第10章 社会的既知感への信認——SFOKと権威の固着
相対性理論は正しい、と私たちは信じている。だが、それを自分で導いてみせられる人は、ほとんどいない。血が体を巡る仕組みも、法が定める権利も、貨幣がなぜ価値を持つのかも、多くは「そういうことになっている」と受け取っているだけである。
ただ、この信じ方には、覚えのある手触りがある。子どもの頃、三角形の内角を切り取って、一直線に並べてみた。やってみせられ、自分でもやってみて、わかった。「そうか、三角形の内角の和は180度なんだ」と。順を追って説明されて、たしかに自分の頭でわかったことがある。算数の「ずけい」から数学になって、幾何学になって、段々と複雑な証明や定理や公式を学ぶようになった。天才的な数学者や地道な研究者が取り組んできた成果だ。自分には同じようには理解できないほど難解だが、誰かが、一段ずつ確かめて積み上げたはずのものだ——そう感じられる。あの三角形の内角の和のことを「わかった」と感じた経験があるから、自分では完全に理解できないようなことも、きっと誰かが考え抜いて見つけてきた発見だと思える。あの経験が、そんな感覚をどこかで支えている。
その信の上で、社会は回っている。会ったこともない専門家を信じ、読んだこともない条文に従い、現物を確かめられない統計をもとに決定を下す。めいめいが中身を持たないまま、巨大な知識が「我ら」のものとして回っている。だが、支えるものが痩せ細っても、看板だけは残ることがある。
知っているはずの誰かがいなくなったとき、私たちは、それに気づけるのか。
§10-1 Feeling of Knowing の個人的基盤
信じることのラベル化
「知識の重さ」(第9章)は、信じられたことが固定化された記録として沈殿していく過去側を取り出した。粘土板から論文データベースまで、人間文明は信じたことを外部の媒体に厚く沈殿させてきた。だが、沈殿した知識ストックを「我ら」の知識として運用するためには、もう一つの条件が要る。いまそれを参照していなくても、それがそこにあるという感覚が、共同体的に共有されていることである。
「神話的MANES」(第8章)が、信じることが世代を貫いて手渡される機構として連なりの中の信を取り出したのに対し、本章は、信じることが同時代の多数の主体のあいだで共有される機構を取り出す。多数の主体が、参照していない内容を「我ら」のものとして共有するためには、信じることが個別の検証から離れて、軽量な参照ラベルとして圧縮されていなければならない。本章が扱うのは、この圧縮——信じることのラベル化——である。
想起できなくても保持される既知感
「ホモ・デウスとホモ・マネス」(第7章)で論じたとおり、人間の主観帯域は制約されている。この制約のもとでは、知っていることの大部分は、いま現に意識に上っているのではない。それは外部知識ストックに格納され、必要に応じて呼び出される対象として保持されている。問題はここから生じる。いま参照していない大量の知識を、なぜ自分のものとして扱えるのか。
この問いに対する古典的概念が、認知心理学の Feeling of Knowing(FoK)である。1965 年に心理学者ジョセフ・T・ハートが定式化したこの概念は、ある内容をいま実際に想起できなくても、「それを自分は知っているはずだ」と感じる既知感を指す。固有名詞が舌先まで出ているのに想起できない経験——いわゆる舌先現象——では、対象は想起されないが、それが自分の知識ストックの中にあるという感覚は鮮明に保持されている。FoK は、想起という能動的アクセスとは独立に作動する索引的既知感である。
FoK の構造的役割は、帯域制限のもとで知識を運用するために本質的である。もし主体が、いま想起していないものについて「そもそもそれを知っているかどうか」をその都度判断しなければならないなら、判断のコストが帯域を圧迫する。FoK は、想起の手前で「ある/ない」の判断を圧縮された徴候として供給する。この徴候があれば、主体は対象の存在を信頼して別の処理に進むことができる。徴候がなければ、その対象は探索の対象から外れる。
