
# 第4章　数学の巨大な視界と盲点——バインドなき記述体系の射程と限界 <a id="ch4"></a>

ここまでに、知性が世界を切り取る構造を、三つの角度から据えてきた。本章は、これらを記述する語彙そのものを問い直す——とりわけ、科学理論を支える「数理モデル化」という様式を。

人間や意味や社会や文明を厳密に語ろうとする理論は、しばしば数学へと吸い寄せられる。数式は精密に見え、立場を越えて共有でき、客観的に見えるからだ。本書はこの引力に意識的な距離を取り、可能なかぎり散文で記述する。この選択は、本書のモデル図の読み方にも、本書自身の記述にも跳ね返ってくる。

**精密に語るとは、数式で語ることなのか。**

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## §4-1　数学的記述の大きな力 <a id="ch4-s1"></a>

数学的記述は、他のいかなる記述様式とも異なる固有の力を持つ。

### 一つの式が場所を変えて繰り返し現れる——接続空間の広さ

熱がどう伝わるかを記述する方程式と、ある粒子の確率密度がどう拡がるかを記述する方程式と、金融デリバティブの価格がどう動くかを記述する方程式は——書き換えれば——同じ形をしている。熱拡散方程式、フォッカー゠プランク方程式、ブラック゠ショールズ方程式は、それぞれ別の領域で別の動機から書かれたが、形式としては同じ偏微分方程式の家族に属する。誰かが意図して接続を作ったのではない。それぞれの領域を独立に進んだ探究が、後から同じ形に行き着いた。

似た現象は、いたるところで起きている。十九世紀に純粋な代数的興味から発展した群論は、二十世紀に入って結晶構造の分類言語になり、さらに素粒子の対称性の記述言語になった。十九世紀に幾何学として展開された微分幾何は、二十世紀の一般相対論の基礎言語になった。十九世紀の整数論——応用的動機から遠かった数学の領域——は、二十世紀後半に暗号理論を経由して通信網の基盤になった。書き手が想定していなかった領域で、後から発見的に必要な言語として要請される——この奇妙な反復が、繰り返し起きる。

ここに数学の**接続空間**としての機能がある。ある領域で見出された構造が、別の領域で同じ形をとって現れる。記号操作として書かれたものが、書き手の見ていなかった場所に橋を架ける。「自然科学における数学の不合理な有効性」と呼ばれる現象は、この接続空間の機能の濃い徴候である。

### 立場を越えて摩擦なく走る——共有可能性

数学的記述のもう一つの力は、**共有可能性**である。数学的命題は、異なる MANES の主体間で、摩擦なく共有されうる。存在論的立場が根本的に異なっていても——プラトニズムも形式主義も直観主義も構造主義も——、ピタゴラスの定理の成立については合意する。神を信じる主体と信じない主体、東アジアの伝統に立つ主体とヨーロッパの近代的伝統に立つ主体、企業組織の言語を生きる主体と農村共同体の言語を生きる主体——いずれもが、「2 + 3 = 5」については一致する。

この合意は、空間方向だけでなく時間方向にも走る。ピタゴラスの定理は紀元前六世紀の命題であるにもかかわらず、いまも同じ意味で成立する。ユークリッドの『原論』は紀元前三世紀の著作だが、その大部分の命題は現代の数学者にとっても有効である。古典物理学のうちある時代に有効だった部分は、新しい理論が来ても完全に廃棄されるのではなく、より広い枠組みの極限として保存される。数学的成果は退役せず、上に積層する。神学や倫理や歴史や文学が、時代ごとの読み替えを経てはじめて届きつづけるのとは、構造が異なる。

共有可能性は、何らかの努力によって達成されるのではない。それは数学的記述が **MANES に依存しない**ことの直接の帰結である。命題が特定の歴史や共同体や経験にバインドされていなければ、その命題は別の歴史や共同体や経験を生きる主体に対しても、まったく同じ形で立ち上がる。数学が他の知の様式から際立っているのは、この MANES 非依存性が他のどこよりも徹底しているからである。

### 数学的圧縮の特異性——文脈に依存しない

数学的記述のもう一つの力は、**圧縮しても内容が壊れない**ことである。

公理から出発して、定理 A、定理 B、…、定理 Z へと、証明の連鎖が伸びていく。各ステップは前のステップを参照し、形式的に確定された推論で次のステップを導く。連鎖が一度確立されれば、その先は「公理→定理 Z」と圧縮して扱える。中間の定理 A から Y までを毎回展開する必要はない。定理 Z を別の文脈で使う者は、連鎖の存在を信頼して、結論だけを持ち出せばよい。

奇妙なのは、この圧縮が——通常の圧縮と違って——内容を壊さないことである。「LEFFLAとLOT」（第3章）で見たとおり、圧縮は一般に副生物（LOT）を伴う。短くした記述は、元の情報の何かを必ず取りこぼす。だが「公理→定理 Z」という形での数学的圧縮では、中間ステップの省略が定理 Z の正当性を一切損なわない。証明の連鎖は推移的であり、各ステップが形式的に確定している以上、中間を取り除いても結論は同じ強度で立つ。

