
# 第5章　ゲーム理論の強さと限界——バインドによる盤面 <a id="ch5"></a>

「数学の巨大な視界と盲点」（第4章）は、数学がバインドしないことによって、巨大な視界を得る一方で勾配を持たないことを見た。本章はこれと対になる理論装置を扱う。ゲーム理論はバインドすることによって、数学が与えなかったもの——勾配——を手に入れる。その勾配は、世界の中に発見されるのではなく、バインドによって生み出される。

将棋でも囲碁でも、盤に向かえば、良い手と悪い手の差は歴然と立つ。だが、そもそもこの一局を指すべきかどうか——盤の外のその問いに、同じ明晰さはない。良し悪しの差は、盤と駒と決まりが先に定まっているところにだけ立つ。

**最善手を定める盤面そのものは、どこから来るのか。**

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## §5-1　無限後退をしない枠組み——バインドが勾配を立ち上げる <a id="ch5-s1"></a>

### 無限後退を止めるゲーム理論の不動点

複数の主体が存在し相互に関係し合うゲームの中で、最善の一手は、相手がどう出るかに依存する。だが相手の一手は、相手が「私はどう出るか」をどう読むかに依存する。そしてその読みは、私が「相手は私をどう読むか」をどう読むかに依存する……。互いの予期が互いの予期を参照し合い、確かな底に着かない。原理的に終わりがない無限後退の構造がある。

この無限後退を、ゲーム理論は止める。問いを「相手は何を考えているか」から「**誰もが一方的に手を変えたくない配置はどれか**」へ置き換えるのである。各プレイヤーが、他の全員の手を所与としたとき、自分だけ手を変えても得をしない（変えると損をする）——そういう配置を探す。互いの読みを無限に遡る代わりに、打ち手を変えたくなる動機が誰にも残らない一点を求める。そしてある一般的な条件のもとで、そのような配置は必ず存在することが保証される。底がないように見えた問題に、確かな底が与えられる。これがこの装置の中核的な力である。

### ゲーム理論とは何か

複数の主体が、それぞれ相手の選択を読みながら自分の選択を決める——そうした相互依存の状況を、戦略空間——打てる手——と利得関数の構造として書き表し、どの配置に落ち着くかを解く。これが二十世紀の半ばに一つの体系として立てられたゲーム理論である。そして、誰も一方的に手を変えたくない配置——**均衡**——が一般的な条件のもとで必ず存在することが示された。相互依存という、それまで散文でしか語れなかった事態に、ゲーム理論は解ける形を与えた。

その射程は広い。市場での価格競争、企業の参入と撤退、国家間の交渉と抑止、生物の縄張りと求愛、通信網上の混雑——互いの選択が互いの帰結を左右するところであれば、領域を問わず同じ枠組みが当てはまる。これは比喩ではない。経済学・政治学・進化生物学・計算機科学が、それぞれ独立に同じ装置を必要とし、同じ均衡概念に行き着いた。数学が領域を問わず接続するという性格（「数学の巨大な視界と盲点」第4章）——一つの形が場所を変えて現れること——が、ここでは相互依存という一つの層に限って現れている。相互依存の状況に確かな底を与えたこと、それを領域横断的に行えたことは、紛れもない知的達成である。本章は、その強さを認めたうえで、それが何の上に立っているかを見る。

### 心を要さない——意図ではなく配置が勾配を生む

注意すべきは、ゲーム理論が持つこの力が**心を要さない**ことである。配置を「探す」のは、思考する主体である必要すらない。淘汰にさらされた集団——意識を持たない生物の個体群——でも、有利な振る舞いが世代を越えて広がり、誰も一方的に逸脱して得をしない構成へと落ち着く。同じ不動点の構造が、心の有無にかかわらず立ち上がる。だから以下で扱う勾配は、誰かの意図でも悪意でもなく、**配置そのもの**が生む。

### バインドして初めて勾配が立つ

ただし、構造は所与のものではない。ゲーム理論の装置が働くには、ゲームが**先にバインドされている**ことが要る。誰が手番を持つのか、打てる手は何か、どの帰結が誰にとってどれだけ得か——これらが確定していて初めて、不動点を問うことができる。戦略空間、利得関数、プレイヤーがバインドされたとたん、勾配が立ち上がる。

