら」へ
時間的な奥行きの方向である。千年後に生きる人々は、こちらに応えることができない。彼らはこちらと約束を交わせない。感謝も抗議も返せない。それでも彼らを「我ら」と数えるなら、その関係は完全に一方向である。返礼を当てにできない相手に向けて差し出される関係——第Ⅴ部は、この非対称をそのまま引き受ける。
ここでバインドとして宣言するものは、単なる数値ではない。百億人が千年のあいだ存在しているということだけなら、その多くを「実存的我ら」(E)の外に置いたままの道も考えうる。その道ではない。ホモ・サピエンスの文明が百億人前後——複数の推計が指し示す最大規模——に達したうえで、千年の尺度にわたって持続する、という引き受けの範囲の宣言である。
これは選択であって真理ではない
この選択には、宇宙論的な根拠はない。宇宙は百億人の存続にも消滅にも無関心であり、千年の持続にも一瞬の頓死にも価値の違いを置かない。第Ⅴ部が選び取る変数範囲は、構造記述から導き出されたものではない。構造は、この範囲を選ぶことも、選ばないことも、等しく許す。
したがって本書は、この選択を真理として提示しない。これは第Ⅴ部の引き受けである。別の範囲を選ぶことも、いかなる範囲も選ばずに宇宙論的な中立のうちにとどまることも、等しく成り立つ。本書は、読者にこの選択を強いない。第Ⅴ部の記述は、「百億人の我らと千年後の我ら」——この範囲を共に引き受ける読者に対して意味を帯び、引き受けない読者にとっては、関心の外にある言葉として読まれるだろう。そのどちらの読み方も、本書は妨げない。
本書はこの選択を、隠したまま進めることはしない。どの「我ら」の射程から構造を眺めているかを明示する。それはまず、いま現にここにいる百億人を、「我らはここにいる」と引き受けることから始まる。
第23章 「我ら」を引き受けるとは何か——好奇心と苦悩の同伴
「我ら」はいま、何を手にしているか。
大きな操作能力を持っている。手斧でしか切れなかった大木を、いまは森を残しながら切れる技術を持つ。教育と治療、長寿と協調、計算と通信——いずれも操作能力が届くようになったから、手に入ったものである。操作能力の向上それ自体は文明の出力を生み出してきたものである。第Ⅳ部がその破れを降りていったのも、この達成を達成として認めたうえでのことだった。そしてまさにその操作能力があったから、百億人に辿り着きうる。百億人の命は、いま現に動いているこの操作能力の上にしか乗っていない。安易に手放すことはできない。手放した瞬間に消える命がある。
だが、この操作能力には強い引力も張り付いている。拡張加速相への引力——コスト負担も判断遅延も持たない構造に運動が流れ込み、停まれなくなる、あの引力である。第Ⅳ部全体が「破れるのが自然、停まらないのが自然」として取り出したのは、まさにこの引力の構造記述だった。
§23-1 「我ら」はいま、何を手にしているか——削られてきた地形ごと引き受ける
引力は、これから作動し始めるものではない。すでに長く作動してきた。空間軸の編入、時間軸の前借り、実存軸の内面操作——第Ⅳ部が三つの断面として取り出した単一の運動は、いずれの向きでも、何かを糧として動く運動だった。だから、「我ら」がいま手にしているのは、操作能力と、それに張り付く引力だけではない。その運動が削ってきた後の地形——これも、同じ手の中にある。
何が削られてきたのか。一つの文明が崩れたのち、次の文明が立ち上がるために要るもの——起動条件である。三軸の削りは、四つの層に合流する。物理・知識・意味・時間である。
- 物理の起動条件——森林・農地・地表近くの鉱物・水利系統といった、錨泊FOE の地
- 知識の起動条件——λ₃ の知識ストックが安定統合相にあり、構造的汚染(「知識の重さ」第9章 §9-3)が支配的になっていないこと
- 意味の起動条件——λ₁・λ₂ の連なりが世代を越えて生きた装置として作動し、新しい MANES の生成基盤が痩せていないこと
- 時間の起動条件——双方向の連なり(過去から受け取り未来へ渡す感覚)が反復されていること
四層は、それぞれ独立に痩せるのではない。三軸の作動は、四層を横断して合流する。空間軸のコスト押し出しは物理層と時間層に積もる。時間軸の前借りは時間層と物理層を削る。実存軸の内面操作は、認知を巡るゲームと重心 -O- 滞留の固着として意味層を、即時確定の制度化と社会的 LEFFLA の侵食として知識層を侵す。三軸が極まると、四層すべての起動条件が並走的に痩せていく。
歴史上、ある文明が崩壊しても、次の文明が立ち上がりえたのは、起動条件がなお手つかずに残っていたからである。古代地中海世界の秩序が解体した後、中世ヨーロッパが新しい文明として立ち上がれたのは、森林・農地・地表近くの鉱物といった起動条件が、まだアクセス可能だったからにほかならない。過去の崩壊は、次の文明の起動条件までは破壊しなかった。
「時間的不安定」(第21章)が立った最小の像——翌春のために残された種もみ——が、ここへ戻ってくる。種もみを残せば、次の春が来る。種もみまで食えば、次の春の畑は痩せたまま残る。この地は、「自立の地」(錨泊FOE、第19章 §19-3)の、文明レイヤースケールでの姿である。自立の地とは、文明が係留の層を失っても、個の主体が生きて F に直接接地しているかぎり残る、立て直しの始発点であった。その地は、深掘りと掘り尽くしが浅い層を削るほど痩せ、時間軸では消尽しうる蓄えとして現れる。一つの文明の内側で痩せるその同じ地が、文明レイヤー全体のスケールで痩せていく。立て直しの始発点そのものが、三軸の糧になる。
