
# 第8章　神話的MANES——境界の曖昧さの中に立つ <a id="ch8"></a>

晴れていた空に、雲が増えていく。どこまでが晴れで、どこからが曇りなのか、変わり目の一瞬を指させる者はいない。麓の道のどこから山が始まるのか、歩いてみても一線はどこにもない。眠りに落ちる瞬間に立ち会えた者はいない。それでも、空は曇る。頂はある。朝には目が覚めている。

一方で、私たちは、線を引くことを知の作法として身につけてきた。定義を与え、境界を定め、測り、区切り、取り決める。曖昧なままの言葉は、まだ分かっていないことの徴とされる。実際、その作法は多くを与えてきた——文明の骨組みは、引かれた線でできている。

**曖昧さは、取り除くべき欠陥なのか。**

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## §8-1　境界が引けないということ <a id="ch8-s1"></a>

### 化学と生命のあいだに、線は引けない

化学反応と生命の境界は、どこにあるのか。

生命を定義しようとする試みは、これまで幾度となく繰り返されてきた。自己複製を基準にすれば、生命とは自らを複製する系である、と言える。しかしそう言った瞬間に、ウイルスが境界に立つ。ウイルスは宿主の中でしか複製しないが、確かに複製する。代謝を基準にすれば、ウイルスは生命から外れるが、今度は自己触媒サイクルが境界に立つ。区画化、進化能力、情報の継承——どの基準を採用しても、境界に立つ存在たちが現れて、線を引かせない。

境界に立つこうした存在たちは、定義の不備が暴かれた残骸ではない。むしろそれらは、化学反応と生命のあいだに勾配的な移行領域が広がっていることの証拠である。生命は、ある瞬間に化学反応から「飛び出した」のではない。化学反応から徐々に立ち上がり、ある程度の自己組織化、ある程度の自己維持、ある程度の情報蓄積を獲得していった先に、私たちが便宜的に「生命」と呼ぶ状態がある。

ここで重要なのは、境界が引けないのは観察の精度が足りないからではない、ということである。観察手法をどれだけ精緻にしても、化学反応と生命の境界は引けない。境界が引けないこと自体が、対象そのものの構造的特徴である。化学から生命へは、勾配的にしか立ち上がらない。だから境界も、勾配的にしか存在しない。

### 境界が曖昧だからこそ、そこに近づける

そしてこの構造には、一つの逆説が含まれている。

**境界が曖昧だからこそ、その境界に近づくことができる**。

もし化学反応と生命の境界が厳密に引かれていたなら、化学反応が生命へと移行することは不可能だっただろう。境界を越えるためには、境界が滲んでいなければならない。境界の滲みの中で、何かが少しずつ別の何かへと変化していくことができる。境界が曖昧であることは、移行を可能にする条件である。

そしてもう一つ。境界が厳密なら、こちら側からは向こう側が見えない。境界の向こうにあるものは、こちら側に立つ者には届かない。しかし境界が滲んでいるなら、私たちはその滲みの中に立つことができる。境界を横断することができる。境界の両側を、同時に感じ取ることができる。

### 世界に遍在する滲んだ境界——そして神話

世界には、こうした勾配的にしか存在しない境界が、いくつもある。意識と非意識のあいだ。表象と物質のあいだ。個と共同体のあいだ。生者と死者のあいだ。そして——神話と非神話のあいだ。

神話と非神話のあいだもまた、そのような境界の一つである。境界を引くのではなく、その滲みの中に立つこと——そこからしか、神話には近づけない。

「ホモ・デウスとホモ・マネス」（第7章）の末尾に置かれたいくつかの構えも、こうした境界の事例として読み返すことができる。ホモ・マネスとして引き受けるべき三つの苦悩のいずれも、明確な線を引いて閉じることのできない境界の中に立つ営為である。三つとは、圧縮の宿命としての盲点の自覚、異質な共同体を「我ら」として認識する困難、動いている系としての自覚である（同章）。継承様式の非対称もまた、自走と非自走のあいだの境界が滲んだまま、文明が抱える構造的な条件である。同じ機構の操作能力的側面は外部装置・自動化・制度的継承で自走可能だが、実存的側面は同じ仕方では継承できない（同章）。