確かに、別の何かは脱落している。証明を初めて思いついた者の苦闘、発見の動機、教育的順序、歴史的背景——これらは「公理→定理 Z」という圧縮には残らない。しかしこれらはそもそも、数学的内容には属していなかった。命題が成立するかどうかは、それを誰がいつどう発見したかから独立である。だから、それらが落ちても、命題そのものは壊れない。

同じ強靭性が、より日常的な姿でも現れる。マクスウェル方程式の四本、シュレディンガー方程式の一本、F = ma——きわめて短い記法が、世界の広大な領域を運ぶ。これらは無数の派生定理・実験的確認・応用計算の連鎖を背後に持ちながら、その連鎖を毎回展開することなく持ち運ばれる。教科書を開いた誰もが、最初の発見者がたどった経路をなぞる必要はない。記法のこの効率は、連鎖を圧縮しても内容が壊れないという、いま見たばかりの強靭性が記述の水準で現れた姿である。

ここに、圧縮は LOT を副生するという構造（中核命題-1、「LEFFLAとLOT」第3章 §3-3）との、奇妙な関係が立ち上がる。中核命題-1 は数学レイヤーで壊れているのではない。落ちているもの——発見順序・動機・歴史・教育的経路——は確かに副生されている。ただ、それは MANES 依存的な領域に属しており、数学的内容には属していなかった。数学を**数学の内側から**見れば、LOT は副生されていないように見える。この特異な強靭性は、見える視野の側に数学的内容が残り、見えない側に MANES 依存的なものが落ちる、その配分の極限的な姿である。

### 巨大な視界——接続空間、共有可能性、圧縮の強靭性が生む

接続空間と共有可能性と圧縮の強靭性——この三つを合わせて、本書は数学の**巨大な視界**と呼ぶ。第一は領域を横断する力であり、第二は立場を横断する力であり、第三は推論連鎖を縦に圧縮しても内容が壊れない力である。三つは別々の現象ではなく、同じ一つの構造的特性の三つの面である。

その特性とは、数学的記述が**変数や命題を特定の内容や文脈に固定しないこと**である。記号は記号同士の関係の形だけを担い、その記号が何を指すか、どの単位で測られるか、どの範囲で意味を持つかは、数学そのものからは出てこない。だからこそ、その記号は別の領域に持ち込んで同じ関係を担わせることができる（接続空間）。だからこそ、その記号は別の MANES の主体に渡しても同じ形で受け取られる（共有可能性）。だからこそ、長い証明連鎖を結論一行に圧縮しても、内容そのものは壊れない（圧縮の強靭性）。本書は、変数や命題が何を指し・どの値域をとり・どの値に定まり・どの文脈に属するかを、特定へと固定する操作を**バインド**と呼び、数学的記述がこれを行わないことを**バインドの不在**と呼ぶ。「バインド」はもともと物理が変数を特定の値に定める操作を指す語であり、本書はそれを借りて用いる。

これらは数学を数学の内側から見たときの相貌である。だが、内側から見えないものが、外側に落ちている。

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## §4-2　数学の大きな力の先にある限界 <a id="ch4-s2"></a>

### 絶対零度——式が許すもの、系が許さないもの

温度を変数とする数式に、マイナス1000K という値を代入してみる。記号の操作としては、何も壊れない。方程式はその数を受け取り、いつもどおり計算を進める。だが、その数に対応する物理状態は存在しない。絶対零度（0K）は下限であり、それより低い温度の状態というものが——通常の熱力学的な系には——ない。0K は「稀な状態」でも「実現に巨大なコストがかかる状態」でもない。配置の空間の、外にある。

数式は、その外を排除しない。数式は、変数がどんな値を取りうるかについて、それ自身からは何も言わない。それを言うのは——「ここから先はない」と告げるのは——世界がそうなっているという事実の側である。物理学は、量と量のあいだの関係の形を数学から受け取る。だが「ただし温度は 0K 以上」という制約は、数学からは出てこない。世界の側から、測定と観察を通じて、外から与えられる。前節で導入した語で言えば、数式は——その記号操作の水準では——**バインドを持たない**。

注目したいのは、物理学が、あらゆる学問のなかで数学と最も密に結合した営みだという点である。物理学の言語は、ほとんど数式そのものである。にもかかわらず——いや、それゆえに——物理学は変数の値域を絶えずバインドする。光速を超える速度、負の質量、確率の値域の外——数式は書けても、系は許さない。物理学が世界を精確に記述できるのは、数式にバインドを足しつづけるからである。最良の場合ですら、式は世界より寛容なのだ。そしてこの落差は、数学から遠ざかるほど——測定が難しく、検証が遅く、変数の意味が論争的になるほど——広がっていく。