これに対し、起動条件の消費が一つの地域に閉じず、地球規模に達した相では、異なる事態が立ち現れうる。複数の地域が独立に起動条件を保っているかぎり、一つの地域の崩壊は、別の地域からの再起動を許す。地理的多様性が、文明レイヤーの再起動可能性を支える。だが、起動条件の消費が地球規模に及ぶと、この地理的多様性そのものが縮減する。本書はこの相を特定の時代の固有名で名指さず、構造記述として置く。起動条件の消費が地球規模に達した文明相は、自らの崩壊に対する地理的な再起動経路を、細らせる。
文明レイヤーは、自らが消費したものによって、自らの失敗に対する次の機会を喪失しうる。回避されたコストが増幅されて回帰するという構造の、その極限形である。回帰する先が、特定の主体でも未来世代でもなく、「次の文明」という文明レイヤー全体の再生可能性そのものになる。「残存と継承の違い」(第14章 §14-6)は、ある文明の内側で「大きくなるほど、支えにくい」という命題を立てた。一つの文明が継承を維持できなくなる場合でも、次の文明が立ち上がる可能性が残るかぎり、文明レイヤー全体としての継承は続きうる。だが、起動条件そのものが消尽されると、次の文明という選択肢自体が縮減しうる。一つの文明の内側で立った「大きくなるほど、支えにくい」は、ここで文明レイヤー全体へ移る——「次の文明が、生まれにくい」へ。
操作能力と、それに張り付く引力と、その引力のもとで削られてきた地形——「我ら」はいま、この三つを一度に手にしている。
第Ⅴ部のバインドは、この引力も、そのもとで削られてきた地形も、同時に引き受ける。百億人の「我ら」へ届くとは、巨大な操作能力と表裏一体にある無数の盲点を引き受けることである。千年後の「我ら」へ届くとは、巨大な操作能力が生む引力——拡張加速相の止まれなさ——を抱えながら持続する運動を続けることである。空間軸と時間軸の引き受けは、別々の選択肢ではなく、同じ一つのバインドの二つの方向である。
「操作能力的我ら」(O)は、空間・時間・実存の収束(第22章 §22-5)までに見たとおり、もはや手放せない前提として大きく広がっている。動かせるのは、「実存的我ら」(E)——どこまでを「我ら」として引き受けるか——の範囲である。「操作能力的我ら」(O)に「実存的我ら」(E)が追いつかないとき、その差の領域、すなわち行為は及ぶが引き受けてはいない領域に、コストが落ちる。「我ら」を引き受けるとは、この差をどこまで、誰の負担で埋めるか、という問いである。
そのうえで、ここから問う。この「我ら」を、どう引き受けるか。
引き受け方には、位置がある。同じ操作能力——大きく広がった、行為の及ぶ範囲——を前提としながら、「実存的我ら」(E)をどこまで、どの方向へ伸ばすか、あるいは伸ばさないかで、立場は分かれる。
引き受けは、外から仕事として測れる。だが引き受ける者は、それを内側から負う。まず、この降り方から始める。
§23-2 外から測る、内から負う——「仕事→労働」とそのひろがり
「不等式の動性」(第16章)で、循環耐久相を三つの文明相の一つとして導出した。中核に置く因果類型は遅延回収因果であること。接続可能圏の縁が広がるにつれて「実存的我ら」(E)を追随させ、「操作能力的我ら」(O)を「実存的我ら」の内に収めようとすること。その追随には、共感・教育・儀礼・物語の反復の仕事が要り、それが継続的な負荷を生むこと。競争環境のもとでは、引き受けの仕事を省く拡張加速相に拡大速度で劣り、構造的に不利な位置に置かれること——これらはすべて、担い手を呼ばない、外からの記述であった。
本章から先、本書は、同じ構造を内側から見直す。外から構造の幾何的な図として描いてきたものが、それを負う主観の側で、どう立ち現れるか。これは、部をまたいで射影法が変わる、ということである。第Ⅳ部は、この場を配置の側から切り取ってきた——重心がどのセルに立ち、O・E の広がりとズレがどう開くか。第Ⅴ部は、同じ場を、引き受ける側から切り直す。第Ⅴ部が問うのは、その切り直しのうえに立ち現れる体験の重みである。
像でいえば——地球上の同じ一点を、上空から射影した地図で見るか、その地に立って見るか、である。地図は、どこに何があり、どこまで届いていて、どれだけ隔たっているかを読ませる。ただし、地図のどこにも、立っている者はいない。地に立てば、同じ土地が別の姿で届く——傾きは身体を牽く力として、道のりは一歩ごとの重さとして、見通せない先は輪郭だけの気配として。そして、地図にはなかった一点が生まれる——「ここ」である。どちらかが正しい図なのではない。地図は、立つ者には見えない配置の全体を読ませ、地は、地図に載らないものを返す。同じ対象への、畳む軸を替えた二つの射影である。
第Ⅴ部の記述は、この視点の転回のうえで進む。本節は、その転回そのものと、それが定める見え方を、最初に据える。
仕事と労働——転回の原型
仕事とは、何が・どれだけなされるか、である。力学が、力のなす仕事から主体を剥ぎ取って量として測ったように、第Ⅳ部の記述は、引き受けを構造の面積として幾何的に表してきた。だが、引き受けは、誰かが負わなければ一歩も進まない。前世代から受け取った「我ら」を内側で引き直し、新たに含めるべき相手を認知し、応答すべき者として位置づけ直す。この反復は、装置が自動で行うものではない。一人ひとりの内側でしか起きない。外から仕事と呼んだものは、内側では、その遂行の重さ——労働——として体験される。「『我ら』の境界と因果の創発」(第15章)が「枠を定めて辻褄を合わせる」と定義した引受を、ここでは内側から——それを負う者の労働として——見直す。