LEFFLA における参照モードとしての FoK
LEFFLA に位置する構造の参照モードを精密に記述するためには、FoK 概念が重要である。LEFFLA とは、参照されており、なお再編の余地を残している有効領域であった(「LEFFLAとLOT」第3章 §3-2)。ここで問題になるのは、その領域のうち、いま前景化されていない部分である。前景化されていない構造を「なお保持されている」と扱うために必要なのが、まさに FoK 的な索引的既知感である。
FoK が作動している間、対象は LEFFLA にある。対象は前景に出ていないが、必要になればアクセスできるという感覚が成立している。FoK が失われた瞬間、対象は LOT に落ちる。「そんなものが自分の中にあったかどうかも思い出せない」状態は、対象の存在自体が認知地平の外に押し出された状態である。FoK は、LEFFLA と LOT の境界を内側から規定する個人的機構である。
この個人的機構は、しかし、文明的規模の知識を扱うには不十分である。一人の個人が FoK によって索引できる知識の総量には上限がある。「インフレーション」「正義」「故郷」「相対性理論」——これらのラベルそれぞれに付随する膨大な知識構造のすべてを、個人が個人的 FoK によって索引することは構造的に不可能である。それでも文明は、これらの巨大な知識ストックを自分のものとして運用している。個人的 FoK だけでは、この事実を説明できない。
個人を超える既知感の必要性
問いは反転する。いま想起していないどころか、自分自身が直接アクセスしたこともない知識を、なぜ「我ら」の知識として扱えるのか。専門家が書いた研究論文、過去の哲学者の著作、複雑な法体系、医療プロトコル、金融市場のデータ——個人がそれらの内容に直接触れたことは一度もない場合が多い。それでも、共同体は「それは存在する」「必要なときに参照できる」という前提のもとで意思決定を行う。
この前提が成立するためには、FoK が個人の認知の内部にとどまっていては足りない。個人的 FoK の社会的拡張が必要である。本書はこの拡張を、SFOK(Social Feeling of Knowing:社会的既知感) と呼ぶ。
§10-2 社会的拡張としての SFOK
SFOK の定義
SFOK とは、共同体の知識ストック・制度・慣行に対して、その内容を現在参照していないにもかかわらず、「そこにあるはずだ」「必要時にアクセスできるはずだ」という集合的既知感が保持されている状態である。個人の FoK が個人の知識ストックを索引するように、SFOK は共同体の知識ストック全体を索引する。
「インフレーション」というラベルが共同体の中で意味を持つのは、専門家の誰かがその内容を知っているという信頼が暗黙に共有されているからである。日本国憲法の細部を即座に挙げられる人は少ない。しかし「日本国憲法」というラベルは、社会の中で共有された参照の網のもとで「それはどこかに、然るべき形で存在している」という前提のうえで運用される。SFOK が機能しているかぎり、共同体の各成員は知識ストックの一部にしか直接アクセスできなくても、Stock 全体を「我ら」のものとして扱うことができる。
SFOK の構造を取り出すのに適した事例として、文脈非依存な内容——数学的命題(「数学の巨大な視界と盲点」第4章 §4-1)——を文明的に運用する場面がある。F = ma という関係式そのものは、誰がそれを発見したかと独立に成立する。フェルマーの最終定理は、フェルマーという名前と独立に成立する。にもかかわらず、人間がこれらを呼び出し、参照し、教え、議論するときには、「ニュートンの第二法則」「マクスウェル方程式」「フェルマーの最終定理」といった人名ラベルが有効に機能する。内容そのものは MANES 非依存である一方、その内容を文明的に運用する索引層は MANES 依存である。両者の異位相が、SFOK の構造を示している。数学的命題ですら、文明レベルでは MANES 依存の索引なしには運用されない。