さかのぼれば、「MANESの三層」（第6章）が文明レイヤーの下限に置いた線にも、同じ構造が働いている。四つの条件のいずれかが失われれば、それは文明レイヤーではない——条件の側は、切れている。だが、一つの系がいまその内側に立っているのかどうか——凍結した可変性と、消失した可変性とを分ける判定——は、外から観察するかぎり確定できない。線は在り、判定は滲む。境界の上に立つ存在が線を引かせないという本節の構造は、文明というレイヤーの下限そのものにも及んでいる。

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## §8-2　「信じる」という素朴な問い <a id="ch8-s2"></a>

神話に近づくために、まず別の場所から問いを立てる。**「信じる」とは何か。**

### 痩せ細った「信じる」——証拠と同義化された信

この問いは、現代において奇妙に響くかもしれない。現代では、信じることは「証拠がある」「証明されている」ことと、ほぼ同義化されているからである。とりわけ科学的言説の中では、何かを信じるとは、それを支持する根拠を持つことと、ほぼ重ねられる。「信じている」と言えば、「証拠がある」のだろう、と受け取られる。逆に、「根拠はないが信じている」と言えば、それは「迷信」「思い込み」「非合理」として、信じることの劣化形態と見なされる。

しかしこれは、「信じる」という人間の能力の、極度に痩せた姿である。

伝統的に、信じることはもっと豊かな広がりを持っていた。何かが事実だと認める態度。何かが正しいと認める態度。何かが美しいと感じる態度。誰かを信頼する態度。自分を信じる態度。世界が生きるに値すると信じる態度。これらはすべて「信じる」の様態だが、現代的な「証明された事実を信じる」とは、まったく違う何かである。

### 信じることは真偽と独立に働く

そして決定的なこととして、**信じることは、真偽とは独立して可能である**。

子どもが両親を信じるとき、両親が事実として完璧であることを信じているのではない。誰かを愛するとき、その人が客観的に善であることを信じているのではない。何かを目指して探究するとき、その目標が真であることをまだ知らない。しかし、何かを信じている。信じることがなければ、探究は始まらない。

信じることは、真偽が決定不可能な領域で本領を発揮する。死後の世界、宇宙の意味、自分の人生の価値——これらは真偽の決定が困難な、あるいは原理的に不可能な領域である。しかし人間は、これらに対して何らかの態度を取らずには生きられない。何らかの仕方で身を傾けずには、生きていけない。

そして、より根本的なこととして、真偽の判定そのものが、ある種の信を前提にしている。「証拠がある」と言うとき、その証拠の有効性、観察の信頼性、論理の妥当性——これらすべてが、ある根源的な信頼の上に立っている。証明の連鎖を遡っていくと、どこかで証明されない前提に行き当たる。その前提を「信じる」ことなしには、いかなる証明も成立しない。

### 問えば滲む——止めどころを置くという運動

よく考えてみると、信じるとは何か、はっきりしなくなってくる。

何を信じているのか。それを信じるとはどういうことか。どう信じているのか。信じることと知ることはどう違うのか。信じる対象は命題なのか、人格なのか、世界そのものなのか。これらを言葉にしようとすると、輪郭が滲んでいく。確かに私たちは何かを信じている。しかしその「何か」と「信じる」の中身を精緻に取り出そうとすると、手の中をすり抜けていく。

**信じるとは何か、と問えば、それ自体が曖昧であることに気づく**。

この曖昧さは、概念の不備ではない。信じることそのものの構造に由来している。

「圧縮から創発する世界」（第2章）で、本書は一つの言葉を置いていた——**止めどころ**である。文明と呼ばれるものをどの粒度で「同じ」と呼ぶか、「同じ我ら」をどこまで広げるか、何をもって同じ物事と認めるか——いずれの場合も、対象の側からは答えが出ない。物理のレイヤーでは法則が、生命のレイヤーでは進化的機構が、選別の輪郭を固定する。だが文明のレイヤーでは、輪郭は対象の側から決まらず、置く側のあり方によって複数ありえ、揺れ、書き換わる。それでも、どこかに止めどころを置かなければ、この層で動いている何ものも立ち上がらない。同章はこの正体不明の選別構造に MANES という仮の名を与えて、本書の問いとして残した。

信じるとは、結局のところ、この止めどころを置く運動を、置いている当人の側から記述したものではないか。同章は外側から——構造の側から——止めどころを取り出した。置かれるべき場所があり、置く根拠は法則からも生物からも来ない、と書いた。本章は、その同じ事態を内側から——置く当人の構えの側から——取り出している。何かを信じるとき、人は、根拠が法則からも生物からも来ない場所に、何かを置いている。