### 三重の盲点

しかし、巨大な視界は無条件のものではない。数学には、視界の巨大さと表裏一体の**三重の盲点**がある。

**第一の盲点は、バインドそのものを問えないことである。** 物理定数がなぜ特定の値を取るのか——なぜ微細構造定数が約 1/137 なのか——は、物理学においても未解決の問いであるが、少なくとも問いとして成立する。物理学は変数に特定の値を**バインド**しているからこそ、「なぜこの値か」を問うことができる。数学はバインドを行わないから、この問いが成立する場所を持たない。「なぜこの公理体系か」「なぜこの構造か」を、数学の内部から問うことはできない。そして同じ理由から、数学は「この値はありえない」とも言えない。マイナス1000K に対応する物理状態がないことを告げるのは、数学ではなく、バインドされた系の側である。〈なぜこの値か〉を問えないことと〈この値は禁じられている〉と言えないことは、同じ一つの欠落——バインドの不在——の、表と裏である。

**第二の盲点は、MANES 依存的変数を定義できないことである。** 「重要さ」を考えてみよう。あるニュースが「重要」であるかどうかは、判断者の射影軸の配置——何を前景化し何を背景化するか——に依存する。「重要さ」を数値化しようとすれば、数値化の基準自体が特定の MANES にバインドされる。数学はいかなる MANES にもバインドされていないから、MANES 依存的な概念（重要さ、美しさ、意味、ふさわしさ）を記述対象として持てない。これは数学の欠陥ではない。数学が MANES に依存しないことが、共有可能性の条件であった。同じ条件のもう一方の面が、MANES 依存的な概念の構造的排除である。

**第三の盲点は、過適合判定の不在である。** 「変数を増やしすぎた記述」が悪いかどうかは、データへの当てはまりが過剰でないかどうかで判定される。これが過適合判定であり、最小記述長（MDL）の議論などが量的に扱う対象である。しかし数学はバインドしないからデータを持たない。データがなければ、「過適合」を判定する内在的基準がない。数学者の美的感覚——「この証明は美しい」「あの体系は不格好だ」——が部分的にこの役割を果たすが、これは数学者の MANES の機能であって数学の内在的原理ではない。

### バインドを欠いた体系——円を外接する三角形

三重の盲点のうち第三のもの——過適合判定の不在——は、もう少し見ておく価値がある。数式の形だけを借りて、その変数の値域をバインドしないまま体系を組むと、何が起きるか。

一枚の図で考えよう。現実——第1章で **R空間**と呼んだ等方的な参照枠——を、一つの円とする。世界についての理論は、その円を多角形で近似しようとする営みである。さて、変数をバインドせずに数式の関係だけで体系を組むと、その体系は——円を外側から包み込む、大きな三角形になる。三角形なのには理由がある。理論はできるだけ短く記述されることを好む——これが記述を圧縮しようとする選好である。現実を覆う多角形のうち、頂点数が最も少なく、最も短く書けるものは三角形である。だから理論は、まず三角形の形をとろうとする。そして、それをバインドするものがないかぎり、三角形は三角形のままでいられる。三角形は円を覆う。理論は現実を覆う。だがそれは、円の外の領域、現実には存在しないのに理論が「それも説明できる」と主張してしまう領域までも、同じだけ覆い込むことによってである。何が起きてもそれを説明でき、どんな観測が出ても辻褄が合う。三角形は縮まない。

バインドを足すと、三角形の角が落ちていく。測定が「ここから先はない」と告げる。複数の独立した探究が、思いがけず同じ形に収束する。これらのバインドはどれも、数学そのものからは出てこない——外から、世界の側から供給される。バインドが一つ足されるたびに、多角形は頂点を増やし、円に寄っていく（六角形、十二角形……）。物理学はこの方向に深く進んだ営みであり、だからその多角形は円にぴったり貼りつく。ただし——外側から、である。決して円そのものにはならない。

ここに一つの構造的なトレードオフがある。**現実をすべて覆うことと、現実でないものを覆わないことと、記述を圧縮することは、同時には成り立たない。** 円を完全に覆おうとして外接すれば、必ず円の外も覆い込む——偽の像が混じる。偽の像を一切混ぜまいとして角を削り、かつ記述を圧縮しようとすれば、多角形は円の内側に落ちる——覆いきれない領域が残る。どの理論も、〈実在しないものまで覆い込む〉か〈実在するものを取りこぼす〉かの、どちらかを必ず抱える。取りこぼす側——多角形が円の内側に落ちる姿——は、第1章の T空間（R空間の内側に収まる有限の射影）がすでに示していた。本章の三角形は、その鏡像である。これは中核命題-1——圧縮の二面の不可分性（「LEFFLAとLOT」第3章）——が、こんどは「世界についての理論」そのものの水準で現れたものである。

![図4-1](../assets/fig/fig4-1.svg)

**図4-1**　左：R空間（現実／円）を外接する「バインドを欠いた記述体系」（三角形）。縞が記述体系の覆う範囲で、円の外へはみ出した部分——記述体系が現実よりも広く覆う「R空間の外側」——が残る。右：バインドを足すと角が落ち（外へ突き出た線が足したバインド）、多角形は円に寄る——ただし外側から、決して R空間そのものにはならない。