三成分——索引・要約的判断・価値ラベル
SFOK は三つの成分からなる。
第一は索引である。対象の存在を示す圧縮ラベルであり、タイトル程度の粒度を持つ。「日本国憲法」「相対性理論」「町内会の規約」——これらは内容ではなく、内容への入り口の名前である。索引が成立しているとは、共同体の中で「そういうものがある」というラベルが共有されていることである。
第二は要約的判断である。対象の価値や性格に関する圧縮された判断であり、書評コメント程度の粒度を持つ。「相対性理論は近代物理学の基礎理論である」「日本国憲法は戦後日本の規範的基盤である」——これらは内容そのものではないが、内容を呼び出すことなしに対象の位置づけを判断できる粒度の情報である。要約的判断が成立しているとは、共同体の中で対象の意義についての最低限の合意が成立していることである。
第三は価値ラベルである。対象が参照に値するという信頼を担うラベルであり、「これは無視してよいものではない」「必要なときには参照する価値がある」という暗黙の評価である。価値ラベルが成立しているとは、対象が「捨ててよいもの」のリストに入っていないことが共同体の中で共有されていることである。
三成分のいずれもが、内容そのものを保持しない。索引は名前のみ、要約的判断は粒度の粗い位置づけのみ、価値ラベルは「保持に値するか否か」のみを担う。三成分は合わさっても、対象本体に比べて桁違いに少ない情報量しか持たない。この情報量の少なさこそが SFOK の構造的意義である。
帯域消費は極小、しかし整合性維持コストを切断する
SFOK の機能を理解する鍵は、共同体的知識ストックが二種類のコストを生むという観察である。保存コストは構造をそこに置いておくだけのコストで、デジタル化の時代にはほぼゼロに接近する。整合性維持コストは構造を他の構造と矛盾なく接続しつづけるコストで、Stock 規模に対して超線形に増大する。モジュール数の二乗のオーダーで対ごとの整合性確認が増える構造である。
前景化されている構造は、他の前景化された構造と常に整合性を維持しなければならない。これが帯域を消費する。一方、SFOK によって LEFFLA に保持されている構造は、索引的に保たれているが、整合性維持義務からは解放される。SFOK の保存コストはゼロではないが最小(索引と価値ラベルの維持のみ)であり、整合性維持コストは切断される。必要時にのみ接続される。
この構造によって、SFOK は、保存コストがほぼゼロであるがゆえに構造が累積し、累積が整合性維持コストの爆発を招くという自己増幅循環を断つ。完全な LOT 化(ゼロコスト)でもなく、前景化(フルコスト)でもない中間的なコスト状態で構造を保っておけること——それが LEFFLA という領域の果たす働きであり、SFOK はその実装機構である。
なお、ここでの整合性維持コストは、「知識の重さ」(第9章 §9-2)の整合化計算と同じ構造——対ごとの整合性確認が組合せ的に増える——を指している。第9章はこの負荷が知識ストックの規模とともに爆発する側を、本章は SFOK がその負荷を切断する側を扱う。
SFOK の実装形態——人的・制度的・儀礼的・空間的
SFOK は具体的にいくつかの形態で文明に実装されてきた。
人的実装は、相談役、名誉教授、長老など、特定の人物が共同体の知識ストックの索引を担う形態である。「彼に聞けば分かる」という信頼が共同体内で共有されることで、知識への参照経路が確保される。脆弱性は、その人の死去・退去で索引ごと失われうる点にある。制度的実装は、アーカイブ、法令集、判例集などの形をとる。脆弱性は、放置による形骸化にある。索引はあるが要約的判断が更新されず、価値ラベルが空転する状態である。儀礼的実装は、式年遷宮、法事、ポトラッチなど、定期的反復を通じて索引と要約と価値ラベルを更新する形態である。脆弱性は、儀礼そのものの廃止による機能喪失にある。空間的実装は、積ん読の本棚、博物館、墓標など、物理的配置によって索引を保つ形態である。脆弱性は、物理的劣化と空間制約にある。