### 囚人のジレンマ——合理が全体をより悪い帰結へ導く

最小の例で見る。二人の囚人（A と B としよう）が尋問を受ける。それぞれ「黙る」か「裏切る」かを選ぶ。見通しをよくするため、罰の重さに仮の数を振っておく。数そのものに意味はなく、効くのは大小の順序だけである。だから、順序を満たす最小の整数で足りる。十年の懲役や桁違いの利得といった劇的な数へ膨らませることもできるが、それで装置の働きに何かが加わるわけではない。そもそも、どの帰結がどれほど重いかという値を、世界の側はどこにも刻んでいない。絶対零度のように世界が「ここから先はない」と告げてくる値（「数学の巨大な視界と盲点」第4章）は、利得表のどこにもないのである。二人とも黙れば、証拠不十分で軽い罰で済む（A はマイナス1、B もマイナス1）。二人にとってまずまず良い。二人とも裏切れば、二人とも証拠十分で厳罰を受ける（A はマイナス2、B もマイナス2）。二人にとって悪い。だが片方だけが裏切れば、裏切った側は無罪となり最も得をし（0）、黙った側はすべての罪を一人で被って最も損をする（マイナス3）。このとき各人にとって、相手が何を選ぼうと、裏切るほうが得になる。相手が黙るなら、裏切って出し抜ける（マイナス1 が 0 になる）。相手が裏切るなら、自分も裏切らねば一人負けする（マイナス3 がマイナス2 で済む）。こうして二人とも裏切り、二人にとって悪い帰結——マイナス2 とマイナス2——に落ち着く。各人の合理が、全体ではより悪い帰結へ全員を導く。これは囚人のジレンマと呼ばれてきた構図である。誰も愚かではない。悪人もいない。それでも、より悪い帰結へ向かう——その勾配を作っているのは、各人の心ではなく、利得のバインドそのものである。

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## §5-2　勾配の代価——バインドの外は勾配ゼロになる <a id="ch5-s2"></a>

### バインドの外は過小評価ではなく勾配ゼロ

勾配が立つにはバインドせねばならない。では、バインドされなかったものはどうなるか。控えめに評価されるのだろうか。そうではない。**有効勾配がゼロになる**のである。さきほどの囚人のジレンマで言えば、たとえばその囚人の帰りを待つ幼い子供がいるかどうかという軸は、そのゲームの中に初めから存在していない。

利得表に書き込まれた評価軸だけが、どちらが得かを左右する。書き込まれなかった軸は、小さな重みを持つのではない。重みを持たない。均衡がどこに落ち着くかに、一切寄与できない。それは「軽んじられている」のではなく、勾配を立てる空間に**存在していない**。この差は、程度の問題ではなく、存在の問題である。「LEFFLAとLOT」（第3章）の言葉で言えば、バインドの内側は有効勾配が立つ領域であり、バインドの外側は認知地平の外——LOT——に落ちる。重みづけの誤りなら、調整できる。だが勾配ゼロは、調整の対象にすらならない。盤の上に現れないものは、どれほど重大であっても、均衡を動かさない。

### 中核命題-1 の純粋な現れ

これは、中核命題-1 が、意思決定という領域で現れた、純粋な一例である。中核命題-1 とは、圧縮が有効勾配と LOT を同時に副生するという命題であった（「LEFFLAとLOT」第3章）。何かをバインドして勾配を立てれば、バインドの外は必ず勾配ゼロで盲点として落ちる。無限後退しない均衡を生み出す力と、外を見えなくする盲点とは、別々の出来事ではない。同じ一つのバインドの表裏である。