### 伝播の勾配——なぜバインドしないほうが広がるのか

バインドすることには、代価がある。変数の値域をバインドすれば、理論の射程はその分小さくなる。「ここから先はない」と告げれば、理論はそこで反証されうるものになる。複数の独立な証拠の収束を待てば、時間がかかる。そして、こうして角を削った理論の成果は——何も起きなかった、という形をとる。回避された災厄、退けられた誤った政策、市場に出なかった危険な薬。これらは、誰の目にも結果として見えない。バインドのコストは前払いで目に見え、その果実は見えない不在として現れる。

バインドを外せば、これらのコストはすべて消える。三角形は縮まないから、体系は事後的に何でも説明でき、無限の射程を持っているように見える。反証されうる点を持たないから、敗北しない。検証を待たないから、速い。そして数式の形をまとっているから、精密に見え、客観的に見え、立場を越えて通用するように見える。数学の巨大な視界の見かけだけを、バインドの代価を払わずに借りている。

ゆえに、伝播の勾配はバインドを外す方向に走る。バインドしない体系のほうが、バインドする体系よりも、大きく、速く、敗北せず、印象的に見える。〈数式らしさ〉そのものが——その数式が何をバインドしているかとは独立に——信頼の信号として受け取られ、消費される。変数をバインドしなければ、数式はほとんど何でも無矛盾に語れる。数学の基底層に携わる者にとっては言うまでもないこの前提が、人間や組織や社会や「画期的な新理論」を語る場面では、しばしば視界から抜け落ちる。これは、その帰結である。誰かが愚かだからではない。バインドの代価と、バインドを外したものの見かけの強さとのあいだにある、構造的な非対称の帰結である。

数学はバインドしない。バインドしないことは、巨大な視界の源泉であると同時に、バインドの代価を払わない体系が構造的に有利になる、その源泉でもある。

### 視界と盲点は同根である——バインドの不在

ここで重要なのは、視界と盲点が同一の構造的条件から派生しているという点である。

数学が巨大な視界を持つのは、バインドの不在による。バインドしないから、いかなる MANES とも摩擦が生じず、共有可能になる。バインドしないから、特定の文脈に固定されず、領域を横断して接続できる。

同じバインドの不在が、三重の盲点を生む。バインドしないから、「なぜこの値か」を問えない。バインドしないから、MANES 依存的な意味を記述できない。バインドしないから、データがなく、過適合の判定基準を持てない。

巨大な視界と三重の盲点は、別々の現象ではない。両者は同じ条件——バインドの不在——の二つの面である。一方を享受しつつ他方を回避することは、構造的にできない。これは「圧縮の二面の不可分性」（有効勾配の増大と LOT 副生、「LEFFLAとLOT」第3章）の、数学レイヤーにおける現れである。

そして、ここから本書の方法的な選択が出てくる。MANES——重要さ、意味、ふさわしさ、共に在りうる範囲——は、まさに数学の盲点に落ちるものである。それを数式に流し込めば、バインドのない三角形になる。意味について何でも事後的に説明でき、何もバインドしない体系。本書が MANES を可能なかぎり散文で記述するのは、厳密さを諦めるためではない。逆である——散文で、特定の歴史に、特定の共同体に、特定の経験に、主張をバインドするためである。バインドするとは、角を削って円に寄せることだ。

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## §4-3　部分的完成モデル——関数形特定とパラメータ未確定 <a id="ch4-s3"></a>

### 関数形とパラメータ——数学が与えるもの・与えないもの

数学の射程と限界をより精密にするためには、「数学は何を与え、何を与えないか」を二つの面から記述する必要がある。本書はこの二面を、**関数形**と**パラメータ**の対比として整理する。

**関数形**は、変数同士の関係の構造である。「F = ma」という表現は、力 F が質量 m と加速度 a の積に比例することを述べている。ここで、F・m・a が具体的にどんな値を取るかは語られていない。語られているのは、三つの量のあいだに成り立つ関係の形である。

**パラメータ**は、変数に代入される具体的な値である。ある質量 m₁ がどれだけの力 F₁ で加速度 a₁ を生むかは、F = ma の関係構造からは決まらない。三つのうち少なくとも二つの値が、外から与えられる必要がある。

数学が与えるのは関数形であり、パラメータは数学からは出てこない。F = ma は、関数形としては完成している。だが、ある物体の質量が何キログラムであるかは、測定によってしか定まらない。測定とは、まさに**バインド**の操作である。

### 物理学の二段階バインド——物理定数と測定

物理学はこの構造を、二段階のバインドによって運用している。

**第一段階のバインド**は、世界の側で値や値域が定まっていることである。光速 c、プランク定数 h、微細構造定数 α——これらの物理定数は、物理学が記述する宇宙において特定の値を取る。この値を、関数形をどれほど解析しても導き出すことはできない。宇宙はそうなっている。第一段階のバインドは主体不在の確定であり、文法になぞらえて言えば自動詞的である。「定まっている」のであって、「定める」主体は記述のどこにも現れない。絶対零度（§4-2 冒頭）は、この第一段階のバインドの一例である。温度に 0K という下限があるのは、世界がそうなっているからであって、定める操作を経たからではない。