ここに、一つ重要なことがある。

止めどころを止めどころと呼ぶことそのものが、ある認識を前提にしている。境界の向こう側にも何かが残されているという認識である。向こう側を認識していないのなら、それは止めどころではない。ただの輪郭である。「世界はそうなっている」としか感じられない。

信じるとは、輪郭ではなく止めどころを置いていることに、ぼんやりとであれ気づいている態度である。置きながら、置いていることを忘れていない。置きながら、その向こう側を捨てていない。だから問えば滲む——問うことは、止めどころが止めどころであることを再認識する運動だからである。問うた瞬間に、置いた場所の向こう側への参照が再起動して、輪郭が滲み始める。

信じるとは何か、と問うことの内側に、すでに信じることの構造が含まれている。

そして、もう一つ気づくことがある。信じることが向かう先には、どうも複数の様態がある。重い苦悩として何かに身を傾ける場合がある。淡い憧憬として何かに引き寄せられる場合がある。明確な希求として何かを求める場合がある。軽い好奇心として何かに開かれる場合がある。これらはどれも信じることの仲間だが、それぞれに性質が違う。

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## §8-3　神話と呼ばれてきたもの <a id="ch8-s3"></a>

### 世界に身を傾ける様態——苦悩・憧憬・希求・好奇心

人が世界に身を傾ける様態には、少なくとも四つの方向がある。

第一は苦悩である。捉えきれないものに直面し、捉えきれないこと自体に痛みを感じながら、なおその向こうに身を傾ける。重い様態だ。個人がこれを保ちつづけるには、大きな精神的負荷がかかる。永遠への渇望として描かれてきたものは、この様態が極限まで張り詰めた姿である。

第二は憧憬である。捉えきれない向こう側に、淡く、しかし確かに引き寄せられる。苦悩よりは認知的負荷が低い。だが脆さも持つ。憧憬は、向かう先が現実の側にあるのか、現実の外にあるのかを、内側からは区別しにくい。夢想や非科学的な現実乖離との境目が、しばしば滲む。

第三は希求である。何かを求めている、という意識のはっきりした構え。求めるものの輪郭がある程度立ち上がっていて、そこへ向けて自分を方向づけることができる。苦悩よりは軽く、憧憬よりは芯がある。

第四は好奇心である。捉えきれない何かに開かれる、軽やかな構え。求めの強度は低い。代わりに、向かう先を変えることが容易で、広い領域に対して低コストに開かれていられる。

四つの様態はどれも、捉えきれない何かに対して、認知的に閉じることなく身を傾ける構え、という点で共通する性質を持つ。それぞれが個人の中で独立に作動し、状況や時期によって組み合わさったり入れ替わったりする。

これらの様態が、神話と呼ばれてきたものへの入り口となる。

### 統合された神話と、その外側に散らばる様態

人類の歴史を通じて、神話と呼ばれてきたものがある。旧約聖書の創世記は、世界の始まりを語る。光あれ、と言葉が発せられ、世界が分節されていく。ウパニシャッドは、ブラフマンとアートマンの同一性を説く。宇宙の根源と自己の根源とが、深いところで重なっている、と。ギルガメシュ叙事詩は、洪水と死すべき定めを物語る。永遠の生を求めた王は、最後に人間としての限界を受け入れる。リグ・ヴェーダは、神々と祭祀の宇宙を描く。火と水と言葉が、世界を結び合わせる織物となる。

これらは、共同体の時間を貫いて持続し、世代を越えて継承されてきた、統合された形態の神話である。物語として言語化され、文献として固定化され、儀礼や教義として制度化された。私たちが「神話」と聞いて、まず思い浮かべるのは、こうした統合形の神話だろう。

しかし、神話と呼びうるものは、これらだけではない。

ある場所に何かを感じる、という感覚がある。山に、川に、樹に、岩に、洞窟に、人々は何かを見出してきた。それは特定の物語ではないが、場所と結びついた意味の織物として、共同体の中に存在する。聖地、聖山、聖なる泉、依代としての樹木——これらは、神話が空間に結晶した様態である。物語は希薄かもしれない。しかし、その場所に立てば、何かが感じ取られる。何かが伝わってくる。世代を越えて、その「何か」が引き継がれていく。