四形態のいずれも、内容そのものを格納するのではなく、内容への参照経路を低コストで維持するという共通の構造を持つ。文明はこれら四形態を組み合わせて、巨大な知識ストックを SFOK の網のもとに運用してきた。
§10-3 SFOK による座標系の委譲——「元老院に従う」構造
一人ですべてを参照することは構造的に不可能
帯域 3〜5 の主体が、共同体の巨大な知識ストックすべてに直接アクセスすることは構造的に不可能である。「日本国憲法は何を保証するか」を判断するために、毎回憲法本文に当たることはできない。「インフレーション率はどう測定されているか」を判断するために、毎回統計手法を検証することはできない。判断の都度に直接参照を要求すれば、判断そのものが成立しない。
それでも判断は行われている。なぜか。個人は、自分が直接アクセスしていない知識についての判断を、それを知っている誰かに委譲しているからである。憲法学者がそう言っているなら、そうなのだろう。経済学者の合意がそうであるなら、そうなのだろう。医師がそう言うなら、そうなのだろう。各個人が直接判断するのではなく、SFOK の網によって特定の主体に判断を委譲することで、個人の帯域制限のもとで共同体的判断が成立する。
これが座標系の委譲である。「MANESの三層」(第6章)で論じたとおり、座標系は何を前景化し、何を背景化し、何を認知地平の外に置くかを定める。委譲とは、この分節操作の一部を、自分以外の誰かに任せることである。ある権威に従う者は、何を前景化すべきかをその権威の判断に委ねている。専門家に従う者は、何を問題として立ち上げるべきかを専門家の判断に委ねている。委譲は意思の弱さではなく、帯域制限の構造的帰結である。
「元老院に従う」構造——委譲の三つの位相
委譲の構造は、特定の制度が長期にわたって機能した歴史的事例の中に鮮明に現れる。本書はこれを「元老院に従う」構造と呼ぶ。共和政ローマにおいて元老院(senatus)が果たした役割が、その典型例である。
共和政期の元老院は、執政官・法務官等の前職者の集合体として制度的に蓄積された経験の場であり、「国家を背負っている」という社会的信認に支えられていた。元老院決議(senatus consultum)は法的強制力を持たなかったにもかかわらず、強い権威で実質的に従われた。共同体の各成員が、独力ですべての国政判断を行うことができないという構造的事実のもとで、判断を元老院に委譲することが合理的選択として作動していたからである。「元老院がそう言うなら」という判断の依拠が、共同体全体で共有された SFOK の網として機能した。
これは、歴史的事例としての共和政期元老院に限定された構造ではない。同型の構造は、宗教的権威、世俗の専門家権威、学術権威、メディア権威、技術権威にも現れる。
委譲には三つの位相がある。
第一の位相は索引の委譲である。「何が問題として存在するか」のリストを、特定の主体に任せる。元老院が「国家にとって懸念すべき事態である」と取り上げたものが、共同体全体の懸念事項として立ち上がる。学術権威が研究対象とすべきと宣言したものが研究対象として立ち上がる。索引の委譲が成立すると、個人は世界のすべての差異を独力で問題化する必要がなくなる。
第二の位相は要約的判断の委譲である。「それは何であるか」「どう位置づけられるか」を、特定の主体に任せる。元老院の判断が、ある外交問題の意味と位置づけを確定する。専門家集団の共通理解が、ある現象の説明を確定する。要約的判断の委譲が成立すると、個人は対象の意味を独力で構築する必要がなくなる。
第三の位相は価値ラベルの委譲である。「それは参照に値するか」「重要視すべきか」を、特定の主体に任せる。元老院が国家的に重要と判断した事項が、共同体全体で重要なものとして扱われる。専門家集団が無視してよいと判断したものは無視されて構わないものとなる。価値ラベルの委譲が成立すると、個人は何を保持し何を捨てるかを独力で判断する必要がなくなる。