**第二段階のバインド**は、測定である。ある特定の物体の質量、ある特定の電場の強さ、ある特定の時刻の位置——これらは測定によって確定される。第二段階のバインドは主体がいる確定であり、他動詞的である——観測者が、装置と手続きを通じて、値を「定める」。

物理学は、第一段階と第二段階のバインドのあいだを往復する。理論側が関数形を提供し、第一・第二バインドの両者を経て、理論は世界の特定の状態に貼り付けられる。物理学が世界を記述できるのは、数学的関数形と二段階のバインドの合成によってである。

### 部分的完成モデルとしての数学

ここに、数学の射程と限界の本性が現れる。数学は、関数形については完成度の高い記述を与える。しかしパラメータについては未確定のままである。本書はこの構造を**部分的完成モデル**と呼ぶ。

部分的完成モデルとは、ある対象の記述のうち、関係の構造（関数形）は完成度が高く、特定の値（パラメータ）は未確定のまま残されている記述形式である。数学的記述は、この意味で本性的に部分的完成モデルである。

部分的完成モデルは欠陥ではない。むしろこの構造こそが、数学の巨大な視界の正体である。関数形だけで完成しているからこそ、その関数形は異なる MANES の主体間で共有でき、異なる領域に転用できる。パラメータが未確定であるという同じ条件が、共有可能性と接続空間を可能にしている。

しかし、MANES の記述という課題に対しては、この構造は限界としても作用する。MANES そのものは、特定の歴史・特定の共同体・特定の経験の蓄積の上に成立する具体性を持つ。MANES の関数形——「MANES は座標系・報酬関数・共存条件の三層構造をとる」——は数学的に記述しうる。しかし、ある特定の MANES（ある共同体の、ある時代の、ある歴史的経験を引き受けた MANES）の具体的内容は、数学的記述だけでは捉えられない。具体的内容は、第二段階のバインドに対応する作業——歴史記述、人物群像研究、文学的描写、当事者の語り——を通じてしか接近できない。

### 本書における関数形の使用——構造記述の範囲

ここで、本書自身の立場をはっきりさせておく。本章は §4-2 で、変数をバインドしない数式の体系——円を外接したまま縮まない三角形——から距離を取った。だがそれは、本書が関数形を一切使わないという意味ではない。本書はしばしば、構造記述のために関数形を用いる。「どこに境界があるかは特定できないが、この方向に滑落の勾配がある」「この量がある閾値を超えると、系は別の相へ移る」「この因果は一方通行で、戻ってこない」——こうした方向・閾値の存在・不可逆性についての洞察は、関数形から、具体的な値を一つも知らなくても、読み取れる。本書がこの範囲で数式を用いるのは、関数形がまさに「部分的に完成した記述」だからである。形は与えられているのだから、その形から読めることは読む。それ以上は読まない。

一つ、本書自身がすでに用いた関数形を例に、この構えを具体的に見ておく。「圧縮から創発する世界」（第2章）は、選別構造が立つときに引き出せる仕事の量を、有効勾配の急峻さと流量の積という形でおいた。この積の形から読めることは、値を一つも知らなくてもある。勾配が急峻なほど、また流量が大きいほど、取り出せる仕事は増える。そして、勾配が立たなければ、あるいは流れがなければ、他方がどれだけ大きくとも仕事はゼロになる。増減の方向と、消失の条件。ここまでが、積という関数形が与えるものである。

一方で、この形は、ある特定の系が実際にどれだけの仕事を取り出すか——その値——を与えない。積の比例係数も、勾配や流量を測る単位も、形の側からは出てこない。それらは、F = ma の質量が測定を要したのと同じように、第二段階のバインドを経なければ定まらない。だから本書は、この積を、方向と消失の条件を読むための関数形として用い、そこで止める。積の形が特定の関数として一意に導かれたと主張することも、この形の威光を借りて「この系の仕事量はこれだけだ」と語ることも、しない。関数形が与えているのは形であって、値ではないからである。

危ういのは、関数形を使うこと自体ではない。関数形が与えていないもの——パラメータ、境界の正確な位置、具体的な予測——まで、与えているかのように振る舞うことである。そして、その振る舞いをバインドせず、誤りうる形にしないことである。

その滑落の一つの経路を例示する。関数形に整合しそうな、しかも測定できる代理指標を一つ見つけてくる。その代理指標を、関数形が本来扱っていた量そのものとして扱う。そして、その代理指標を上げ下げする設計を語りはじめる——あたかも関数形が、その設計の効き目まで保証しているかのように。代理指標を立てること自体が問題なのではない。代理指標と本来の量との結びつきもまたバインドされている——測定で確かめられている——かぎりは、問題はない。問題は、その結びつきをバインドしないまま、関数形の威光を借りて代理指標の操作を語ることである。ジレンマは、こういった滑落が「現実をより良くしたい」という純粋な善意を動機にしても起こり得ることである。