### 盤に書かれなかったものは均衡を動かさない

先の例に戻る。二人の前にあるのは「黙る／裏切る」と、その帰結としての各自の利得だけである。だが二人がともに重んじうるものは、ほかにもありうる——たとえば、二人の選択が及ぼす第三者の福利、あるいは二人がこの先も続けていく関係そのもの。これらは利得表に書き込まれていない。書き込まれていないから、過小に評価されるのではなく、**ただ盤面に現れない**。均衡の計算に、それらは一切入ってこない。二人がどれほどそれを大切に思っていようと、バインドがそれを軸として立てていないかぎり、勾配はゼロのままである。天涯孤独の囚人の末路も、親が帰らなければ路頭に迷う子を持つ囚人の運命も、このゲームの盤面においては何も変わらない。

![図5-1](../assets/fig/fig5-1.svg)

**図5-1**　左：R空間（現実）の中を、無数の軸のうえで込み入った運動が走る——勾配はまだどこにも立っていない。右：三要素（戦略空間・利得関数・プレイヤー）のバインドが盤を立てると、盤の上に勾配と底（均衡）が立ち、盤に載らなかった運動は薄く残る——勾配ゼロ、均衡を動かさない。太い矢印は一方的な手替えの向きで、四本すべてが一つの升へ向かう。その升が、底である。

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## §5-3　バインドしても定まらない——複数均衡と焦点 <a id="ch5-s3"></a>

### 存在の保証は選択の保証ではない

バインドの外に落ちるものを見た。では、盤の内側に載ったものは、それで完全に定まるのだろうか。

§5-1 で装置の中核的な力とした保証を、ここで正確に言い直しておく。一般的な条件のもとで保証されているのは、誰も一方的に手を変えたくない配置が**存在する**ことである。それが**一つである**ことは、保証されていない。囚人のジレンマでは、底は一つだった。相手が何を選ぼうと裏切るほうが得になるという強い勾配が、落ち着き先を一意に定めた。だがこれは、むしろ特殊な形である。一般には、底は複数ある。

### 等しく安定な二つの底

すれ違う二台が、道のどちら側を通るか。全員が左を走る世界では、一人だけ右を走る者は衝突する。だから誰も手を変えない。全員が右を走る世界でも、まったく同じ理由で、誰も手を変えない。左の世界も右の世界も、等しく均衡である。皆が同じ手に揃うこと自体が利益になる——この型の状況は調整ゲームと呼ばれてきた。そして利得表のどこを眺めても、二つの底のどちらが選ばれるのかを告げる項はない。二つの底は、盤の内側からは対称なのである。

### 将来を書き込むと、底は増える

底が複数あるのは、盤への書き込みが足りないからだろうか。書き込みを増やしていけば、答えは一つへ絞られていくのだろうか。むしろ逆のことが起きる。同じ二人が明日も明後日も同じ盤で向かい合う——そういう将来を、盤に書き込んでみる。すると、今日の裏切りに明日の裏切りで応じる構えが可能になり、一回きりの盤では立たなかった協調が、均衡として立つようになる。それ自体は、装置の内側で示せる正確な結果である。だが同時に、互いが将来を十分に重んじるかぎり、そうした構えの組み合わせが支えうる配置の集合は膨れ上がることも、同じ装置の内側で示せる。将来の書き込みは、答えを一つに絞るどころか、ありうる答えを増やすのである。

### 焦点——盤の外から流れ込む目印

それでも、現実の調整はしばしば成功する。明日、見知らぬ相手とある都市で会わなければならない、としよう。場所も時刻も、打ち合わせる手段がない。都市には無数の地点と無数の時刻があり、二人が揃いさえすれば、どの組み合わせも等しく均衡である——絶望的な問いに見える。だが、その都市で暮らしてきた読者の頭には、おそらくもう候補が浮かんでいる。誰もが知る駅の、誰もが待ち合わせてきた目印の前。時刻は、正午。そして、同じ候補が相手の頭にも浮かぶはずだと、読めてしまう。数ある均衡のなかから一つが浮かび上がるのは、その配置が皆にとって**目立つ**からである。この選ばれやすさは、**焦点**（focal point）と呼ばれてきた。