行為と結びついた様態もある。通過儀礼、季節の祭、葬送の所作、食事の作法、新年を迎える仕方。物語として言葉になっていなくても、身体がそれを反復することで、ある世界観と価値が継承されていく。なぜそうするのか、と問われても、答えられないかもしれない。しかし身体は知っている。共同体は知っている。その知り方が、神話の別の様態である。

自然観として広がる様態もある。アニミズム的に世界を感じ取る視線、八百万の神々を感じる感性、トーテムとしての動物との結びつき、宇宙のリズムを身体で感じる感覚。これらは特定の物語に集約されない。世界に対する見方として、人々の認識そのものに分散している。

そして、もっと断片化した形もある。民間に伝わる小さな伝承。理由を忘れた慣習。語り継がれるジンクス。守られてきた禁忌。由来の分からなくなった年中行事。これらは、近代において「迷信」として切り捨てられてきたものだが、その中に、何かの痕跡が残っている。

これらの様態は、統合された神話の劣化版ではない。完全形に至る途中でもない。**それぞれが、神話の異なる結晶化の様態である**。どれが本物の神話で、どれが偽物の神話か、という階層は、観察からは出てこない。出てくるのは、組み合わせ方の多様性だけである。

### サピエンス以前の痕跡と、引けない境界

サピエンス以前にも、こうした痕跡は見出される。

洞窟の壁に残された線刻。顔料で塗られた手形。特定の場所に集められた大型動物の頭骨。丁寧に配置された埋葬。これらは、すでに表象操作の領域に踏み込んだ存在の手によるものである。世界を一度抜き出して、別の場所に痕跡として配置する。色を選ぶ。集める価値のあるものを選別する。死者をある仕方で扱う——先に去った者たちを、共同体の中に位置づけ直そうとする所作。これらの行為の一つひとつが、座標系を、報酬関数を、共存を、何らかの仕方で立ち上げている。

これらが「神話」と呼べるかどうかは、判然としない。

判然としないということ自体が、ここでは重要である。表象操作の萌芽が、どこかで神話と呼ばれうるものへと移行する。その境界は、化学から生命への境界と同じく、勾配的にしか存在しない。線刻と神話のあいだに、明確な線を引くことはできない。しかし、線刻の中にすでに神話的なものの萌芽があった、と言うこともまた、根拠を持つ。

神話の境界は、引けない。

引けないからといって、神話的なものが存在しないわけではない。むしろ逆である。**境界が引けないからこそ、神話的なものは、多様な様態をもって至るところに現れている**。統合された大いなる物語の中にも、場所に染み込んだ感覚の中にも、身体に刻まれた所作の中にも、由来を忘れた小さな慣習の中にも、洞窟の壁に残された古い痕跡の中にも、神話的なものは生きている。

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## §8-4　二つの曖昧さの重奏 <a id="ch8-s4"></a>

### 二つの曖昧さは同じ構造の異なる現れ

ここまで、二つの曖昧さが姿を現してきた。

一つは、神話と非神話の境界の曖昧さである。統合された神話から、場所に染み込んだ感覚、行為に埋め込まれた所作、自然観としての広がり、断片化した慣習まで——どこまでを神話と呼び、どこからを呼ばないか、決定する基準を、観察からは取り出せない。基準を立てれば、必ず境界例で破れる。

もう一つは、信じるとは何か、と問うたときに現れる曖昧さである。何を信じているのか、どう信じているのか、信じることと知ることはどう違うのか——問えば問うほど、輪郭が滲む。信じるという素朴な行為の内側を精緻に取り出そうとすると、それは手の中をすり抜けていく。

これら二つの曖昧さは、無関係ではない。**同じ構造の、異なる現れ方である**。

何かを信じるとは、明確に分節された対象を、明確な根拠に基づいて承認することではない。それは、分節が曖昧なまま、何かに向かって身を傾けることである。何を信じているか言葉にできないまま、しかし確かに何かに身を委ねていること。何を信じるべきか問わないまま、しかし生きていく方向が定まっていること。これが、信じることの実相である。

そして、神話を信じるとは、物語の内容を事実として受け取ることではない。物語が示す世界への向き合い方に、身を委ねることである。創世記を信じるとは、創世記の記述を歴史的事実として承認することではない。創世記が開く世界の感じ取り方に、自分の生を編み込んでいくことである。ウパニシャッドを信じるとは、ブラフマン＝アートマンが命題として真であると確認することではない。その教説が開く存在のあり方に、自分を傾けていくことである。