仕事から労働へ。これが転回の原型である。だが転回は、この一語にとどまらない。外から構造として記したものは、内側から見るたびに、それぞれの体験の姿をとる。その見え方を定めるものが、二つある。
三つの軸は、違う手触りで届く
第一に、何が前景に立つかは軸によって違う。内側から見るとき、現実の流動(F)・「操作能力的我ら」(O)・「実存的我ら」(E)の三つは、同じ重さでは届かない。
「実存的我ら」(E)は、自分の遂行として届く——労働である。負うのはほかならぬこの「私」であり、もがきも重さも内側からじかに体験される。「操作能力的我ら」(O)は、自分を牽く力として届く——引力である。O は安く自走し(第11章)、内側からはしばしば、こちらが動かすものではなく、こちらを引いて止まれなくさせるものとして感じられる。現実の流動(F)は、輪郭だけが届く——流動である。F は固有の原理で動いており、その動き自体は見えず、表面の流れだけが映る。
三つを分けるのは、その軸を動かしている当のものが、主観にどれだけ現前しているかである。E では当のものは「私」自身、O では「我ら」のものでありながら追い越していくもの、F では完全に隠れたもの。労働・引力・流動という手触りの差は、この現前の勾配から来る。以降の各節が扱う体験は、いずれもこの三つの手触りを、向かう先に応じて混ぜた色として立ち上がる。
手を伸ばせば、隣にも触れる
第二に、向かう先は選り分けられない。「実存的我ら」(E)を外へ伸ばすとき、伸ばす手は、向かう先のセルを、触れる前には見分けられない(命題 FOE-8「引受の外の不可知」、第16章 §16-6)。だから一つの領域へ向かう手は、狙っていない異質な隣へも、同時に触れる。触れた瞬間、別々の手触りが混じる。
この混じりは、異質を均すのではない。異質を、名の下へ沈める。別々には名指せないまま、一つの——しかし単純ではない——塊として体感される。残るのは、解像されない複雑さ、言葉にしがたさである。そして、狙った先と、触れてしまった先とのあいだのギャップが、慄きや、挫折として返ってくる。
混じりには、深さがある。手を伸ばすほど混じるものは増え、登るにつれて、体感の質そのものが変わっていく。本節は、異質な二つが見分けがつかずに混じる第一段を見込むにとどめ、より深い段は、以降の各節と、本書の閉じ(第27章)へ渡す。
§23-3 なぜ「引き受け」が問いになるのか——小さな「我ら」と大きな「我ら」
慣性で引受が閉じる系、引受に労働が要る系
「我ら」を引き受けることが、大変な労働として、そのようなことが果たしてできるのか、という問いとして立ち上がるのは、ある条件にバインドしているからである。
人口規模が小さく、操作能力の射程が局所にとどまる系——氏族、村落、修道院、地縁の信仰共同体——では、「我ら」の範囲は、伝統・儀礼・血縁・地縁の慣性によって、ほぼ自然に閉じる。操作する範囲と引き受ける範囲が、おおむね重なっている。誰を「我ら」と数えるかは、生まれたときにすでに与えられており、引き直す労働をほとんど要さない。ここでは、「引き受けるとは何か」は問いにならない。引き受けは、問われる前に、慣性が済ませている。本書では、これを錨泊(第19章 §19-3)と呼んだ。
だが、操作能力が巨大化し、行為の及ぶ範囲が地球規模に達すると、この慣性が効かなくなる。操作する範囲は、もはや顔を合わせる「我ら」を遥かに超える。慣性は、見たことのない百億人を「我ら」として閉じることができない。閉じるには、構成員一人ひとりの、自覚的な引き受け——慣性が代行しない労働——が要る。小さな系では、それがなくても成立できた自覚的引き受けが、大きな系では、他の条件が成り立つための前提条件へと格上げされる。
回帰という経路
ここで、一つの経路が浮かぶ。小さな系へ戻る、という経路である。
この経路が浮かぶことには、構造的な根拠がある。小さな系では引き受けが軽かった——この観察そのものは、記述として正しい。「我ら」の範囲が生まれとともに与えられているとき、範囲の画定に労働は要らない。応答は顔の見える範囲で完結し、返りも同じ範囲から戻る。引き受けの費用が慣性によって賄われている系では、引き受けは労働として計上されない。大きな系で労働となったものが、そこでは費用なしで済んでいた。小さな系への郷愁は、この費用差を正確に指している。
だから、問いは、その是非ではない。回帰という経路が、構造として何を要求するか、である。
慣性は、選び直せない
小さな系の閉じは、慣性の産物であって、選択の産物ではなかった。伝統・儀礼・血縁・地縁は、選ばれたから閉じていたのではない。外がないから、閉じていた。
選択の産物でなかったものは、選択によって復元できない。ここに非対称がある。慣性で閉じていたものを意志で閉じ直せば、それはもう慣性ではない。閉じは、維持を要するもの——労働——に変わる。その労働は、引き受けの労働と向きが逆である。広げるためではなく、広がらないために払われる。