重要なのは、目立ちやすさが利得表のどこにも書かれていないことである。正午が浮かぶのは、昼という時間の区切りが共有されているからであり、あの駅が浮かぶのは、その都市に暮らす者たちが地理と歴史を積み重ねてきたからである。左側通行の世界と右側通行の世界を分けるのも、利得ではなく、その社会が引き継いできた慣習である。複数の底のどれに系が落ち着くかを定める最後の一歩は、盤の内側にはない。プレイヤーたちが盤の外から持ち込むもの——共有された歴史、慣習、地理、物語——が、それを埋めている。

### 盤は共同で保たれて初めて働く

さらにその手前に、もう一つの依存がある。盤が盤として働くには、全員が同じ盤を見ていなければならない。しかも、それだけでは足りない。私が左を選ぶのは、あなたも左を選ぶと読むからである。その読みは、あなたも私と同じ盤を見ていて、あなたも私と同じように考えるであろうという確信に支えられている。バインドは、一人の頭の中で完結する操作ではないのである。共同で保たれて、初めて勾配は立つ。

本節の観察は、装置の力を割り引くものではない。存在の保証は、そのまま立っている。ただ、装置の力がどこから来ているかを正確に記すなら、こうなる。均衡の存在は、盤の内側で証明される。均衡の選択は、しばしば盤の外側で行われている。そして盤が盤として働くことも、盤の外側に支えられている。

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## §5-4　バインドの内訳——戦略空間・利得関数・プレイヤー <a id="ch5-s4"></a>

### ゲームをバインドする三つの要素

バインドされた軸が勾配を立て、外れた軸が落ちる。そして立った勾配のうえでも、どの底に落ち着くかの一部は、盤の外が定めている。では、そもそもゲームをバインドするとは、具体的に何を確定することなのか。数えてみると、過不足なく三つある。

第一に、**戦略空間——打てる手の集合**。各人の前にどんな選択肢が並ぶか、そもそも何が盤の上にあり、何が初めから盤の外にあるか。第二に、**利得関数——利得の割り当て**。どの帰結が誰にとってどれだけ得で、どれだけ損か。第三に、**プレイヤー——誰を勘定に入れるか**。誰の利得が均衡の計算に入る当事者であり、誰が利得を数えられない外部——固定されたパラメータ、あるいは盤を動かす条件——に留め置かれるか。

### バインドの最小解剖——三つは必然である

この三つは、恣意的な区分ではない。有限な系のうえに勾配を製造しようとすれば、この三つを確定せねばならない。一つでも欠ければ、勾配は立たない。手の集合がなければ何を比べるべきかが定まらず、利得がなければ得失が定まらず、当事者が定まらなければ誰にとっての得かが定まらない。これはゲーム盤面のバインドの**最小の解剖**である。逆に、この三つが揃えば均衡は計算可能になる。手の集合と利得が定まれば各プレイヤーの最善応答が定まり、当事者が定まれば最善応答の交差点——均衡——が求まる。追加の第四の要素は要請されない。三つは、勾配を製造するための必要にして十分な条件である。

そしてこれは、限界でもある。ゲーム理論は、この三つを**入力として受け取る**。手の集合がどう決まったのか、利得がなぜそう割り当てられたのか、誰がプレイヤーで誰が外部かを誰がどう線引きしたのか——その由来を、装置は問わない。三つはすべてバインドされた条件で渡され、装置はその条件の枠組みの中で解くだけである。

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## §5-5　盤の手前——保証の届かない無限後退 <a id="ch5-s5"></a>

### 仕様の層とプレイの層

ゲーム理論が解くのは、バインドされたゲームの**内部**で、どう指すのが最適か、である。これを**プレイの層**と呼ぼう。だが、どんな帰結がありうるかという空間そのものを決めているのは、その手前にあるバインド——手の集合・利得・当事者の確定——である。これを**仕様の層**と呼ぶ。プレイの層は、仕様の層の上で動く。

### 仕様の層がプレイの層を規定する

この二層には、順序がある。**ありうる帰結の範囲は、仕様の層で決まる**。どんな手が打て、どの帰結に誰のどれだけの利得が対応し、誰の利得が勘定に入るか——これらが定まった時点で、到達しうる均衡の集合はすでに画定されている。プレイの層がどれほど巧みに最適化しようと、その最適化は、仕様の層が画定した帰結の範囲の内側でしか働かない。ゲームをバインドするという操作は、いかなる手が指されるよりも前に、何が起こりうるかを決めてしまっている。