**信じることそれ自体が、境界の曖昧さの中に立つ運動である**。

### 対称性志向——閉じきらない構え

ここで、二つの曖昧さに共通する「同じ構造」を言葉にしておきたい。

系は、それが系として立ち上がる瞬間に、ある分節を採用し、Ω のうちのある部分を前景化し、別の部分を背景に押し下げる。圧縮による創発の宿命として、Ω の一部は系の選別構造によって参照可能性の外へ押し出される——LOT が副生する。これは中核命題-1（第3章 §3-3）で確認した構造である。

にもかかわらず、系は、参照可能性の外へ押し出された部分への接続を、なおも維持しようとする構えを持つことがある。捉えきれない領域に向けて身を傾ける構え。閉じきらない構え。何かが残されているという感覚を保ったまま、その何かが何であるかを確定できない場所に立ちつづける構え。本書はこの構えを**対称性志向**と呼ぶ。系が選び取った側と押し出した側の——参照可能領域と LOT の——どちらへの接続も手放さず、一方に閉じない。名の「対称」は、この両側への釣り合いを指す。

対称性志向は、Ω が参照可能領域だけで尽くされていないという事実——LOT が宿命的に存在するという事実——を引き受けつつ、Ω 全体への接続を維持しようとする運動である。系の外側に閉じ切るのではなく、外側との関わりを保ちつづける主観的な構え。それは達成される完成ではない。志向そのものである。§8-2 で置いた語彙で言えば、対称性志向とは、止めどころを止めどころと自覚しつづける運動である。置いた線の向こうに何かが残されているという認識を保ったまま、なお置く——その二重性を維持する構えである。

この構えには、折り返しが一つ畳まれている。LOT は、系の内側から機構的に参照することができないものとして現れるのだった——同定できたなら、その差異はもう LOT ではない（「LEFFLAとLOT」第3章 §3-2）。だから、対称性志向が向かう先は、対象として特定できる何かではありえない。参照できない何かが確かに切り捨てられている、という構造そのものである。対象を持たないまま、向かう。この屈折が、対称性志向を、対象を定めて追う通常の欲求や探索から分かつ。

この構えは、分けて言えば三つのことを同時にしている——向かうこと。置いた線を答えに変えないこと。一方に閉じないこと。三つは別々に満たされる項目ではなく、同じ一つの構えの断面である。

### 止めどころは、なお動かされているか——開いた循環と閉じた慣性

苦悩・憧憬・希求・好奇心は、対称性志向が個人の中で発現する四つの様態として読み直せる。捉えきれない向こう側に、それぞれ違う重さと方向で、身を傾ける。これらはいずれも、Ω 全体への接続を維持しようとする構えの、個人内での現れ方である。四様態のうち、憧憬・希求・好奇心は、外へ向かう引きの現れである。苦悩は、置いた線の向こうに何かが残されているという認識を保ちつづけること——二重性の維持——そのものの持ち重りの現れである。そして向かう先が対象として特定できない以上、この構えは、持ち重りの有無で向かう先を選り分けることができない。選り分けたとき、構えは、対象を定めて追う何かにすでに変わっている。

そして、この構えは受け身の姿勢ではない。対称性志向は、MANES を内側から動かす働きを持つ。憧憬や希求は、いまの分節では捉えられないものへ向かうことで、新しい分節への組み替えを駆動する。好奇心は、選別構造の縁を外へ押し広げる。MANES が固着しきらずに動きつづけるとき、その内側では、しばしばこの構えが働いている。

そして、二つの曖昧さ——神話の境界の曖昧さと、信じることの内側の曖昧さ——も、ともに対称性志向が作動している痕跡として読める。系が自らの選別構造の外側に向けて身を傾けている運動は、選別の線を明確に引くことを許さない。境界を曖昧なまま保ち、信じる内側を曖昧なまま保つことが、対称性志向が作動するための条件である。止めどころが止めどころとして意識されているかぎり、境界は曖昧なまま保たれる。意識されなくなったとき、境界は世界そのものの輪郭と化して、滲みは消える。