三位相のすべてを単一の権威に委譲した状態が、典型的な「元老院に従う」構造である。三位相を異なる主体に分散して委譲することも可能である。近代以降の文明は、この分散的委譲を制度化してきた——索引は学術界、要約的判断は専門誌、価値ラベルは教育制度というように。
委譲が成立する条件と委譲の利得
委譲が機能するためには、委譲先への信頼が前提となる。SFOK の三成分のうち、とりわけ価値ラベル(参照に値するという信頼)が、委譲の成立条件である。信頼が崩れた瞬間、委譲は機能を失い、個人は帯域制限の中で独力で判断することを強いられる。あるいは、別の権威に委譲先を切り替える。
委譲が機能しているかぎり、文明は個人の帯域制限を構造的に超えて作動できる。これが委譲の利得である。一人の個人が知っていることの数十倍・数百倍の知識構造が、共同体の中で意味のある形で運用される。媒介接続は、この委譲の網のうえに具体的に支えられている。媒介接続とは、直接的接触の上限を超えて「我ら」を成立させる経路であった(「ホモ・デウスとホモ・マネス」第7章)。「我ら」の知識、「我ら」の規範、「我ら」の歴史は、各個人がその内容を直接知っているから「我ら」のものなのではない。SFOK の網が共同体的所有を構造的に成立させているから「我ら」のものなのである。
§10-4 制度化された座標系——批判コストの圧縮と権威の固着
批判コストの圧縮
SFOK が制度化されるとき、座標系の委譲は個別の信頼関係を超えて、制度的に保証された参照経路となる。法体系・学術制度・専門職資格・国家機関——これらはいずれも、特定の主体への委譲を社会的に固定する装置である。制度化が達成された SFOK のもとでは、委譲先を毎回選び直す必要はない。「裁判所がそう判断したのだから」「国会がそう決めたのだから」「専門学会がそう合意しているのだから」という形で、判断の根拠が低コストで供給される。
このとき、制度化されていない判断——制度の権威に依拠しない判断——は、相対的に高コストになる。なぜなら、制度化されていない判断は、自分自身で索引・要約的判断・価値ラベルのすべてを構築しなければならないからである。これに対し、制度化された判断は、これら三成分を制度から借りてくることができる。本書はこの差を批判コストの圧縮と呼ぶ。
批判コストが圧縮される結果、「制度に従う」が安価で「制度を批判する」が高価になる構造が成立する。各個人が合理的に行動すれば、低コストの選択肢を選ぶ。多数の個人が低コスト選択を反復することで、制度的判断は文明全体の支配的判断として固着していく。これは制度の権威主義的押しつけによってではなく、帯域制限のもとでの合理的選択の集積として進行する。
権威の固着——制度ストックの自律的存続の一形態
批判コストの圧縮が極端まで進むと、制度はもはや個別の同意を必要とせず、自律的に存続する状態に達する。制度を支えていた本来の MANES——なぜその制度が必要とされたかという凝集——が希薄化しても、制度の権威は維持されうる。なぜなら、批判コストの非対称が変わらないからである。
これが権威の固着である。本来の意味(共有された凝集)が抜けた後にも、SFOK の三成分のうち索引と価値ラベルだけが制度的に維持され、要約的判断は内実を失った形式へと痩せていく。個人にとっては、その制度に従うことが依然として低コストの選択肢であるため、制度は表向き機能を続ける。しかし制度を内側から支える凝集は失われており、制度は外殻だけが残った状態で存続する。
元老院(§10-3)は、この変遷を歴史的に示す事例でもある。共和政期に「国家を背負う前職者集団の判断」として委譲の合理性を体現していた元老院は、帝政期に入ると、制度として存続しながら実質的判断権を皇帝へと明け渡していった。元老院議員という地位の名誉は維持され、儀礼的権威は保たれた。しかし参照に値する見識の内実は希薄化していった。索引(元老院が取り上げる議題)と価値ラベル(元老院議員という地位の名誉)は制度的に残ったが、要約的判断の内実は空洞化した。同一の制度が、共和政期の SFOK の開いた循環の作動から、帝政期の権威の固着(閉じた慣性)へと、長い時間をかけて移行していった構造である。開いた循環とは、ラベルの背後の止めどころがなお共同体の主観の中で活きている向きである。