### 装置は自らのバインドを語れない

ところが装置は、自らの仕様の層を**語れない**。ゲームを所与として受け取る装置は、その内側から、バインドがどう選ばれたのかを理論化できない。なぜこの手が盤上にあって、あの手はないのか。なぜこの帰結にこの利得が割り当てられたのか。なぜこの者が当事者で、あの者は背景なのか。これらは仕様の層の問いであり、プレイの層を解く装置の射程の外にある。装置は、自分が立っているバインドそのものを、構成的に語ることができない。

均衡の計算は、与えられた仕様に応じて行われる。仕様がどう選ばれたかは、装置の問いではないのである。装置は、与えられたゲームの内部を忠実に解きながら、その仕様が何を勘定から外したかを語らない。「幼子を抱える囚人のほうを助けるべきだ」といった規範的な発言を、ゲーム理論が発することはない。「このゲームの盤上にはその要素はないので、その情報の有無は結果を左右しない」という構造だけが理論から抽出される。

この沈黙には構造的帰結がある。装置が仕様を語らないとき、仕様の選択——何を盤上に載せ、何を外したか——は、均衡の合理性のうちに溶け込み、選択としては見えなくなる。排除された軸がなぜ排除されたかは問われず、均衡が「合理的である」という記述のうちに、その仕様が選ばれたものであることが不可視のまま運ばれる。

### 書き込めばよいのか——移設される無限後退

ここまでの議論には、自然な応答がありうる。落ちているものが重大なら、盤に書き込めばよい、というものである。帰りを待つ幼子が重大なら、その運命を利得に書き加えればよい。第三者の福利が落ちているなら、第三者をプレイヤーに昇格させればよい。利得関数は書き込みを拒まない。だからこの応答は正しい——書き込みは、常に可能である。

だが、書き込みが変えないものが二つある。

第一に、書き込まれた新しい盤も、また一つのバインドである。三要素を確定しなければ勾配が立たない以上、どれほど豊かに書き込んでも、盤はどこかで閉じられなければならず、閉じられた線の外は、ふたたび勾配ゼロで落ちる。幼子を数えた盤は、幼子の隣に立つ誰かを数えていない。第三者を昇格させた盤は、第四者を背景に残している。書き込みのたびに、中核命題-1（「LEFFLAとLOT」第3章）はそのまま再適用される。勾配ゼロの領域は、消えない。移動するだけである。

第二に——こちらが急所である——書き込みは、ゲームの中の一手ではない。どの軸を載せるか、誰を昇格させるか、どこで盤を閉じるか。これらは仕様の層の操作であり、プレイの層に与えられていた保証は、ここには届かない。プレイの層では、一般的な条件のもとで、誰も一方的に動きたくない配置の存在が証明されていた。仕様の層には、それに対応する定理がない。どの盤が正しい盤か、どこまで書き込めば十分か——それを解く装置は、存在しないのである。書き換えそのものを、もう一枚の盤の上のプレイとして定式化することはできる。だがそのもう一枚の盤も、先にバインドされていなければ働かない。保証は、バインドの後にしか作動しない。だから保証は、バインドする操作そのものには、決して届かない。

こうして、本章が最初に見た無限後退が、姿を変えて戻ってくる。盤の書き換えをめぐって互いの思惑が絡まりはじめれば——あなたがどの軸を載せようとするかは、私がどの軸を載せようとするかの読みに依存し、その読みはまた……——装置が止めたはずの後退が、そっくり同じ形で、盤の一枚手前で再開する。しかも今度は、それを止める不動点の保証が、ない。

無限後退は、解消されたのではない。**盤の上から、盤の手前へ移設された**のである。装置が誇る確かな底は、その手前で盤が現に確定されていることの上に立っている。そしてその確定は、装置の内側からは選択として見えず、装置の外側では、いかなる保証にも支えられていない。

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## §5-6　第Ⅰ部の閉じ——出揃った両極と、線を保つ何か <a id="ch5-s6"></a>