そして、閉じ直す者は、すでに外を知っている。見たことのない百億人の存在も、自らの行為の帰結がそこへ届くことも、知ったうえで閉じることになる。知ったうえで閉じつづけるには、参照しないこと——参照の圏を狭く保ちつづけること——が要る。慣性が済ませていたものを、遮蔽が代行する。
二つの着地——規模を縮めるか、勘定から外すか
こう見ると、回帰の経路は二つにしか着地しない。
第一は、操作能力の射程ごと、慣性の届く規模まで縮める道である。この道は整合的であり、本書はこれを排除しない。「不等式の動性」(第16章)が、操作能力ごと縮めて満たす道として置いたものである。ただし、勘定は明示される。現在の人口規模は、いま現に動いている操作能力の上にのみ成立している(§23-1)。射程を縮めるとは、支えうる規模を縮めることである。縮小の幅と、その幅に誰が入るかを定めることなしに、この道は完結しない。
第二は、操作能力の射程はそのままに、「我ら」の範囲だけを縮める道である。行為は地球規模に届きつづけ、引き受ける範囲だけが顔の見える規模へ戻る。外形上、これは費用を払わない道に見える。実際には、行為は及ぶが引き受けてはいない領域——コストが落ちる先——を、意図して開いたまま固定する道である。費用は消えず、勘定の外へ移る。
郷愁が指していたのは、このどちらでもない。慣性が費用を賄っていた状態——払わずに閉じている状態——である。だがその状態を支えていたのは、外がないことだった。外を知ったあとに、この条件は復元できない。残るのは、規模を縮めて払うか、勘定の外へ移すか、の二つである。
本書は、どちらも断罪しない。ただ、第Ⅴ部のバインド——百億人の「我ら」へ、千年後の「我ら」へ——を共に引き受ける読者にとって、二つの経路は閉じている。第一は百億人の規模と、第二は届く先を勘定に入れることと、それぞれ両立しないからである。バインドを引き受けない読者にとっては、どちらも開いたままである。
問いは、規模とともに立つ
本章がこれから扱う引き受けの段階と立場の分岐、そしてそこに生じる苦悩は、すべて大きな「我ら」を支える環境に固有である。小さな系には、操作が届かないがゆえに手を伸ばす苦悩もなく、慣性が閉じるがゆえに引き受け方の分岐もない。「我ら」を支える規模が巨大になって初めて、引き受けは労働となり、問いとなり、複数の位置へ分岐する。この支えの規模——ある MANES が暗黙に前提する「我ら」を支える容積——を、本書はすでに一度、構造の側から見ている。「どの規模まで、保てるか」(第19章 §19-4)が、現在支えている規模と将来維持できる規模の引き離しとして取り出したのが、それである。両者の差は量的な連続ではなく、構造条件の質的な段差であり、支えうる規模そのものが、引受の不等式を成立させる困難さの乗数として働く。本章は、この困難が主観的にどう体験されるかを描く。
§23-4 見ることの段階——被覆の二方向と、好奇心と苦悩の同伴
伸ばした手は、四つの先へ向かう
「実存的我ら」(E)を広げるとは、何を「我ら」として引き受けるかを、外へ伸ばすことである。引き受けだけを伸ばした手——まだ生の理解も操作も伴わない手——が、どこへ向かい、何を手元へ繰り入れるか。
「実存的我ら」(E)が向かう先は、FOEモデル(「不等式の動性」第16章)の八セルの幾何では四つとなる。実存が先行したセル(--E)から、生の理解(F)がつながれば F-E、操作(O)がつながれば -OE、両方そろえば FOE、どちらもつかめず外側に向かえば ---。--E の伸びは、この四つのいずれかに向かう。
同じ幾何は、流動だけの側(F--)にも、操作だけの側(-O-)にも立つ。だが本章は --E の四つの方向だけを辿る。なぜならば、F と O と E のうち、内側から主観的な質感を伴うものは E だけだからである(§23-2)。F は文明にとって外側にある別の系の運動である。O は報酬関数に駆動されるものであり、その動きは労働としては体験されない。人間の主観的な質感は、E の運動にしか宿らない。
被覆が分けるのは、やりがいと苦悩ではない
一つの方向は、まだ何としても分節されていないものへ向かう。手元の前景から、流動する後景、未分節の領域へと、手を伸ばすほど遠くなる。この方向の途中までは、手を伸ばせば、届いたものを参照可能なものへと繰り入れることができる——見えるようになる。被覆が効く。さらに先、当該系が価値の軸として採っていないがゆえに本来見えないもの——LOT——から、接続可能性そのものが断たれる縁までは、手を伸ばしても見えるようにはならない。被覆は効かない。
ここに一つの境がある。この境が分けるのは、被覆できるものと、被覆できないものである——やりがいと苦悩を分けるのではない。なぜそう言い直すのか。被覆が効く側にも、苦悩があるからである。
被覆が効く側は、一様ではない。同じ「見えるようになる」運動が、向かう先によって、まるで違う相貌を持つ。未分節へ向かう手が、まだ生の理解として摑まれていなかったものを摑む——それは好奇心である。高揚感と意欲が伴い、新しい発見の興奮がやりがいとして報われる。だが手は、もう一つの方向へも伸びる。操作の手はとうに及んでいたのに引き受けられず、生の理解を剥がれたまま系内に積もっていたもの——そこへ手が届き、それが見えるようになるとき、伴うのは喜びではない。見たくなかったものを見る苦痛、衝撃、拒絶——業罪の直視である。
好奇心も業罪も、ともに被覆が効く。ともに見えるようになる。分かれるのは、見えたものが喜びか痛みか——伸ばした手が、どちらの方向へ届いたかによる。