本書は、関数形から読み取れる構造的洞察を、関数形が及ぶ範囲のものとして提示する。「境界は構造的にはこの先の方向にあるはずだが、その位置は本書の手段では特定できない」と明示する。それが、§4-2 の三角形を縮める操作、角を削って円に寄せることにほかならない。関数形を用いることと、バインドを欠いた体系へ滑落することのあいだの分かれ目は、与えていないものについて沈黙するか、それとも与えているふりをするか、にある。本書は前者を選ぶ。

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## §4-4　幾何学——巨大な視界と盲点の一事例 <a id="ch4-s4"></a>

数学の巨大な視界と盲点を、一つの事例として幾何学に即して見る。幾何学は、数学のなかで「量が測定できなくても成り立つ構造や関係」を扱う領域である。多くの読者にとって幾何学は小学校の「ずけい」の延長として記憶されているが、専門的には幾何学は図形そのものを扱う学問ではない。

### クラインのエルランゲン・プログラム

十九世紀の数学者フェリックス・クラインは、それまで個別に発展してきた諸幾何学を統一する視点を示した（エルランゲン・プログラム、1872）。それによれば、幾何学とは**ある変換群のもとで不変な性質を研究する学問**である。

ユークリッド幾何学では、回転や平行移動のもとで距離と角度が不変。射影幾何学では、視点を変える変換のもとで複比が不変。位相幾何学では、連続変形のもとで連結性と穴の数が不変。リーマン幾何学では、多様体上の計量や曲率が研究対象となる。それぞれが扱う「不変なもの」は異なるが、いずれも「ある変換のもとで何が残るか」という同じ構えのうえに立つ。

つまり、どの幾何学も「**何を変換と認めるか**」「**何を不変量として残すか**」という二つの問いの上に立つ。この構えこそが、幾何学に**巨大な視界**を与えている。変換群の選び方を変えれば、それまで個別だった分野が同一の枠組みに収まる。

ただし、その選択そのものは幾何学の内部からは正当化できない。なぜユークリッド変換を用いるのか、なぜ射影変換を用いるのかは、対象の側の都合か、扱う者の選択である。幾何学はその選択を所与として、選ばれた変換のもとで何が残るかを示せるだけである。これが幾何学のもつ**盲点**である。

### 量の手前で構造を扱う——直角三角形の場合

幾何学が「量の手前で構造を扱う」とはどういうことか。

ユークリッド幾何学の直角三角形を例にとる。辺の長さは絶対量を測らなければわからない。だが「直角が一つあり、残る二つの角の和が90度である」「直角二等辺三角形であれば、残る二つの角はそれぞれ45度である」という構造は、絶対量を一切測らなくても導かれる。この構造は、図形の大小によらず、回転や平行移動を経ても保たれる。

幾何学が扱うのは、こうした「量を測らなくても成り立つ関係」である。図形は便宜的な姿であって、本質ではない。

### 次元を潰すと図形になる——建築設計図とメルカトル図法

それでも幾何学は図形のなかに現れる。なぜか。それは、私たち人間が高次元の構造を直接知覚することができず、二次元あるいは三次元へと潰した射影像に依存して認識するからである。

建築設計図はこれを最も身近に示す。同じ一つの三次元の建築物を、平面図は真上から、立面図は真横から、パース図は斜めから——それぞれ異なる射影法で潰した像である。平面図では高さの情報が失われ、立面図では奥行きの情報が失われ、パース図では視点から見えない角度にあるものが失われる。

地図の射影法も同じ構造を示す。メルカトル図法は、球面である地球を平面に潰した射影の代表例である。緯度・経度の格子と方位（角度）は保たれる。だが面積は高緯度ほど大きく歪み、グリーンランドはアフリカ大陸ほどの大きさに描かれてしまう。航海のために方位を保つことを選んだ射影法は、その選択ゆえに面積を歪める。モルワイデ図法は逆に、面積を保存し、形と方位を歪める。両者は同じ球面の異なる射影であり、保存する性質が異なる。

つまり、次元を潰せば、潰した次元にあった情報は必ず失われる。そして、何を残し何を失うかは、対象の側にあるのではなく、選ばれた射影法のうちにある。

### 数学的記述も一つの射影法——メルカトル図法的認識論

ここから一歩進めるなら、こう言い直せる。数学的記述それ自体もまた、一つの射影法なのである。

部分的完成モデルとは、関数形は完成度が高く、パラメータは未確定のまま残る構造であった（§4-3）。これを、いまの射影論の語彙で言い直してみる。数学的記述という射影法が保存するのは**関数形**、すなわち変数間の関係の向きと型である。「A が増加すれば B も増加する」「C は D の二乗に比例する」といった関係の形である。代わりに、それが歪め・脱落させるのは**パラメータ**、すなわち具体的内容である。「A が増加すれば B も増加する」という関係を現実に対応づけるには、A と B が何であるか、その単位は何か、どの範囲で関係が成り立つかが、数学の外部から——内容的バインドとして——供給されなければならない。

メルカトル図法が方位を保存しつつ面積を歪めるように、数学的記述は構造的方向性を保存しつつ内容的バインドを脱落させる。本書はこの認識論を**メルカトル図法的認識論**と呼ぶ。これは数学の欠陥ではなく、数学が数学であることの構造的特性である。