### 両極が出揃った

第Ⅰ部は、ここで閉じる。「世界を切り取る幾何学」（第1章）から「LEFFLAとLOT」（第3章）までが、世界を切り取る操作の幾何と動態を据え、圧縮の二面——LEFFLA と LOT——と、その不可分性（中核命題-1）を確立した。そのうえで、最後の二章が、バインドという一語の両極に立った。「数学の巨大な視界と盲点」（第4章）は、不在の極である。何にもバインドされないがゆえに、記述は巨大な視界を得て、勾配を持たない。本章は、賦課の極である。三要素がバインドされるがゆえに、盤の上に勾配が立ち、外は勾配ゼロで落ち、立った勾配のうえでも、どの底に落ち着くかは盤の外の目印に依存した。両極は、出揃った。

そして、現実の記述装置と意思決定装置は、ある水準を固定して見れば、すべてこの両極のあいだにある。純粋数学ほどバインドを欠いた体系も、ゲームの盤面ほど明示的にバインドされた体系も、極限としてしか存在しない。物理学は、数学の側から出発して、測定でバインドを足しつづける営みだった（第4章）。日々の意思決定は、盤面ほど明示的でないバインドの上で、それでも勾配を読む営みである。そして、両極のあいだのどこに位置を取っても、支払いの構造は変わらない。視界の側へ寄れば勾配が薄れ、勾配の側へ寄れば外が落ちる。中核命題-1 は、この目盛りのどこにも例外を置かない。

ただし、この両極は、世界に固定された二点ではない。両極が両極として現れるのは、一つの水準——どの盤の上で語っているか——を固定したときである。水準を一段上げてみればよい。盤の上では勾配を賦課していた装置が、どの盤を立てるかという水準では、何も定めない体系として現れる。どんな盤も事後的に定式化でき、どの盤が正しいかは言わない。それは、「数学の巨大な視界と盲点」（第4章）が**外接する三角形**と呼んだ体系の位置である。賦課の極に立っていたものが、一段上では、不在の極に立つ。両極は一枚の目盛りではなく、水準ごとに引き直される目盛りである。

無限後退が盤の上から盤の手前へ移設されたこと（§5-5）と、賦課の極が水準を上げると不在の極へ移ることは、同じ移動である。装置の保証は盤の内側で尽き、盤を立てる場所には届かないからである。

### まだ問われていないこと——引かれた線を、何が保っているのか

第Ⅰ部が一貫して取り出してきたのは、内側と外側を分かつ線を引く操作の構造である。だが、五つの章を通じて、まだ一度も正面から問うていないことがある。**引かれた線を、誰が、何が保っているのか**——である。

物理レイヤーでは、この問いは立たなかった。そこでのバインドは自動詞的であり（第4章）、定まっているのであって、定める主体は記述のどこにも現れない。本章でも、盤は装置の外から所与として渡されていた。だが本章が最後に見た二つの事実は、同じ一つの場所を指している。複数の底から一つを選ばせる目印は、プレイヤーたちが共有する世界から流れ込んでいた（§5-3）。そして盤の確定そのものは、いかなる不動点にも支えられない場所で、それでも現に行われ、現に保たれていた（§5-5）。目印の共有と、利得の割り当てと、誰を数えるかの線——これらが立ちつづけているかぎり、それらを保っている何かが、形式の外に立っている。装置はそれを語れない。だが、それなしには一手も指せない。

線を引く操作が、引かれた盤の上に立つ者たち自身によって担われ、共有され、保ち直されるレイヤー——創発した開放系のレイヤーの一つ、意識と文明のレイヤー——では、この「何か」を問うことが、もはや避けられない。避けられない理由は、いま見た目盛りの引き直しにある。線の正しさを裏書きする装置を求めて水準を上げれば、装置はそのたびに不在の極へ落ち、落ちた先に保証はない。それでも、線は現に引かれ、保たれている。保証なしに立ちつづけているものは、形式の外の何かに支えられている——ならば、その何かを問うほかない。それは何によって担われ、どう形成され、どう維持されるのか。第Ⅱ部は、この問いから始まる。