ここで、混じりの規律が、最初の段として働く。伸ばす手は、向かう先を選り分けられない。好奇心の方向と業罪の方向とを、手を伸ばす前に仕分ける分解能を、そもそも持たない。だから、好奇心だけを摑んで、業罪を残してくることはできない。見えるようになる喜びへ手を伸ばすその同じ運動が、見たくなかったものをも、同時に手元へ手繰り寄せる。やりがいと苦痛は、選んで分けられるものではない。同じ一つの手の伸びの、表裏である——異質な二つが見分けがつかずに混じる、階段の第一段である。
明るい側——好奇心の労働
同伴が孕む二方向のうち、まず明るい側——好奇心の労働——を立てておく。
何を報酬とするかが、挫折を生む
そして、この同伴を何の報酬関数で測るかが、手応えを変える。発見そのものを報酬とする関数のもとでは、好奇心が生の理解に届くこと自体が報われる。だが、報酬を操作可能性の側に置く関数——操作の論理での報酬関数——は、見返り(O)を当てにして手を伸ばす。ところが同じ一つの伸びが引き当てるのは、まだ操作に変わっていない生の理解(労働)と、操作はとうに及んでいたのに引き受けられず積もっていた業罪(純然たるコスト)である。見返りを見込んで伸ばした手が、労働とコストばかりを引き寄せる。操作の論理の報酬関数は、この伸びを丸ごと損として記帳する。挫折は、好奇心が浅かったからではない。報酬を操作の側だけに置いたために、同伴が損として現れるのである。これは、「未来への希望」(第11章)の非対称が、一個人の手応えの尺度に現れた姿である。その非対称とは、操作を強める作動は安く自走し、実存を支える作動は律速で高くつくことであった。操作の論理の報酬関数が支配的になるほど、深く出る。
被覆が効かない側——境の先——には、また別の相がある。手を伸ばしても変換できないものへ、なお接近の張りを保ちつづける——本書が対称性志向と呼んできた構えである。そのとき、撤退すれば無力と虚無が、踏みとどまれば Ω の縁の畏れが生じる。この二つは、好奇心とも業罪とも異なる、より深い苦悩である。だがそれは、「我ら」を縁まで伸ばす者——本章がこれから据える位置——に固有のものであり、その本格的な引き受けは第Ⅴ部の後半に俟つ。本節は、被覆が効く側の二方向と、その選り分け得なさ——好奇心と苦悩の同伴——を据えるにとどめる。
§23-5 四つの立場——どこに錨を下ろすか
ここから並べる四つの立場は、普遍的な人類の類型ではない。操作能力が巨大化し慣性が「我ら」を閉じなくなった環境で初めて分岐する、四つの位置である。百億・千年の「我ら」を支えるには係留FOE に乗るほかない環境である。そして四つを分けるのは、ただ一つ——好奇心と苦悩の同伴(命題 FOE-19、§23-4)に、どう応じるかである。手を伸ばせば苦悩がついてくる。この逃れられない同伴を、引き受けるか、いかに避けるか。四つの立場は、その四つの応じ方にほかならない。
同じ四つは、引受の不等式の側から見ても四つに分かれる——O ≤ E を破らせて操作だけを外へ拡げる位置、O を縮めて E に合わせ直す位置、O ≤ E を保とうとして揺れる位置、そして O ≤ E を成立側に保つ労働そのものに立つ位置。同伴への応じ方は、そのまま不等式への応じ方である。
一つの比喩を置く。引き受けの手を伸ばすとは、Ω という荒海へ漕ぎ出すことである。錨——重心、すなわち座標系・報酬関数・共存条件(ES)の凝集相——を、どこに、どう下ろすか。それが立場を分かつ。
ホモ・デウス——伸ばさず、操作だけを広げる
ホモ・デウスは、「実存的我ら」(E)を伸ばさない。居心地のよい前景——すでに見え、すでに引き受けた範囲——に「我ら」を閉じ、そのかわり「操作能力的我ら」(O)だけを外へ広げつづける。手を伸ばさなければ、苦悩はついてこない。同伴は、伸ばさないことで回避される。そしてこの前景は、しばしば、かつて伸ばした手が現に報われた成果である。見えるようになり、操作可能になったものたちの、確かな蓄積である。だが操作は引き受けの外で膨らみ、引き受けられなかった差——行為は及ぶが引き受けてはいない領域——が、作動圏の内に盲点として広がる。被覆条件は満たされない。錨を下ろさぬまま外海を航りつづける船が、見えぬ岩礁の海域を進むように、この立場は、盲点を現実が衝く一点に晒されつづける。頓死の側である。この位置に立つのに、特別な悪意は要らない。見えないものは、見ようとする労働なしには見えない。見えないものが見えないことは、圧縮から創発したこの世界そのものの基底構造である。だから、手を伸ばさなければ、人はこの位置に無邪気に落ちる。(脱構築を通過してなお、見えると承知のうえでこの位置を選ぶ純化形もある。それは『どこまでが「我ら」か』(第24章)で、立場の底として改めて扱う。)
ホモ・コンテントゥス——退いて、内海に錨を下ろす
ホモ・コンテントゥスは、伸ばすことそのものをやめ、退く。荒海に苦悩があるなら、漕ぎ出さなければよい。係留FOE を畳み、直接接続が届く範囲——錨泊FOE——まで「実存的我ら」(E)を縮め、己の内海に錨を下ろす。「我らは足るを知る者である」——過剰な伸長を拒むことを、誇りとする。この立場には、理がある。退くとは、F から離れることではない。「我ら」を、自分の手が現に F に届く範囲へ合わせ直すことであり、F 接地そのものは、この位置でも確かに保たれる。ホモ・デウスの果てなき膨張がたどる頓死リスクを、彼は免れる。手を伸ばさぬのだから、苦悩も負わない。だが安定は、退避の代償の上にある。内海は、Ω の動きから断たれている。地形は、退いた者のためには止まらない。波に裂かれはしないが、外海から水が流れ込まないまま地形が動けば、それを掴み直す回路はすでに畳まれており、F 接地は「我ら」の内に保たれなくなっていく。守られた水域はやがて干上がる。乖離である。この外れ方の構造は、『どこまでが「我ら」か』(第24章)で見る。守ることが、干上がることに転じうる。