### 複数射影法の併用——本書の方法的前提

メルカトル図法的認識論からは、一つの含意が直接に導かれる。**数学だけでは世界の全体を捉えられない以上、別の射影法との接触が構造的に要請される。**

地図の世界では、メルカトル図法だけを使っていれば、北極圏が異常に巨大であるかのような認識が生じうる。モルワイデ図法やランベルト正積図法を併用することで、面積についての歪みが是正される。複数の射影法の併用は、単一の射影法では構造的に到達できない認識の補完である。

同じ構造が、世界の記述についても成り立つ。数学的記述は構造的方向性を保存するが、内容的バインドは脱落する。歴史的記述・哲学的考察・文学的描写・現象学的記述——これらは数学とは異なる射影法であり、それぞれ異なるものを保存し、異なるものを歪める。MANES の記述という課題に対しては、これら複数の射影法の併用が構造的に要請される。

本書は、この複数射影法の併用を方法的前提として置く。本書の中核的な装置は数学に近い精密性を志向するが、その精密性が捉えきれない次元については、別の射影法に委ねる。

### 本書のモデル図はどう読むか——超高次元の幾何の射影像

ここまでの議論を、本書のモデル図に折り返す。

人間は、パース図的な三次元射影までは、視覚で補いながら認識することができる。専門訓練を受けた者は四次元程度まで想像できると言われる。それ以上の高次元は、数式の上では取り扱えるが、絵として認識することはできなくなる。私たちが扱える幾何学的な像は、ここで天井に当たる。

ところが、本書が扱う対象——文明、選別構造——は、本来は超高次元の幾何である。一つの文明は、時間・空間・行為者・媒介の絡まり合いが生むおびただしい数の変数の上に立ち、一つの選別構造はそれが切り取る無数の軸を抱えている。

これらを人間が直観できる形で描こうとすれば、二次元あるいは三次元のパース図に潰すしかない。本書に登場する図は、いずれもその種の潰し方を経た近似像である。たとえば、三軸の座標系、四類型、三つの多角形が重なる場、漏斗の三層構造である。次元を潰せば情報は失われる。本書のモデル図にも、必ず失われた次元がある。

読者にお願いしたいのは、そのことを承知のうえで本書に登場する図を読んでいただくことである。図は対象そのものではなく、対象の射影像である。図は何を残し何を失っているか——どの方向に潰しているか——を、読みながら問うていただきたい。

そして、図だけでは捉えきれないものを、本書は散文によって——歴史的・哲学的・文学的な記述によって——補おうとする。本書が散文を主たる記述媒体としつつ、随所で図を用いるのは、複数射影法の併用という方法的前提の現れである。

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## §4-5　自己回帰性——数学の盲点と本書との対峙 <a id="ch4-s5"></a>

### 本書もまた、あるバインドの産物である

ここまでの議論は、数学的記述を対象として展開してきた。巨大な視界、三重の盲点、部分的完成モデル、幾何学という事例、メルカトル図法的認識論、複数射影法の併用である。しかし同じ視線は、本書自身に跳ね返ってくる。

本書は MANES を記述しようとしている。だがその記述は、いかなる MANES にもバインドされない純粋な数学的構造記述ではない。本書には、引き受けている時間構造があり、依拠する語彙があり、想定する読者像があり、しばしば立ち戻る歴史的事件と制度がある。これらはいずれも、特定の歴史・特定の共同体・特定の経験の蓄積の上に成立している。すなわち——本書もまた、あるバインドの産物である。本書は、ある MANES の内部から書かれた記述である。この構造を、本書は**自己回帰性**と呼ぶ。

「バインド」という語を本書自身に向けて用いることには、一つの自己言及が含まれている。後段で見るように、本書がこの語を自分に向けて使うとき、その適合は完全ではない。それでもなお本書がこの語を自分に向けて使うのは、より適合的な語をまだ持たないからであり、その不適合それ自体が、本書の射程の限界の現れである。本書は、自分が完全には言い当てられない語で、自分のことを語っている。

語の選択だけではない。本書の記述語彙のいくつかは、別々の足場から出発した複数の記述を、一つの語彙に束ねた結果である。束ねて得たものは、一貫した読み通しである——読者は一組の語彙で序論から結論まで進める。有効勾配は上がる。だが同じ操作が、それぞれの記述が別の足場に立っていたという情報を落とす。どの語がどの足場から来たか、足場ごとに分節がどう違っていたかは、束ねられた語彙の表面からは読めない。たとえば第2章 §2-3 の三条件は、別々の分節でたどり着かれた先を、一つの語彙で受け止めた形である。圧縮は、有効勾配を高めるのと同じ強度で、乗らなかったものを LOT として副生する（中核命題-1、第3章 §3-3）。この命題は、本書が自分の語彙を編んだ操作そのものにも、そのまま働いている。本書は圧縮を語る本であると同時に、圧縮の産物である。