権威の固着は、対称性志向(「神話的MANES」第8章 §8-4)の後退が、共同体の水準で現れた形として読める。SFOK のラベルが制度として固着するとき、ラベルの背後に止めどころを置く運動があったことそのものが、共同体の主観から後退する。「裁判所がそう判断したのだから」「学会がそう合意しているのだから」という参照は、対応する判断がかつて誰かによって置かれた止めどころであったことを、もはや想起しない。境界はあらかじめそこにあったかのように作動し、滲みは消える。批判コストの圧縮が支える固着は、この自覚の後退と同時進行する。
第6章 §6-5 の語彙で言えば、これは操作核の形態論が制度の水準で現れた姿である。MANES が希薄化してもなお、座標系と報酬関数の総体は制度として回りつづける。完全な形へ引き戻される途上か、さらに崩れる途上か——第6章が診断の地点と呼んだ不確定が、ここでは制度の規模で立っている。
ティベリウス受容(「知識の重さ」第9章 §9-2)は、SFOK の権威の固着としても読みうる。十六世紀に『年代記』の該当巻が再発見されて以降、長い期間にわたって、ティベリウスをめぐる判断は「タキトゥスの年代記によれば…」というフレーミングのもとで継承された。このフレーミングは、SFOK の三成分を束として一括継承させる。索引(年代記のどの部分が該当するか)、要約的判断(タキトゥスの記述する皇帝の性格)、価値ラベル(古典的権威としての歴史記述)である。下位の個別評価を批判するためには、「タキトゥスの権威」そのものを揺るがすことが先行的に要請される。だが、束として固着している権威を構成要素ごとに分解することは、批判コストが高い。結果として、個別評価の修正は、タキトゥス自身の権威の相対化が進むまで停滞する。SFOK の権威の固着は、評価そのものではなく、評価への参照のフレーミングを介して作動する。
委譲の合理性と委譲の代償
委譲そのものは、帯域制限のもとでの合理的選択である。本書はこの合理性を否定しない。一人の個人が文明的知識ストックすべてを独力で索引することは構造的に不可能であり、委譲を経ない判断はそもそも成立しない。
しかし委譲は代償を伴う。第一の代償は、委譲先の判断の質に依存することである。委譲先が誤った場合、その誤りは委譲を行った個人の判断にそのまま波及する。第二の代償は、委譲が制度化されるほど、委譲先を変える困難が増すことである。批判コスト圧縮は、現行の委譲先からの離脱コストを高く保つ。第三の代償は、委譲先の権威の固着が MANES の希薄化を見えにくくすることである。本来の凝集が失われていても、委譲が制度的に保証されつづけるかぎり、希薄化は表面化しにくい。
これらの代償を引き受けながら委譲が機能しているとき、文明は安定する。代償が累積し、委譲先が誤りを重ね、希薄化が顕在化したとき、SFOK の網そのものが揺らぐ。
循環と慣性の対比でいえば、循環の運動は、委譲が合理的に作動しつつ、ラベルの背後の止めどころが共同体の主観の中で活きている方向への動きである。「神話的MANES」(第8章)の連なりの中の信が世代を貫いて止めどころを引き受け直す運動であったように、SFOK の循環では、ラベルが共同体の中で引き受け直されながら作動する。慣性の運動は、引き受け直しが止まり、ラベルだけが自走する方向——権威の固着——である。両者は連続的勾配の上にあり、両者を分ける閾値の位置は事後にしか分からない。系の内側から知りうるのは、ラベルの背後の止めどころが、なお共同体の主観の中で動いているかどうかという挙動である。動いていなければ、勾配は慣性の側に作動を続ける。