ホモ・キュリオセス——前縁へ、だが揺れる
ホモ・キュリオセスは、伸ばす。だが、好奇心の方向——見えるようになる前縁——へだけ伸ばそうとする。未知へ踏み出す労働を駆動するのは、好奇心である。「実存的我ら」(E)を伸ばした手が、まだ生の理解も操作も伴わない段(--E)から、探索によって生の理解を摑む段(F-E)へ——この前進を内側から駆動するのが、好奇心にほかならない。
巨大な操作能力を引き受けて、なお手を伸ばす点で、彼は本書と同じ方向を向いている。最も近い同伴者である。だが、前節の同伴が彼を捉える。好奇心だけを摑もうとしても、同じ手が業罪を、その先の虚無を、ついでに手繰り寄せてしまう。見たくなかったものが見え、彼は慄く。ここで彼は、不安定な位置に立たされる。慄いて手を引けば、挫折。承知で突き進めば、消耗。そして、二つの引力が彼を待つ。一つは、好奇心が報われた成功体験——見えるようになり、やがて操作可能になる達成——の手応えである。この手応えに引かれると、彼は「もう十分広げた、この我らで良い」と「実存的我ら」(E)を閉じ、操作だけを伸ばす位置——ホモ・デウス——へ滑る。明るい弧の成功体験は、手を閉じる方へ引く。もう一つの引力は逆を向く。慄きを越え、業罪を引き受けきると、それは責任・使命へと転じる。暗い弧の引受は、手を開く方へ抜ける。突き抜けた先で、彼はもうホモ・キュリオセスではない。
ホモ・マネス——荒海に錨を据え、手を閉じない
ホモ・マネスは、好奇心と苦悩の同伴を、避けずに引き受ける。方向を問わず「実存的我ら」(E)を伸ばし、見えるようになる好奇心も、見たくなかった業罪も、変換できない虚無も、縁の畏れも、等しく向き合う。だがそれは、錨を失うことではない。マネスは、重心を MANES の凝集相に固定したまま、「実存的我ら」の輪郭だけを縁まで伸ばす。錨が動かないからこそ、手がどこへ届いても崩れない。錨を失えば、重心は手の伸びを追って虚無へ落ち、人格は崩壊する。ホモ・マネスとは、荒海のただ中に錨を下ろし、波に揉まれながら、なお手を閉じずに耐える位置である。報われない労働を負い、苦悩を負ってなお、手を閉じない。マネスが立つのは係留FOE のうえであり、それを地に保つ係留の仕事を引き受けるのが、この位置である。本書が第Ⅴ部で引き受けるのは、この位置である。
ただし、錨を固く据えることは、下ろした座標系の妥当性を保証しない。揺らがずに凝集していることと、その座標系が妥当であることとは、別々の問いである。本書がこの位置を引き受けるのは、その座標系が真理だからではなく、錨を据えなければ手の伸びが重心を虚無へ引き、係留の仕事そのものが成り立たないからである。何を錨とするかは、なお開かれている。そして、この位置が他の三つに優越する宇宙論的な根拠は、ない。あるのは、部の冒頭で宣言したバインドとの整合だけである。
四つは、別の人類像ではない。同じ巨大な操作能力を前提に、好奇心と苦悩の同伴へどう応じるかが違うだけである。ホモ・デウスは伸ばさぬことで、ホモ・コンテントゥスは退くことで、同伴を避ける。ホモ・キュリオセスは避けようとして避けきれず、二つの引力のあいだで揺れる。ホモ・マネスだけが、避けずに引き受ける。本章の副題「好奇心と苦悩の同伴」が指すのは、この逃れられない同伴と、それを引き受ける位置のことである。
四つの着地——成長と虚無
四つの立場が向き合う着地には、被覆の二方向(好奇心・苦悩)のほかに、両方向が揃って届いた着地と、どちらも届かなかった着地がある。前者が成長、後者が虚無である。明・暗の二方向とあわせ、--E の四着地を対称に立てておく。
その対極に、もう一つの着地がある。
§23-6 苦悩はどこから来るか——先見と後知
ホモ・マネスの苦悩は、どこから来るのか。前節では、それを、変換できないと承知でなお手を伸ばしつづける、報われない労働として見た。だが同じ苦悩は、引き受けの側からも記述できる。そして引き受けの側から見ると、苦悩は、知っていることからではなく、引き受けていることから来ることが見えてくる。
知ることと、引き受けること
何を前もって見通せるかは、知っているかどうかだけでは決まらない。当該系の知力が、ある事柄に及んでいても、それが「実存的我ら」(E)の内に入っていなければ、その喪失を前もって見通すことはできない。知ることと、引き受けることは、別である。
殺した敵兵の胸ポケットに、家族の写真がある。それを見た瞬間に、いままで「それら」であった者が、「我ら」に変わる。知力は、その者にずっと及んでいた。敵もまた人間で、家族があり、帰りを待つ者がいる——それは、知ってはいた。だが、「実存的我ら」の内には、いなかった。知ってはいたが、引き受けてはいなかった。だから、その喪失を前もっては見通せず、失ってから知る。後から、「我ら」を失ったと知る。
前もって見通せる範囲——先見できる範囲——は、知力が及び、かつ「実存的我ら」(E)の内にある、その重なりにしかない。知力をいくら深めても、引き受けていなければ、先見はできない。失ってから知るほかない。