自己回帰性は本書の欠陥ではない。むしろ、本書が MANES の理論として一定の一般性を持っていることの帰結である。MANES が人間の選別構造であるという主張が正しいかぎり、その主張をなす本書もまた、ある人間の選別構造の中で書かれている。理論が自分自身の患者であることは、理論が十分に一般的であることの帰結であり、同時にその代価である。本書はこの自己回帰性を、無効化すべき問題としても、解消すべき矛盾としても扱わない。これは本書の方法的位置の指標——どこから、何を引き受けて語っているか——の表示である。

### 数学の盲点と本書が向き合うとき

自己回帰性は、本書が MANES を数理化しようとするときに、より具体的な姿で立ち上がる。それは数学の盲点——バインドの不在（§4-2）——が、文明レイヤーを語る試みの内部で姿を変えて反復するものである。独立した複数の論点というよりは、一つの構造的事実の異なる現れである。

まず、本書の中核概念「**バインド**」という語（§4-1）そのものが、物理レイヤーから借用したアナロジーであり、文明レイヤーには完全には適合しない。物理学が定数と測定によって変数を「定める」ときの確定性と、文明が言語・制度・歴史を通じて「定める」ときの確定性は、構造が違う。後者には主体不在の自動詞的確定はなく、第二段階のバインドが連鎖的に積層して固まっていく。だが本書はその不適合を、別の語彙を持たないまま、不適合な語を使いながら指摘するほかない。語の選択それ自体が部分的に MANES 依存的であり、本書はその不適合を内部から完全には測れない。

次に、本書の主題である MANES の具体的内容——ある共同体の、ある時代の、ある歴史的経験を引き受けた具体性——は、部分的完成モデルの構造（§4-3）によって、関数形の側には乗らない。MANES の構造は関数形として記述しうるが、ある特定の MANES が何を引き受け、何を排除しているかは、内容的バインドの領域に属する。メルカトル図法的認識論（§4-4）で言えば、数学的記述は構造的方向性を保存しつつ、内容的バインドを脱落させる射影法である。MANES を数式に流し込もうとするとき、まさにそこから滑り落ちるものが MANES の具体性である。これは「LOT 副生」（§4-2 末尾）が、本書を書く操作それ自体に向き直った姿である。

そして、本書が最も問わなければならない種類の問い——「この座標系でよいのか」「何を前景化すべきか」——は、関数形のレベルでも到達できない。これらは関数形以前の問いであり、関数形を選ぶ操作そのものへの問いだからである。データによる事後確率の更新も、変数をバインドし直す測定も、こうした問いには届かない。「バインドを欠いた体系」（§4-2）は、バインドを足すことで角を削り、円に寄せられた。だが本書が直面する問いは、何をバインドとして引き受けるかの選択そのものであり、その選択自体をバインドする外部基準を、本書は持たない。

これらは独立の困難ではなく、一つの根を共有している。その根とは、数学の盲点——バインドの不在（§4-2）——を、文明レイヤーにそのまま持ち込めないことである。数学はバインドしないがゆえに巨大な視界を持ち、本書はそれを記述語彙として用いる。だが本書の対象（MANES）はまさにバインドの産物であり、バインドしない語彙でバインドの産物を語ろうとするところに、いま見た困難が同時に立ち上がる。本書は万能の理論ではない。それは欠落ではなく、ある MANES の内部から MANES を語るという立場が必然的に負う、構造的な有限性である。

### 外からバインドを受け取れない位置

本章が問い直してきたのは、第1〜3章が世界を切り取る構造を語るのに用いた、記述語彙そのものである。「世界を切り取る幾何学」（第1章）は射影軸の選択として、「圧縮から創発する世界」（第2章）は圧縮とその副生物として、「LEFFLAとLOT」（第3章）は接続可能圏の内側における選別構造として、それぞれ内側に取り込まれるものと外側に落ちるものとを分かつ線を立てた。本章はこの線を、第1〜3章と質的に異なる場所で見た。記述語彙そのものが、私たちの宇宙の内側だけを語る装置ではない場所で、である。数学は、私たちの宇宙の外側まで同じ無矛盾性で語ってしまう。それゆえ、内側と外側を分かつ線そのものは、数学の外から——物理学が、測定が、複数の独立した経路の収束が——バインドし直さなければ立たない。

ところが本書は、そのバインドを外から受け取れない位置で書かれている。文明レイヤーを語る理論には、物理学に与えられたような測定とバインドの経路が開かれていない。本書は何でも事後的に説明できる**外接する三角形**——現実を覆うが、現実でないものまで覆い込む体系——のかたちで、整って見えかねない。文明を語る位置に立つかぎり、この傾きから自由ではいられない。**自己回帰性**と、数学の盲点が本書に向き直るときに立ち上がる困難は、外からバインドを受け取れない理論が自分で自分にバインドを課すためのかたちである。本書がどこまでをどう語り、どこから先は語らないかの**有限性**を、自分自身に向けて言明する操作にほかならない。

ここまで本章が見てきたのは、バインドが**ない**ことの極である。だが、内側と外側を分かつ線を引く操作には、もう一方の極——バインドを**賦課する**極——がある。「ゲーム理論の強さと限界」（第5章）はその極へ進む。両極が出揃うところで、第Ⅰ部は閉じる。