対称性志向は、作動しているか後退しているかで、系の動き方を二つに分ける。一方は、置かれた止めどころが、その都度なお止めどころとして引き受け直され、向こう側への参照が繰り返し起動する動きである。本書はこれを**開いた循環**と呼ぶ。もう一方は、引き受け直しが止まり、かつて置かれた線が、置かれたかたちのまま保たれる動きである。本書はこれを**閉じた慣性**と呼ぶ。ここでいう慣性とは、物理でいう慣性を指す。静止していれば静止を、動いていればその運動を、外からの働きかけなしに続ける傾きである。

両者のあいだに線はない。連続的な勾配の上にあり、どこまでが循環でどこからが慣性かは、事後にしか分からない。系の内側から知りうるのは、止めどころがなお動かされているかどうかという挙動だけである。

### MANESの三層を信じるということ

ここで、「MANESの三層」（第6章）——座標系・報酬関数・共存条件（ES）——を、参照軸として呼び込んでおく。

座標系を信じるとは、世界がそのように分節されている、と認めることである。これを信じなければ、認識そのものが成立しない。報酬関数を信じるとは、何かが良い、何かが避けるべきだ、と認めることである。これを信じなければ、行為の方向性が定まらない。共存を信じるとは、他者がそこにいる、世界が共有されている、と認めることである。これを信じなければ、共同体は成立しない。

MANES の三層は、論理的には分けられる。しかし発生論的には、絡まって立ち上がる。座標系は報酬関数なしには絞り込めない。無限にありうる分節の中から、なぜこの分節が選ばれたのか、それは何らかの価値が働いているからである。報酬関数は座標系なしには定義できない——何を求め何を避けるかを言うためには、世界が分節されていなければならない。そして両者は共存なしには持続しない。個体が独力で座標系と報酬関数を維持することは、現実的にはほぼ不可能であり、それらは共同体の中で継承され、校正される。

MANES の三層が同時に・相互に絡まって立ち上がるとき、それを神話的なものと呼びうる。

そして観察される事実として、MANES の三層がさまざまな組み合わせで結晶した、多様な様態が存在する。統合された大いなる物語においては、MANES の三層が高度に編み込まれている。場所と結びついた感覚においては、共存が空間に染み込み、座標系と報酬関数がそこに重なっている。行為に埋め込まれた所作においては、報酬関数が身体的反復として結晶し、座標系と共存がそれを支えている。自然観として広がる様態においては、座標系が世界全体に分散し、報酬関数と共存がその中に溶け込んでいる。断片化した慣習においては、MANES の三層のどれかが薄く残り、他の層は背景に退いている。

どれが完全で、どれが不完全か、という階層は、観察からは出てこない。出てくるのは、組み合わせ方の多様性だけである。

### 個人には抱えきれない曖昧さを、社会的形式へ預ける

ここで、観察されてきた一つの事実を、淡白に置いておきたい。人は、個人ひとりでは抱えきれない曖昧さを、社会的形式に預けて生きてきた。物語に、儀礼に、場所に、所作に、断片化した慣習に。これらを通じて、対称性志向の運動は世代を越えて引き渡されてきた。苦悩・憧憬・希求・好奇心が個人の中で発現する重さ・憧れ・求め・開きは、そのままでは集団規模に届かないし、世代を越えて持続しない。しかし、それらが社会的形式に外部化されたとき、人は、自分一人では維持しきれない構えを、共同体に支えられて、世代を貫いて保つことができてきた。これはホモ・サピエンスについて観察されてきた傾向の一つである。

そしてこの多様性は、整理しきれない。並べることはできる。しかしすべてを統一的な原理で整理することは、できない。整理しきれないこと自体が、神話的なものの存在のしかたである。

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## §8-5　神話的MANES <a id="ch8-s5"></a>

### 連なりの中の信——メタ階位の信認

前節の末尾で、人は社会的形式に曖昧さを預けて生きてきたという観察事実を置いた。だが、観察事実だけでは、まだ説明を欠いている。なぜ社会的形式は、個人一人では抱えきれないものを抱えられるのか。なぜそれは、世代を越えて持続しうるのか。

苦悩・憧憬・希求・好奇心に立ち戻って考えるなら、四つの様態だけでは集団規模・世代規模に届かない。苦悩は重すぎて、巨人的な個人にしか維持できず、共同体の規模へは広がらない。憧憬は淡くて、向かう先が現実の外へ滑り出る危険を、個人の内側からは見分けられない。希求や好奇心は、それぞれに認知的維持の負担を要し、個人を超えて自動的に継承されはしない。四つの様態はどれも、個人内で発現するものである。