引き受けるほど、見通す喪失は増える
ここから、苦悩の正体が見える。「実存的我ら」(E)を広げるとは、前もって見通せる範囲を広げることであり、それは、前もって負う苦悩を広げることにほかならない。引き受けた相手の喪失を、起こる前から見通してしまう。引き受ければ引き受けるほど、見通す喪失は増える。百億人を「我ら」として引き受けるとは、百億人を失いうるという見通しを、起こる前から負うことである。これが、係留FOE のうえで百億・千年を引き受ける環境でホモ・マネスが苦悩を避けがたい理由である。
この先見と後知の差は、一人ひとりの内にとどまらない。文明の規模でも現れる。同じ「それでも」と手を伸ばしつづける文明のなかにも、見える範囲が浅く、破局に撃たれてから喪失の痛みを覚える系と、知力が深まって破局の巨大さに気づき、撃たれる前から全容を見て負う系とがある。両者を分かつのは、戦略の選択ではない。見えている範囲——知力と「実存的我ら」(E)の重なり——の差である。そして、深く見た系ほど、前もって全容を負うぶん、苦悩は重い。
喪失を見てしまえば、引き返せない
しかも、深く見てしまうことには、引き返せなさがある。一度見えてしまったものを、見なかったことにはできない。撃ってから知る後知の苦悩には、もう戻れない。自分が撃った敵兵を「我ら」のひとりとして喪失してから知る苦悩が後知の苦悩であるとするならば、自分が対峙する者に限らないあらゆる敵兵、あるいは友軍の兵の死を、いずれも起こりえる喪失として抱えることが先見の苦悩である。「実存的不安定」(第22章)で、操作能力を高めた文明が「もう戻れない」——退却の扉は閉じている——と記したのは、成果の不可逆だった。見ることにも、同じ不可逆がある。全容を見てしまった文明に残されているのは、先見の重い苦悩を負いつづけるか、それとも見るのをやめて身を引くか——その二つだけである。
この苦悩から逃れる道は、ある。引き受けの手を閉じればよい。前もって見通すのが苦しいなら、見通せる範囲——知力ではなく、引き受けの範囲——を狭めればよい。失ってから知るほうが、起こる前から負うよりは軽い。だが手を閉じた瞬間、それはもう循環耐久相ではない。循環耐久相とは、苦悩を負わずに済む位置ではなく、先見の苦悩を負ってなお、「それでも」と手を閉じない位置である。
§23-7 二重に払う——引き受けの労働と流れ込むコスト
ホモ・マネスが負うのは、先見の苦悩だけではない。「不等式の動性」(第16章)は、循環耐久相が競争環境のもとで負うコストが二重になることを、外から記した。同じ二重を、内側から見る。
自業自得と他業自得
第一は、自らの引き受けに伴うコストである。本来見えないものへ手を伸ばし、変換できないと承知で接近の張りを保つ——報われない労働。これは、自らが「我ら」を広げようとすることから生じる。自業自得のコストである。
この報われなさは、気分の記述ではない。SFOK参照系が参照の主経路となるまで深く掘られた文明では、報酬関数が現に観測できる応答は参照系の側で速く軽く立ち、F の応答は連鎖を遡って遅く重く届く(「参照されるから、存在する」第18章 §18-3)。報酬の勾配は、参照されるものの側で立つ。引き受けの手は、その勾配に逆らって、参照されていないものの側へ——LOT の側へ——伸ばされる。捕獲——報酬の終端が参照系へ移る引き込み——が勾配を下る作動だとすれば、対称性志向の労働は、ただ独りで勾配を登る仕事である。報われない労働の「報われない」は、構造の記述である——報酬の立つ向きが、逆なのである。
第二は、自らの引き受けからではなく、引き受けを省いた他者から流れ込むコストである。盲点を残し、引き受けられなかった差を外へ送り出した者が吐き出したものは、消えはしない。同じ現実の地形を共有する以上、それは、なお手を伸ばしつづけている者の領域へ流れ込む。ホモ・マネスは、自らの引き受けの拡張に伴うコストだけでなく、引き受けを省いた他者が送り出したコストをも、自らの遅延回収因果として引き受けることになる。他業自得のコストである。これが業罪の直視にほかならない。操作は及んでいたのに引き受けられず、生の理解を剥がれたまま積もったものへ、それがどこに起因しているかに関わらず、「実存的我ら」(E)を伸ばして引き受け直す労働である。
先見したものを見せることが、攻撃を呼びこむ
この他業自得には、物理的に流れ込むものだけでなく、もう一つが含まれる。見えないものを見せようとする労働は、しばしば、攻撃を引き寄せる。狭い範囲しか引き受けていない者にとって、その範囲の外にあるものを見せようとする者は、ありもしないものを語る者——虚言を弄する者——として現れる。見えないものは、見ようとする労働なしには現れない。だから、引き受けていない者の側からは、見せ手の差し出すものが、本当に捏造として映る。その帰属は、その狭い範囲の内側からは、誠実ですらある。こうして、ホモ・マネスは、手を伸ばして見たものを差し出すことそのものによって、攻撃を呼び込む。