§10-5 SFOK 崩壊の構造的帰結
三成分のいずれが失われるか——崩壊の三類型
SFOK は三成分(索引・要約的判断・価値ラベル)のいずれかが失われると機能を停止する。三成分の崩壊は、それぞれ異なる構造的帰結を生む。
索引の喪失は、対象の存在自体が共同体の認知地平から消える事態である。「そういうものがあった」というラベル自体が失われると、対象は LOT に落ちる。歴史的知識の世代間断絶は、しばしばこの形で進行する。前世代が当然知っていた索引が次世代では知られておらず、それが失われたという認識自体も生じない。第三層 ES の縮退は、この索引喪失と並行して進む。「我ら」を構成する歴史的経験への索引が失われれば、「我ら」の同一性そのものが希薄化する。
要約的判断の喪失は、索引と価値ラベルが残ったまま、対象の意味の位置づけが空洞化する事態である。「日本国憲法」「相対性理論」というラベルは知られているが、それが何であり何を意味するかの粒度の粗い理解が失われる状態である。この状態では、対象は形式的に保持されているが、保持の意味は失われている。制度の形骸化は典型的にこの形をとる。制度の名は知られているが、その制度がなぜ必要とされたかの要約的判断が失われ、制度は儀礼として残るが機能しない。
価値ラベルの喪失は、索引と要約的判断が残ったまま、「それは参照に値する」という信頼が失われる事態である。ラベルは知られ、その意味も粒度の粗い形で把握されているが、もはやそれを参照する動機が共有されない。「インフレーション率の公式統計」を例にとれば、その数値の意味は理解されているが、それが信頼に値するという暗黙の合意が崩れた状態である。価値ラベルの喪失は、しばしば代替的価値ラベルへの委譲先切り替えとして表れる——公式統計から代替的指標へ、専門家から非専門的論者へ、制度的権威から非公式的権威へ。
凝集の脱結合——アクセス可能だが「我ら」性なし
三成分の崩壊が部分的にのみ進行している局面では、特異な状態が生じうる。本書はこれを凝集の脱結合と呼ぶ。具体的には、共同体的知識ストックへの形式的アクセスは維持されているが、それが「我ら」の知識として機能しない状態である。
たとえば、デジタル化された情報環境では、過去の文献・記録・データへのアクセスは技術的にむしろ向上している。しかし、何にアクセスすべきかの索引、何が重要かの要約的判断、何を参照すべきかの価値ラベルは、共同体的に共有されているとは限らない。アクセスは可能だが、それが共同体の凝集を支える運用に組み込まれていない。情報は存在するが、それを「我ら」のものとして運用する SFOK の網が破綻している。
この状態は、知識の絶対量が増えながら共同体的知識基盤が希薄化するという逆説を生む。凝集の脱結合は、その希薄化の SFOK 局面での具体的形態である。
社会的 LEFFLA の侵食
SFOK は LEFFLA の社会的実装である。SFOK の網が機能しているかぎり、共同体は巨大な知識ストックを LEFFLA として保持し、必要時に MANES に呼び戻し、不要になれば LOT に送る循環を作動させうる。SFOK が崩壊するとき、この循環の中間段階である社会的 LEFFLA そのものが侵食される。
社会的 LEFFLA の侵食は、二つの極への分岐として現れる。一方の極では、保持されるべき構造が即時 LOT 化される。共有された凝集を支える経験の連続性が断たれ、過去の構造への索引が次々に失われる。もう一方の極では、LOT に落とすべき構造が MANES に累積する。HIAM が機能せず、不要化した構造が前景に滞留しつづける。両極の同時進行は、現代の情報環境にも観察される。
なお、「保持されるべき構造が即時 LOT 化される」極は、LOT direct が、個人の認知レベルではなく社会的制度のレベルで実装された姿として読みうる。LOT direct とは、LEFFLA を経由せずに副生物を直接 LOT 側へ切断する操作であった(「LEFFLAとLOT」第3章 §3-7)。