集団規模・世代規模で対称性志向の運動が持続するためには、もう一段の機構が要る。本書はこれを、四つの様態の上に立つメタ階位として位置づけ、**連なりの中の信**と呼ぶ。

連なりの中の信とは、連鎖そのものへの信認である。親が、あるいは共同体の語り部が、信じた何かに、自分も身を傾ける。自分がそうするのは、独力で対象の真偽を検証したからではない。親が信じた——その親も信じた——その親もまた信じた——という連なりが、信じる根拠そのものになっている。そして自分が信じることが、未来世代もまた信じつづけるであろうという予測の根拠になっていく。連なりが、現実からの直接的フィードバックの代わりに、信認の拠り所として機能している。

ここに、過去と未来への対称性が立ち上がる。過去への遡及——「祖先たちが信じた」——と、未来への投射——「子孫たちも信じつづけるであろう」——が、現在の信じる者を中心に、対称に伸びている。連なりの中に立つ者は、その対称性の真ん中の一点を占めている。自分が祖先から受け取った位置と、自分が子孫に渡す位置は、構造的に交換可能である。§8-4 で名づけた対称性——選び取った側と押し出した側の両側へ閉じない釣り合い——と同じものが、ここでは、過去と未来への広がりの上に立ち上がっている。

同じもの、と言えるのは、次の理由による。連なりの中の信が向かう先——祖先が信じたことの内実、子孫が信じるであろうことの内実——は、いずれも、いまここに立つ者の参照可能な範囲の外にある。対象として特定することができない。祖先が何をどう信じていたか、その手ざわりは届かない。子孫が何をどう信じるか、それはまだどこにもない。にもかかわらず、連なりの中に立つ者は、その両側への接続を手放さない。対象を持たないまま、向かう——§8-4 の折り返しが、そのまま、過去と未来に向かって反復されている。だから、これは同じ構えである。

### 神話的MANESを立ち上げる

ここまで来て、神話的MANES を立ち上げる。

神話的MANES とは、神話を機構として保持し、機構として継承する人間のあり方である。それは、特定の神話を「真である」と信じることではない。むしろ、信じることそのものの様態を、世代を越えて引き渡していくことである。苦悩・憧憬・希求・好奇心の社会的外部化と、連なりの中の信の作動とが、合わさって神話的MANES を支えている。

統合された神話を持つ共同体だけが、神話的MANES を生きているのではない。場所に染み込んだ感覚を継承する共同体も、行為に埋め込まれた所作を反復する共同体も、自然観としての感性を分け持つ共同体も、由来を忘れた慣習を守る共同体も——これらすべての中に、神話的MANES は生きている。様態が異なるだけで、機構としての働きは共通している。座標系を、報酬関数を、共存を、何らかの仕方で結晶させ、それを世代を越えて受け渡している。

サピエンス以前の存在たちもまた、おそらくその萌芽を生きていた。洞窟の壁に手を当てた誰か、頭骨を集めた誰か、死者を丁寧に横たえた誰か——その者たちが、自分のしていることをどう感じていたか、私たちには届かない。しかし、その行為の中に、何かが立ち上がっていた。三層のいずれかが、断片的にであれ結晶していた。先に去った者たちと、まだ生きている者たちとを、ある仕方でつなぎ直す構えが、すでにそこにあった。それを「神話」と呼ぶかどうかは、境界の問題である。そして、その境界は引けない。

### 境界の曖昧さの中に立つ存在——現代もまた

現代の人間たちもまた、神話的MANES を生きている。

神話を捨てたわけではない。近代以降、統合された神話の権威は弱まり、断片化が進んだかもしれない。しかし、神話的なものは、別の様態に変容しながら、いまも私たちを貫いている。何かに身を傾けながら生きている。何かに方向づけられている。何かを共有している。それを精緻に言葉にしようとすると、輪郭が滲む。しかし滲むからといって、ないわけではない。むしろ、滲んでいることそれ自体が、神話的なものの存在のしかたである。

神話的MANES とは、境界の曖昧さの中に立つことができる存在のあり方である。

化学と生命の境界がそうであるように、表象と神話の境界もまた、引けない。引けない境界の中に立ち、その滲みの中で世界に向かう——それが、神話的MANES の位置である。明確な命題として神話を保持しているのではない。明確な根拠として信じているのではない。曖昧なものを曖昧なまま、しかし確かに身に帯びて、生きている。