この対立は、正しい主張が信じられない、という形をしていない。より深い。ホモ・マネスが差し出すものは、支配的な射影法——多くの場合、拡張加速相のそれ——にとっての LOT、すなわち「操作能力的我ら」(O)の参照が届いていない側のセルから来る。だから、その枠の内側では復号されない——ここまでは、構造として確定している。だが、差し出している手が、そのどのセルに立っているかは、別の問いである。現に F に触れた F-E——O が見落としている F の報せであり、F が動くとき、その動きが「我ら」に届く数少ない経路——なのか。それとも、F に届かないまま実存だけが立った --E——見せ手自身の枠が生んだ像であり、F の動きを何も運ばないもの——なのか。支配的な枠から見れば、どちらも等しく復号できず、等しく捏造として映る——攻撃は、二つを区別せずに落ちる。しかも、この区別は、差し出した日に固定されてもいない。F は自らの軸で動く——E の側の何の作動もなしに、--E の手の下へ F が流れ込み、像が報せに変わることがある。逆に、触れていた F が去り、報せが像に変わることもある。そして、そこに積もったものが、どの枠の内で回収される因果か——遅延して返るのか、回収の断絶へ落ちて誰にも返らないのか——も、差し出す時点では確定していない。応報は必ず戻る。しかし、いつ・どこにかは知りえない——この部の冒頭で立てた、回帰の不可知性である。この不可知性は、攻撃する側にだけ働くのではない。見せ手自身にも、同じ深さで働く。マネスは、正しいと確定した主張を退けられているのではない。正しいかどうかが、争いの立つ枠の内側では確定しない主張を、確定しないと知りながら、差し出しているのである。
これは、F に直接触れることの宿命である。手が F に触れているという事実は、触れた手の差し出す主張の正しさを保証しない。錨の固さが、下ろした座標系の妥当性を保証しない(§23-5)のと同じ非対称が、ここにも立つ。労働の深さは、主張の確からしさの証しにならない。見せ手の主張を証しうるのは、回帰の到来だけである。その証しさえ、届いたときの重なりを証すのであって、差し出した日の手を証すのではない。そしてその到来は、争いが立っている枠の外——別の世代、別の場所——にしか届かないかもしれない。ホモ・マネスは、自らの正しさの確定を、自らが立つ枠の内側では受け取れないまま、差し出しつづけることになる。
ここで、二つのコストは独立ではない。第一の労働——手を伸ばして見ること——を払い、それを差し出すからこそ、第二のコスト——攻撃——を引き寄せる。同じ一つの行為に対して、ホモ・マネスは二重に払う。見る労働と、見せたことへの反発と。しかも、この支払いには、正しさの担保が付かない。
この重さは、構造から来る
ゆえに、ホモ・マネスはコストが重い。引き受けを省く位置と競争環境で並走すれば、拡大の速度で劣り、負担で勝る。これは、能力の差でも、戦略の優劣でもない。引き受けの範囲の差から、帰結する。本書は、この不利を、不当として描かない。誰が本物の見せ手で、誰が虚言の弄し手かを、本書は裁定できない。本書もまた、ある範囲の内側で書かれており、その外を超越的な視点から見通せはしないからである。加えて、裁定の基準となる回帰の到来そのものが、争いの枠の内側には、まだ届いていない。描けるのは、機構だけである。狭い引き受けの範囲が、見る労働を避けるために、見せ手の差し出すものを悪意や捏造、虚言というラベルに帰属させる。LOT は見えないのだから、見せ手が差し出すものを LOT として選別の外に外している者たちにとって、その範囲の内側からは、見せられたものを拒絶することに偽りはなく、誠実である。ホモ・マネスは、このような機構の宛先として、攻撃を負う。
応答の名の手前で
本章は、循環耐久相を引き受けるとはどういうことかを、内側から降りてきた。手の中の棚卸し——操作能力と、それに張り付く引力と、削られてきた地形——から始め、それごと引き受けるバインドを、負う者の手元に降ろしてきた。外から仕事として測られてきたものは、内側では労働として立つ。慣性が「我ら」を閉じてくれない規模では、その労働そのものが問いになり、小さな系への回帰は、価格の付いた二つの着地しか持たない。伸ばした手は、向かう先を選り分けられない。見えるようになる喜びと、見たくなかったものの直視とが、同じ一つの伸びについてくる。その同伴への応じ方が、デウス・コンテントゥス・キュリオセス・マネスという四つの立場を分けた。苦悩は、知ることからではなく、引き受けることから来る。引き受けるほど、起こる前から見通してしまう喪失は増える。そして引き受けは、二重に払わせる——自らの労働と、引き受けを省いた者から流れ込むコストと。その支払いに、正しさの担保は付かない。
本章は、この重さの底で閉じる。同伴を避けずに引き受ける位置とは、先見の苦悩を負い、担保のないまま二重に払い、なお手を閉じない位置である。四つの立場のうちその位置に、本章はホモ・マネスという名を与えた。だがそれは、四つの応じ方を並べ、そのなかの一つを外から指した名である。名にも、外と内がある。外から指す立場の名は、すでに置かれた。その位置に現に立つ者が内側から発する応答の名は、まだ置かれていない。本章は、それを置かない。名が立つには、足場が先に要る。この引き受けが、係留FOE のうえで実際にどこまで成り立ちうるのか。それを保つ条件は何であり、その足場はどちらへ、どのように外れうるのか。その範囲をどう定め、拡張加速相からそこへ移れるのか。そして——脱構築を通過してなお、見えると承知のうえでこの引き受けを拒む最強の対峙相手に、どう向き合うのか。これらの問いは、本章の手には余る。『どこまでが「我ら」か』(第24章)が引き受ける——名は、その終わりで置かれる。