連なりの中の信は、過去方向の遡及と未来方向の投射の対称性として作動する。過去側の連なりが本章の主題であったが、未来側の投射は、別の装置の主観的源泉でもある。その投射とは、自分が信じることが、まだ来ぬ世代の信じることへと続いていくであろうという予測である。「未来への希望」と呼びうる装置である。

一つ書き残しておく。連なりの中の信は、世代を越えて生きる人間の身体性に深く絡んでいる。先に生まれた者から受け取り、後に生まれる者へ渡す。この身体的・実存的な連鎖を持たない知性に対して、連なりの中の信が同じ仕方で作動するかどうかは、自明ではない。

### 滲みを失った形式

前節で、止めどころが止めどころとして意識されなくなったとき、境界は世界そのものの輪郭と化して、滲みは消える、と書いた。神話的MANES について、これが何を意味するかを取り出しておく。

物語は語り継がれ、儀礼は日を違えず反復され、場所は保たれ、所作は受け渡される。外形は、そのまま残りうる。だが、その内側で、置かれた線が線として引き受け直されなくなることがある。語られる物語が、向こう側への参照を起動しなくなる。反復される儀礼が、なぜそうするのかという問いを立てなくてよいものになる。守られる慣習が、「世界はそうなっている」としか感じられなくなる。形式は残り、滲みだけが抜けていく。神話的MANES における**閉じた慣性**の姿が、これである。

そのとき残っているものを、本書は神話とは呼ばない。**滲みを失った神話は、外形的には神話形式であっても、神話ではない。** 前項で書いたとおり、滲んでいることそれ自体が、神話的なものの存在のしかただからである。滲みが存在のしかたであるなら、滲みを欠いたものは、その形式をどれだけ精密に保っていても、存在のしかたを共有していない。

これは、§8-3 が退けた階層——どれが本物の神話で、どれが偽物の神話か——を、裏口から立て直すものではない。統合された物語であれ、場所に染み込んだ感覚であれ、身体に刻まれた所作であれ、由来を忘れた小さな慣習であれ、いずれの様態にも滲みを保つ形があり、いずれの様態にも滲みを失った形がありうる。様態の別と、滲みの有無とは、別の軸に立っている。§8-3 が退けたのは前者の階層であって、後者ではない。

そして、この喪失がどこで起きたかは、指させない。滲みそのものが神話を神話たらしめているのなら、滲みの喪失もまた、勾配的にしか進まない。ある日ある時に神話が神話でなくなるのではなく、引き受け直しの頻度が下がり、問いの起動が鈍り、向こう側への参照が細っていく。その途上のどこかで、もはや神話ではないものになっている。境界は、ここでも引けない。§8-1 が化学と生命について書いたことが、同じ構造で反復されている。

だから、これは特定の慣行を名指して「それはもう神話ではない」と判定するための基準ではない。取り出されているのは、神話的MANES が失敗する形である。

### 滲みを保つ運び方と、固定化する運び方

そして、本章で取り出した神話的なものの存在のしかたは、社会的形式に保持されることで運ばれてきた——物語に、儀礼に、場所に、所作に、断片化した慣習に。形式は曖昧さを許し、滲みを保ったまま、世代を越えて手渡されてきた。**滲みを保つというこの運び方は、帯域を通すことと引き換えに成り立っている**。物語を語り、儀礼を共にし、場所に立つ。滲みを保つ運びは、その都度、語り手と聞き手の身体を、つまり有限の帯域（第7章）を通ることを要する。帯域を通すからこそ、意味は実存の側で運ばれる。だが、人間は別の運び方も発明した。書字以降、知識を固定化された記録として外に置き、累積し、参照する運び方である。固定化は、帯域を通さずに済む。そして、滲みとは異なる代償を伴う。**滲みを捨てて記録に固定された意味は、その都度の身体を要さず、読み返されなくても累積し、自走する。だがそのとき意味は、もはや実存の側で運ばれるものではなく、操作可能な構造の側へ移っている。** 「知識の重さ」（第9章）は、この固定化の側に立つ厚みを扱う。

問いを最後に残しておく。

私たちは、何を信じているのか。それは、本当に「信じている」と言えるのか。「信じる」とは、結局のところ何か。問えば問うほど、輪郭は滲む。そして滲むことそれ自体が、神話的MANES がいまなお生きていることの、もう一つの証なのかもしれない。
